州城の夜明け
殿下が州城へお出でになった。婚約式からわずか三日後の出来事だった。ロティオは眉間に皺を寄せて、乱れた襟首の形を整える。目の前には泣き崩れる同輩の姿があった。
「頼む……今日だけ……今日だけで良いから……」
彼――ヨシュアは、州城に置いている各省の総監督を担っている総監督府の州長である。立場としては州官長の下、州内二位にあり州官長補佐官と同位であった。
水晶と石を練り合わせて作った水晶石は、石師達の月の力を籠められるとその硬度がアントル石に次いで固くなる。石師の特別な力を用いているため安価ではないが、石と水晶の練り合わせのため煉瓦よりは高く、宝石ほど値は張らない。王子の意向を反映して作られた州城は全面に水晶石を使用していた。透き通っているのに奥は見えない不思議な石の廊下は音が響く。
黒の官服を身に付けたロティオは平生通り寝不足の色濃い顔で州官長室へ向かった。
勤務時間前は廊下の火は灯っていない。薄暗い廊下の奥から扉を閉ざす音が聞こえた。丁度誰かが部屋に入ったところだったのだろうか。こんな時間から誰が務めているのかと州官長室の看板を掲げた扉を押し開いたロティオは喜びに内心小躍りした。
室内にいたのは当然のように州官長の席に座るアラン殿下と、その向かいで項垂れるヨシュアだった。
「……本日中にございますか……?」
若干揺れる声音で尋ねたヨシュアに対し、州官長はそっけない。
「できるだろう。第二区画から第六区画中の鉱石採掘結果に対して第八区画の宝石商が降ろした石の重量が比例していないんだ。鉱石中の宝石含有量は事前に把握している以上数値が合わないのは異常だ。調べ直せ」
「……他州からの鉱石が含まれておりますので……」
「他州からの輸送量の報告書をお前は読んだのか?」
「いえ……」
「では言うが、この三か月でジ州に鉱石を輸送したのはトラ州、テトラ州、ペンタ州の三州で、この鉱石を受けるのは港町の第十一、十二区画だな。ここから第八区画ならびにモノ州第一区画に降ろされた数値は完全である以上、第二から第六区画の数値は異常だ。更には移民の申告数に対し就業者の数にずれがある。これも調べ直せ」
ヨシュアの声は震えた。
「そ、それも本日中にございますか……っ?」
州官長はヨシュアの顔を胡乱に見返した。
「今日中にとは言わんが……移民の申告期限は一か月だ。これに反すると罰金が科せられる。更には移民の申告を怠って就業をした者には収入に対して相当の罰金が与えられる。お前はそういう金を食って生きて満足なのか?」
「う……っ」
ヨシュアの声は涙に飲まれてしまった。
州官長は涙を押さえるヨシュアを尻目に、卓上に山積みにされた書類に目を落とし始めていた。
相変わらず容赦がないなと眺めていたロティオに気付いたヨシュアは、襟首に縋りつき、そのままの勢いで州官長室を退室した。
廊下に出た途端、彼は襟首から手を離し土下座した。
ロティオは意味が分からず眉根を寄せるばかりだ。
「何をお願いしているんだ?」
彼は顔を上げず涙にくれた声で言った。
「殿下のご要望を叶えるためには調査官を派遣せねばならん。だが高等学院の教員はほとんどが調査官だ……」
「ああ……」
言わん所が分かり、ロティオは顎を撫でた。
ガイナ王国には国立の学校がある。勉強をしたいものならば年齢を問わず無料で受講できるのだが、この学校は概ね官吏を目指す人間が通う学校だった。官吏になるためには国立高等学院を卒業し、官吏試験を受験して合格する必要があるのだ。
就学率を上げるためにも学校を各区画に設けられれば良いのだが、如何せん高等学院の教師は州城の官吏が兼任する仕組みとなっている。州城には高等学院の施設が付随しており、各区画の希望者が通いやすいように毎朝馬車を用意して通学させていた。
