甘い両手
大小の金箔張りの壺が棚という棚を飾り立てた部屋の中央で、その男は椅子を軋ませた。中肉中背の見てくれに対し、彼の椅子は既に壊れかけている。日頃から背もたれに体重を掛けては椅子に無理を強いた結果、男の椅子は三月と持たなかった。
「一体どこで手管を覚えたんだか……」
嫌悪に染まった目がティナを睥睨する。ティナは唇を噛んだ。床に敷き詰められた緑色の絨毯の模様は壺。小さな壺が無数に並ぶ様を見ていると吐き気が込み上げた。
「そんな痩せぎすのくせに、旦那様に色目を使うだなんて畏れ多い」
ティナは俯く。質問をされるまで決して顔を上げてはいけない。ここにきて数週間で学んだことだった。
「自分が無能なことは棚に上げて私を悪者に仕立て上げるだなんて。誰のおかげで下女として働けていると思っているんだい」
少なくとも男の――番頭のおかげではない。
「まただんまりかい。お前に口はないのかい。ええ? 何とか言ったらどうだい!」
ティナは俯いたままぼそりと応えた。
「お言いつけを守れず……申し訳ありません……」
昼の三時を過ぎても、ティナは妓楼の周囲の草刈りを半分までしか終わらせられなかった。なんとしても終わらせようと焦った折に、番頭に呼ばれた。丁度シャグナが口添えをした直後だったようだ。無理を強いていると遠まわしに言われた番頭は激昂していた。
「本当に申し訳ないと思っている奴はそんな顔をしないんだよ!」
番頭が机を叩くと鼓膜が痺れるほど大きな音が上がる。音に驚いて肩がびくりと跳ねた。
申し訳ないなどと思うはずが無かった。開店時間までまだ三時間ある。もしかしたら終わったかもしれないのにと思うと、余計な口を指したシャグナが憎くてたまらなかった。
答えないティナにしびれを切らした番頭は大仰に溜息を吐き出すと、虫を払うかのように手を振った。
「もういい。都まで今日の手土産を受け取りに行くんだ。開店までにだよ!」
「……え」
ティナは初めて顔を上げた。手土産は毎夜遊女を買った客が帰る際に渡す上等な生菓子の事で、その数は毎日二百個揃えている。下男が二人で馬車を使って用意している品を、馬車の使い方も知らないティナがどうやって運べばよいのか。
番頭の口髭が吊り上った。
「なんだい、一丁前に文句を言うつもりかい?」
反論をすれば仕事を奪われるだけだ。どうにかして馬車を動かしてもらわなければならないが、恐らく番頭は下男にティナを手伝わないように言うだろう。
「でも……馬の扱い方を知らなくて……」
番頭の目がにいと歪んだ。
「馬なんて上等なもの、お前如きに必要ないさ。荷車がある。裏の荷車を使え」
馬小屋の脇にとうの昔に朽ちた荷車があった。人間が手で押して運ぶ形の木の車だ。土埃にまみれた車は動きそうもないと記憶している。だがそれを使う以外方法はない。
ティナは無理難題ばかり言い付ける番頭を心の内で呪いながら、頭を下げた。
「……畏まりました」
板張りの廊下を足音を立てないように渡っていたティナは、廊下の奥に人影を見つけて眉間に皺を寄せた。匂い発つような色香を全身から放ちながら、その顔は他人を小ばかにした笑みを浮かべている男――シャグナだった。上等な薄青色の着物を惜しげもなく床に垂らして下男と話し込んでいた彼は、廊下の奥――番頭の部屋から下がるティナに気付くとほんの僅か眉を上げた。
「ああ、チビ。こんなところにいたのか……丁度良い。使いを頼まれておくれ」
ティナはとっさに顔を強張らせた。
番頭よりも支配人の方が格上だが、番頭の命令を退けてシャグナの使いを引き受けるような意気地は無かった。俯くしかできない。
「あ……申し訳ございません……都への使いを承っておりまして……」
頭上で首を傾げる衣擦れの音が聞こえた。
「そう……私も都への用があるんだ……。丁度いいから一緒においで」
「……?」
見上げると、彼は感情の知れない笑みでこちらを見下ろしていた。
「今日の手土産を受け取りに行くのだろう……?この頃のシタンは少し物騒だ……お客様の手土産を奪われてもいけないからね。馬を使った方が良い……」
シャグナが目配せをすると、下男は訳知りの様子で下がった。馬車の用意をしに行くのだろう。
ティナの頬は紅潮した。全てお見通しだと言わんばかりではないか。手押し車を引いて都へ行こうにも、ティナの足では都まで一時間半はかかる。開店時間までぎりぎり間に合うかどうかの頃合いで、しかも荷を大量に抱えての道中となるため物取りに合う可能性もあった。
俯いた視界の中にあった薄青色の衣がするりと音を立てて廊下の奥へ動いて行く。
「おいで、チビ……」
ティナは、自分の目じりに溜まった液体がなんであるのかを考えることさえ嫌だった。
四角く切り揃えられた石で舗装された道が遠ざかって行く。ティナは馬車の後ろ側、人が座る荷台の後ろ──丁度尻一つ収まる幅の隙間に膝を抱えて座っていた。
車の中に入るよう言われたが、断固拒否した。馬を引く下男の目もあるうえ、支配人と同じ席に座ればまた遊女や番頭からいらぬ嫉妬を買う。
