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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子― 一章 
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風吹く都


 季節の花や吉兆の花毬などを精密に模した生菓子が店先のガラス棚に並ぶ。宝石のような輝きのある生菓子の価格は想像ができなかった。草菓庵のような高級店は店先に値札を下げない。

 麻色の大きな布の端に紺色で草菓庵の印を打った看板が、入り口脇で揺れる。木戸を先に開いたのは、馬を動かしてくれた男だった。

「ごめんください」

「へえ、ようお越しくださいました」

 店の中から店名を記した腰巻を付けた男が愛想よく出てくる。店員は男の背後に目をやり、車を見るなり笑みを深くした。

「桜花蒼姫さんですなあ、毎度ありがとうございます。少々お待ちください」

 男が何を言うでもなく事が勝手に動いて行く。店の中にはガラス張りの棚が並び、やはり上等な生菓子や乾物などが上品に並べられていた。店員はその奥ののれんを潜り裏に控えている従業員に声をかけた。

「おおい……蒼姫さんの菓子を運んでおくれ」

「ちっこいの。おまえ使いを頼まれていたじゃろ」

 男がティナを見下ろす。緑の目がティナの胸元から覗く手紙を指した。

「ここはわしがやっとく。お前先に使いを済ませて来い」

「え、でも……」

 菓子を受け取ってくるよう命じられたのはティナだ。男にしてもらっては何もしていないことになる。

 男は店の奥を見た。

「草菓庵さんは従業員が全部やってくれる。わしが何をするでもない。そんなことより、この後旦那様をお迎えに上がらないかんからな……はよう用事を済ませた方がええんじゃ」

「あ、はい。じゃあよろしくお願いします」

 ティナは深く頭を下げると通りに目を向けた。建物に地味に掲げられた看板を探すのは慣れていないと手間だ。二件隣りとなる建物を一通り見渡し、大通りを挟んだ二件隣に赤萄嵐の名を見つけた。黒い柱が目立つ楼閣の隅に書いている。看板から視線を落として行ったティナは顔を歪めた。

 妓楼と見紛うほどの贅を尽くした建物だった。柱という柱には絵が掘られており軒に連なる灯篭は柱と同じ黒でありながら緻密な透かし彫りが入っている。通りに面した軒の下には赤いのれんがずらりと並び、のれんに記された文字は酒の各種銘柄だ。更に入り口脇に飾られた大きな壺。それは居酒屋を意味していた。

「まだ開店前じゃ……酔客もおらん。はよう行ってこい」

 内心を読んだ下男に背を押され、ティナは重い足を引きずって人で賑わう大通りを横切る。店の戸を叩いてみたが誰も答えなかった。開店前だから誰もいないのだろうかと木戸を押し開くと、綺麗に磨き上げられた黒い石の床が視界に映った。濃い色の机が並んでいるがどれも艶を放っており、居酒屋特有の退廃的な空気は全くなかった。各机の周りに囲いがあり、全てが個室使用であるところを見ると、シャグナのような人間が使う店なのだろう。

 奥にある一人客用の席の向こうで何事かしていた男が顔を上げた。細面の男は赤萄嵐の名前を肩から斜めに記した着物を着ていた。

「おや、こんにちは。いかがしましたかお嬢さん」

 にっこりと笑んで近づいて来られ、ティナは面喰った。見てくれを見るなり邪険に扱われるとばかり思っていた。使い古した着物を身に付けた子供を前に、男は腹の前で両手を重ねて尋ねてくれる。

「開店前なもので、気付かずに申し訳ありません。お酒をお求めでしょうか?」

 ティナは慌てて胸元から手紙を出した。

「あ、あの……桜花蒼姫の主人の使いで参りました……えっと、こちらの若様にお渡しするようにと……」

 男は細い目を更に細めて頷いた。

「ああ、ジンキ様に……少々お待ちくださいね」

 手紙を渡してくれるだけで良いのに、男はそのジンキとかいう相手を探すつもりのようだ。引き止めようと身を乗り出したティナの手の先で、男は顔を上げた。

「ああ、いらっしゃったんですか若旦那」

 一人客用の長机の奥に通路があり、闇に沈んだのれんの向こうから赤銅色の髪を持つ男が現れた。吊り上った琥珀色の目は男を見下ろし、次いでティナを見やった。シャグナと同じかそれよりも背が高い。大きく開いた胸元から肉厚な胸板が覗いている。筋肉質な体つきのせいで存外大きな男に見えた。シャグナと違う種類の色香を漂わせながら、当人は気付いていないような雰囲気だった。