総監督府州長のヨシュアが涙にくれる理由は官吏を管理する立場である以上、この国立学校の運営員も確保するよう采配を考える必要があるからだ。
「修学院を卒業している官吏は事務官にはいない……」
ガイナ王国には高等学院の上に修学院という学校がある。ここはガイナ王国だけでなく世界の政に精通するための教育を施す場所だった。高等学院の教員は修学院の卒業資格が必要で、官服の襟首には官吏を意味する赤い宝石と修学院卒業者は無色透明な宝石が彩られていた。
「もはや全調査官を派遣しても足らぬ。……頼む。今日だけで良いんだ。お前教師をしてくれ……」
「……仕方ない」
ロティオは自分でまいた種である感をひしひしと感じながら、渋面で了承したのだった。
ヨシュアに渡された教科書と参考書を片手に学舎へ向かっていたロティオは片眉を下げた。東西南北に分かれる州城の各塔は中央塔を介して繋がっている。
東塔側の廊下に見知らぬ人物がいた。腰辺りまである見事な銀色の髪が目を惹く。窓から街を眺めている少女の着物は高級な類と見て取れたが、官服ではなかった。
一般人の出入りを禁じている東塔の廊下にいて良い人物ではない。迷い込んだのだろう。
「失礼だが、お嬢さん」
「……」
おっとりとふり仰いだ少女の双眸に、どきりとした。珍しいわけではないが、漆黒の瞳をしていたのだ。この世の神――月の精霊の色である黒い瞳を持つ人間は、どこか特別な気がした。更に少女の見てくれを改めて認識して内心舌を巻く。美しい少女だった。陶器のように白い肌、漆黒の瞳に赤い唇は紅を差した様子はなかった。どこかの貴族の娘だろうか。
ロティオは柔和な笑顔を浮かべた。
「迷いましたか? 今日はどのようなご用件で?」
少女は耳に心地よい甘い声音で応えた。
「今日は……お勉強をしに来ました」
「ああ、高等学院ですね。僕もこれから向かうところですからご案内しましょう」
学舎は南塔の一階だ。少女を促してロティオは中央塔を横切った。
そっと見下ろした少女のまつ毛は長い。滅多に見られない美しさだと思った。もの慣れない様子を見るに、玉のように可愛がられてこれまで外界と接したことがなかったのだろう。貴族の娘が高等学院に通うのは珍しい。貴族の娘はだいたい家庭教師で勉学をするものだ。官吏なんて目指す者もほぼいない。
少女は建物の造りを興味深げに眺めている。
「……州城に来たのは初めて?」
十五、六歳くらいだろう。彼女は愛らしい笑顔を浮かべた。
「はい。これから少しずつこの国の事を勉強しようと思って連れて来ていただきました」
良く躾けられた娘だ。丁寧な受け答えに笑みが浮かぶ。
「しっかり学んでください。この国は豊かですが、その分多くの問題は些末な事と忘れられてしまいがちですので」
「そうなのですね……」
教室に案内すると、彼女は窓越しに室内を見渡して小さく呟いた。
「学校は同じ感じなんだ……」
その話し方にふと既視感を覚え、ロティオは少女を見下ろす。だがどこで見たのか、会ったのか全く思い出せない。
「……えっと、お名前を聞いても?」
彼女は眉を上げた。
「あ、私はみこ…と……」
頬を染めて唇を押さえる。名乗るだけで恥じらう姿に全身が震えそうになった。彼女は勉強を始めたばかりだ。これから頻繁に教職を引き受けようかと邪な願望が胸を駆け抜ける。ロティオはにこりと笑って彼女の為に教室の扉を開いた。
「ミコトさんですか。よく学んでくださいね」
「ありがとうございます……」
弧を描いた口元から漏れ出た声は、やはりどこかで聞いた覚えがあるような気がした。