都町シタンは第七区画にあり、第八区画からは途中第一区画を横切る必要があった。州城のある第一区画は政府の建物ばかりがひしめき合い、およそ生活の匂いはない。州城前はいつ通り過ぎても静まり返っており、本当に役人が働いているのか疑わしいほどだった。
見渡す限りの階段の上に州城の入口はある。黒い鎧を身に付けた兵が二人、人形のように槍を持って門の両脇を押さえていた。
「この中に本当に王子様がいらっしゃるのかなあ……」
ジ州は第一王子が治める州と言われているが、当人を垣間見る機会はない。
ティナの目が僅かに輝いた。珍しく州城の門から官服を身に付けた男が出てくるところだった。黒い詰襟姿は庶民の羨望の的だ。身分を問わず採用される官吏はひたすらに優秀であることが条件で、文武に長けた一握りの人間だけがあの服を着られる。一つに束ねた紫紺色の髪と腰辺りで前後に裂けた上着の裾が風に舞った。
「格好いいなあ」
「……ちっとも私になびいてくれないと思ったら……お前は殿下をご所望だったのか、チビ」
車の中からくつりと声が漏れ聞こえ、その声を聞いた下男も軽く笑った。
振り返ると、車の後ろにあった小さな窓が開いている。そこから切れ長の瞳が覗いた。
「妬いてしまうな……」
頬に朱が昇った。
「そ、んなわけないじゃないですかっ。私は……っ」
シャグナは黒い目を細め、ティナの背後に目をやる。
「ああそれとも……お前は官吏の妻になりたいのかい……?」
「なっ」
「珍しく愛らしい顔を見せたと思ったら……お前は別の男を見ている。詰まらないねえ……嫉妬で狂ってしまいそうだ……」
返す言葉が見つからず、口を開くしかできない。下男が笑い含みに諭した。
「旦那様、勘弁してやってください。まだ初心な娘ですから……憧れだってありますよ、そりゃ」
庶民にとって官吏は高根の花だ。その妻の座を狙う娘たちは少なくないが、その一人だと勘違いされるのは嫌だった。ティナは紅潮した顔を背けた。
「違います! 私は官吏を目指していたんです! 高等学院でだって、とっても良い成績だって……先生方に褒められていたんだから……」
語尾は小さく掠れた。言ったところで意味は無い。買われた以上もう高等学院へも通えず、下女として一生を費やすしかないのだから。
「そう」
俯いた頭の上からそっけない声が聞こえた。
いつ来ても都の装飾は雅だ。白い石の舗装路、黒い鉄で統一された街灯の燭台は季節ごとに植物の柄が変わる。路上に看板を掲げてはならない条例の元、宝石商は宝石を薄く削って組み合わせたガラスを扉や店の窓にしており、色とりどりの光が足元に落ちる。
シタンは宝石商に加え最先端の流行を生み出す多くの店で賑わう街だった。最高級の菓子店、上等な香を扱う香水店、貴族に人気の派手な着物を取り扱う服屋。靴を扱う店先で若い娘たちが踵の高い靴を試着している。
シャグナを乗せた車は賑やかな商店街から少し外れた場所、深い色が出るよう焼き色をつけた木を贅沢に使った大店の前で止まった。柱や窓の枠の全てが焦げ茶色で、入り口脇にそっと『五色』と書いた板を置いているだけだ。他の店のように煌びやかさの欠片もないながら、この店は反物を扱う一級の大店だった。
下男が扉を開けてシャグナが降り立つと、店先に渋色の着物を身に付けた男が出てきた。白と灰色の混じった髪を後ろに撫でつけた男は、シャグナに深く頭を下げる。
「お待ちしておりました、旦那様。お約束の方も先程」
「うん。ありがとう」
シャグナは店の男に頷くと車を振り返った。車の後ろから降りようとするティナの両脇に手を差し入れ、視線の高さに持ち上げる。
「お前は車に乗って手土産を受け取りに行くんだよ」
「え」
てっきりシャグナの目的地で分かれて一人で受け取りに行くと思っていたティナは、宙ぶらりんになっている状況も忘れ瞬く。シャグナは降りたばかりの車の中に軽々とティナを押し込んだ。そして懐から香を焚き染めた手紙を出してティナの口元に押し当てた。
「菓子屋は草菓庵だよ、チビ。良いかい、この手紙を草菓庵の二件隣りにある赤萄嵐という店の若様に渡しておくれ。桜花蒼姫の主人の使いだと必ず言うんだよ……」
思わず受け取った手紙は紫色の花が練り込まれてある趣味の良い紙を使っていた。口の中で赤萄嵐と繰り返し、ティナははっと顔を上げた。
「あの、旦那様……っ。私一人で……!」
腰を浮かせたティナの前で起毛地の内装を施された扉が閉じる。窓の向こうでシャグナがちらりと笑って背を向けた。
シャグナの車を頻繁に担当している下男が荷台の前に座り、前側の窓からこちらを覗く。緑色の瞳は笑っている。
「座りぃ。草菓庵まで十五分はかかる。大人しゅう旦那様に甘えとけばええ」
「でも……っ」
これが番頭に伝わったらまた難癖を付けられる。男は馬の手綱を動かした。男の背中から低い声が聞こえた。
「誰にも言いやしねぇ。お前みたいなちっこいのが手土産二百個運べるはずが無いだろうが。もっと上手くやらんとなあ、ちっこいの。旦那様はお前が心配でならんご様子じゃ。御手を煩わせんで良いよう……よお勉強せにゃあならん」
何を勉強すれば良いのか。誰もかれもがもっと上手くやれと言う。
「……」
ティナはシャグナの香りが残る手紙をそっと懐に差し込んで、唇を噛んだ。