「なんだよ……」

 眠そうな声でジンキが尋ねると、男は笑みを浮かべたままティナを紹介した。

「桜花蒼姫のお使いの方がいらっしゃいましたよ」

「……お前が?」

 明らかに睨みつけられ、ティナは身を縮こまらせた。香の匂いが溢れる手紙を両手で差し出す。

「は、はい。これをお渡しするようにと……旦那様より言いつかりました!」

「……旦那様ねえ……」

 指先で手紙をひったくると、目の前で手紙を開き始めた。乱雑に開いた手紙の文面を一通り読んでいる間、もう帰って良いのかどうかわからずジンキと店の男を交互に伺う。店の男は申し訳なさそうに笑んだ。

 手紙を読み終えたジンキは紙で肩を叩きながら口の端を上げた。

「お前見ない顔だなあ……名前は?」

 ティナは両手を胸の前で祈るように絡ませ、小さく応える。

「最近雇っていただいたばかりで……あの、ティナと申します」

 男が眉を上げ大きく口を開いた。

「ティナぁ? そうか、お前がチビか! はははは! なるほどねえ、はははっ。分かるわ!」

 大笑いされ、ティナは頬を染めた。ティナは年齢の割に体が小さく肉付きが悪い。それを遊女や番頭に揶揄されることが多く、きっとシャグナもその特徴を話していたのだ。

「若旦那……失礼ですよ。お控えください」

 店の男にたしなめられるが、ジンキは気に留めた様子はない。ティナの顎を強引に指先で持ち上げ値踏みする。

「ふうん……桜花蒼姫の人間ならもっと手入れしろよ。下女だか何だか知らねえが、桜花蒼姫の名前を使う以上看板背負ってんだぞ。分かってんのか?」

「……え?」

 ティナは目を見開いた。その表情を見たジンキは意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「なんだよ、自覚ねえのか。つまんねえ奴だな」

 ティナは俯いた。出会ったばかりの相手に否定される自分が情けなくてたまらなくなる。こんな下女の仕事をするためにジ州へ来たわけではないのに。きつく唇を噛むと頭上で鼻を鳴らす音が聞こえた。顎に触れたままだった指先が無理やり顔を仰向けさせる。

「ジンキ様」

 店の男がさすがに眉根を寄せた。ジンキは構わず唇を噛んだティナの双眸を冷淡に見下ろした。

「人にこき下ろされて腹立てるような矜持があるんだったら、それをもっと違うところに向かわせるんだな、嬢ちゃん」

 言いながら親指がティナの唇を撫でた。びくりと肩を揺らす反応を見て、ジンキは面白そうに顔を近づけた。

「そうそう……そういう初心な反応は嫌いじゃねえぜ」

 恥辱でティナの目じりに涙が溜まる。

「……ジンキ様、いい加減にしないとシャグナ様に怒られてしまいますよ」

 店の男が肩を落としてぼそりと呟いた。

 ジンキはおどけた仕草で両手を上げた。

「おっと、そりゃあやべえ。天下の桜花蒼姫に愛想尽かされたら俺の店はお先真っ暗だ」

 ティナは悔しさをどうすることもできず、深く頭を下げた。

「……失礼いたします」

 一刻も早くこの場から逃げ出したい。震える手で扉を開いた時、ジンキが背中に声をかけた。

「香露でも使えよ、嬢ちゃん。女の唇が荒れてちゃあ色気もくそもねえぞ」

 香露は唇に塗る油だ。ほんのりと香る油で保湿効果と色香を漂わせる高価な薬だった。ティナは強く唇を噛んだ。

「そんなもの……買えるような立場じゃありません」

 贅を尽くした生活を送る人々に囲まれ、自分が惨めでならなくなる。着物一つ買えず、己の姿をかえりみる余裕さえない。

 顔に射した光は強く、ティナは光を避けるように俯いたまま足早に立ち去った。

 どうして自分ばかりが馬鹿にされなければならないのか。悔しさで爆発しそうな心を抱えて地面を睨みつけていたティナは、大通りを横切る途中で人にぶつかった。ぴちゃりと顎が濡れる感触に顔を上げると黒い目とかちあった。

「あ、すみません……」

 黒い目しか見えなかった。黒い布で頭と口元が覆われている。視線を落とせば黒い外套で全身を覆い尽くしていた。男か女かも分からない相手は一瞬こちらを見下ろし、何も言わず駆け去った。

 濡れた顎を拭う。ティナは手の甲を見てぽかんとした。

「……血?」

 風が吹く。赤黒い液体から鉄臭いにおいが漂った。

 通りの奥を見ると、立ち並ぶ建物の向こう側で、空が真っ赤に染まっていた。


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