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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子― 一章 
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始まりの街


 王の直轄地であるモノ州の東隣、切り立った頂の蒼雲山を境にジ州はあった。多くの鉱石を含んだ蒼雲山は、宝石だけでなく鉄や銅の産出も見込まれていたが、あまりにも硬質なその岩盤は技師たちがどんなに高度な破砕機と月の力を駆使しても人の手の介入を拒み続けている。決して王都を望めない標高と相まって、蒼雲山はいつしか姫の異名を頂き『蒼姫』と呼ばれていた。

 十八区画に分かれたジ州の第八区画、蒼雲山の麓にあるルトの街は多くの宝石商が軒を連ね、王都の貴族たちの有楽街として賑やかだった。

 煌びやかな宝石商の商店街を通り抜けると街並みはがらりと変わる。朱色の柱と緑の屋根の楼閣が連なる。建築物の装飾指定のあるガイナ王国に置いてその楼閣が意味するのは妓楼であり、貴族の遊び場の一つでもあった。ガイナ王が布いた法は細に渡るまで目をいきわたらせており、ガイナ王国における妓楼のほとんどは遊女と茶や酒を飲むくらいしかできない。女の体を売る店の権利は何重にも規制された法の全てを守る経営者にしか認められておらず、国内で数件しかないその遊郭は高級妓楼として庶民の羨望の的であり、貴族の見栄を満たす良い歓楽園だった。

 貴族が振りまいて行く山のような札束を扱う妓楼の敷地は広い。高級妓楼──『桜花蒼姫』の下働きとして雇用されたばかりのティナは、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。分厚い皮手袋を付けていたため、汗はその皮手袋に吸い込まれた。彼女は炎天下の元再び地面にしゃがみ込む。妓楼の敷地内に生えた雑草を全て刈り切ることが今日の仕事だった。夜六時から店が開く為、それまでに刈り取る必要があるのだが、広大な敷地を思うとため息が出る。

「……今十時だから……あと八時間かあ……終わるかなあ」

 桜花蒼姫は最先端の建築様式を採用しており、その階層は十階に及ぶ。客をもてなす客間と寝所が二間続きであり、客の数に応えるため各階にその部屋が二十ある。周囲の店を遥か下に見下ろすこれを『本館』と称し、遊女たちの寝所を『離れ』と称する。離れも贅を尽くした広さを誇り、三階建てでありながら敷地面積は本館と相違なかった。現在ティナはそのどちらでもない小ぢんまりとした平屋の脇の廊下を掃除している。茶室の趣が濃いこの建物は客を入口から本館へ誘導する外回廊の脇にある建物で、客の目につく場所である以上手を抜くわけにはいかなかった。

 無心に草を刈り取っていたティナの頭上で、丸窓の障子が開く。そこから顔を覗かせた男は長い髪をまとめもせず、気だるげな様子で煙草をふかした。窓枠に肘を置いて空を見上げた男は、下から聞こえる音に顎を引いた。そして口の端を上げた。

「……チビ。今日の仕事は何だい」

 窓枠の音に気づいていたが、声を掛けられるまで決して顔を上げない。そういう自分の決め事を守っていたティナは、顎を滴る汗を拭って、男を見上げた。二十代後半と言ったところだろう。灰色の髪と黒い瞳の男は、遊女たちに絶大な人気を誇りながら誰一人手を出さない。変わり者と呼ばれて久しい桜花蒼姫の支配人──シャグナその人だ。

「今日は草刈りです」

 淡々と応えると、くつりと笑う。

「この暑い中敢えて草刈りか……。可愛がられてるな、チビ」

 ティナはここへ来てからと言うもの、無理難題を仰せつかることが多い。妓楼中の拭き掃除をたった一人で開店までに終わらせろと言われたり、客前に立つことを許されていない下女であるティナに、わざと酒を運んでくるよう命じたり。掃除ならまだ努力次第でなんとかなるが、酒を運ぶとなると話は別だ。綺麗な着物一つ持たないティナは、廊下を歩くだけでも叱責される。だが遊女は下女の上役となるため、命令を断るわけにもいかず、結局酒を運んだあと番頭に怒られた。

 口元を尖らせてしゃがみ、草刈りを続ける頭に声が降ってくる。

「もっと可愛らしくしないからだ……。遊女を見習え」

「私は遊女の姉さま方と立場が違います。真似なんてできません」

 男の肩にしな垂れかかり、きゃらきゃらと甲高い笑い声をあげて膝に手を置く。意味ありげな目つきで誘惑をして、寝所へ誘う。そんな姿のどこを真似しろと言うのだろう。

「お前はそうでもないと思っているんだろうが、お前は心が顔にすっかり出ちまってるんだよ。自分を嫌悪している奴を好きになろうと思う人間なんてあるかい」

「……私、べつに嫌悪なんて……してません」

 否定しながら、ティナは自分が遊女や番頭を毛嫌いしていると自覚していた。こんな場所で働きたかったわけじゃない。毎夜浮かれたお囃子が響き、享楽の渦に飲み込まれて沈んでいく。嬌声の響く夜は地獄だと今でも思っていた。

「チビ、こっちにおいで」

 しつこいシャグナにも苛立つ。ティナは小さくため息を吐いて窓枠に近づいた。睨んだ先で彼は怒るでもなく、妖艶な笑みを浮かべている。彼は窓枠から腕を伸ばし、ティナの唇に触れた。

「な……っ」

 驚いた口の中に彼の細い指先が入り込むと、ほろりと甘い味が舌いっぱいに広がった。

「……砂糖菓子だよ。おいしいだろう?」

 言いながらティナの口に入れた指先を舐める。

「その指……今……っ」

「うん?」

「……」

 彼はティナの恥辱心に気付いていない仕草で、また別の砂糖菓子を己の口に運ぶ。大げさに反応するとまた幼いと貶される気がして、ティナは俯いた。

「ありがとうございます……」

 彼がくれた砂糖はジ州の都街シタンにある高級菓子店で一等人気の菓子だった。姉さま方に一度命じられて買いに行き、使いの褒美に一粒だけ貰った。トウキビの砂糖を舌に残らないよう細かくすりつぶして、一切のつなぎを使わず押し固めた上等な砂糖菓子。

 ティナの頭に薄布がはらりと落ちてくる。

「どうせ今日一日で妓楼中の草刈りを命じられたんだろうけれど……今日は暑い。お前が倒れると面倒だから、水飲みの休憩を入れながらするんだよ。番頭には今日中にできなくても、叱らないでおくれと言っておいてあげる……」

「……っ」

 余計な世話だと言い退けるため顔を上げた時には、彼はくつりと笑った声だけを残して書斎の奥へ消えてしまっていた。

「なによ……っ」

 こんなところ、来たくて来たんじゃない。ティナは悔しさに拳を握り、鎌を大きく振るった。

 ティナはジ州から遠く離れたノナ州の生まれだった。ノナ州は鉱山が少なく、民のほとんどは農業に従事している。三国一の経済力を誇るガイナ王国。その誉れはほんの一握りの人たちのものだった。ガイナ王国は宝石と宝玉に恵まれた豊かな国だが、その大地は石を多く含んで固く、植物は育ちにくい。土地を掘り返して石を取り除けば、残ったのは大きな穴だったという話も、大げさでなく実際によくある話だった。

 月の力を使って石を細かく砕き土に混ぜ、一生懸命育てた穀物や野菜を売ろうにも、市場に出回っている野菜のほとんどは安価なルキア王国産だ。土地を耕すために使った工具や多くの人出を用いて振りまいた月の力の対価を考えると、どうしても国産の野菜は値が高騰する。しかもルキア王国産のものよりも痩せた出来栄えである以上、売れない。

 ノナ州の民を憐れんだ王家が一定量の野菜を買い取って孤児院や外門の周りをうろつくその日暮らしの人々にそれらを使った食事を配っているが、それが家計を豊かにするはずもない。

 ノナ州の民は子供が増えすぎると奉公に出すのが風習になっていた。ティナの家は三人兄弟で、双子の妹と弟が二人いる。両親はもう一人くらいなら養えると思っていたようだが、生まれたのは双子。双子が十歳にもなれば家計は立ちいかなくなり、年長である十五歳のティナが奉公に出ることになった。

 官吏を目指す子供から大人までが学べる国立の学校で、良い成績を修めていたティナが奉公に出ると聞いた先生は、残念そうにしてくれた。それでも両親と兄弟のためなら仕方がないと思っていた。

 奉公の仲介を生業にしている男がジ州に良い奉公先を見つけたと話を持ちかければ、両親はもろ手を挙げて喜んだ。ジ州は他でもない第一王子が治める安寧の州だからだ。王子の膝元であれば安心だと涙ぐんだ両親に背を押されてやってきてみれば、妓楼が待っていた。

 妓楼に売り飛ばされるなんて聞いていないと狼狽したティナを見て、シャグナはくつりと笑った。

『お前みたいな痩せた子供は遊女には向かないねえ……』

 仲介の男が粘着質に笑った。

『いやいや、生娘を好むお客もおありでしょう、ねえ旦那。どうです、格安ですよ』

 奉公に出たはずなのに男の物言いは完全に売り飛ばす予定だった。帰ろうにも路銀はなく、男を信じ切って来たティナは陸路と航路の過程を全く覚えていなかった。働く以外で逃げる方法はなく、更に伝手のない子供を雇ってくれるような店は絶対になかった。宝石店の店員とは言わないが、せめて普通の店の働き手になるつもりで来ていたティナは屈辱に顔を紅潮させた。

 シャグナは何を考えているのか分からない笑みでしばらくティナを見下ろし、仕方ないと呟いた。

『じゃあ遊女にはしないけれど、下女としてなら雇ってあげる』

『はあ、下女ですか』

 明らかに声音が変わった男に、シャグナは肩を竦める。

『千で買い取ってあげる。他の店に降ろしてもこれより値は下がると思うけれど……どうする?』

 男は小躍りせんばかりに舞い上がった声を上げた。

『へえ、ありがとうごぜえます! よおく働けよ! お前のおっかさんもきっとお喜びになるぞ! 天下の桜花蒼姫の働き手だ!』

 支払われた料金の一体何分の一を両親に払うのだと疑いの眼差しを返すしかできなかった。

 鎌が指先を切り裂く痛みで我に返ったティナは、溜息を落として空を見上げた。

「この国には……月の神子様がいらっしゃるのに……」

 豊穣の女神――慈しみの精霊。

 そんな風に謳われる女神が降臨したというのに、ティナはちっとも幸福じゃなかった。

 早く私を助けて。――神子様。

 俯いたティナの頭に被せられた布は、ほんの少し涼しい影を作ってくれていた。


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