鬨の声
モノ州の東端の山の中腹にある第一王子の城は、常にない賑やかな宴の最中にあった。方々から貴族や官吏が集い、城中を芳醇な花の香りが包み込んだ。三つの塔で構成されている城の西の端、一階の大広間は空っぽな状態の普段が嘘のように煌びやかに装飾を施され、無数に配置された円卓の上は贅を尽くした食事が彩っていた。
その様子を眺める気力すらない紗江の意識は、既に朦朧としている。朝から緊張しっぱなしだった彼女は、婚約式を終えて戻るなり衣装を変えられ、王子の城を訪れる客一人一人の祝辞に礼を述べ続けている。
人々が行き来する広間の一段上に位置する雛段に椅子を設けられ、紗江とアランは祝辞を述べる人に礼を言っていくのだが、そのアランは浮かれた軍の人々に連れ去られ、隣にいない。
アラン特注の薄い紗の布を重ねた着物を身に付けた彼女の足元に、また誰かが跪いた。アランは座ったまま礼を述べるよう言うが、ふんぞり返って礼を言うのもなんだかなと思う。
「この度はアラン殿下とのご婚約、お喜び申し上げます」
「ありがとうございます……」
顔を上げた青年は、紫紺色の髪に紫色の瞳を持っていた。紗江はどこかで見たことがあるな、と朦朧とした意識を覚醒させる。長い前髪は頬まで伸びており、見苦しくないように七三に分けて撫でつけられていた。後ろ髪は背に届くまで長く、これを一つに束ねている。
紗江は背もたれから身を起こし、笑んだ。カサハを付けた紗江の顔は見えないだろうが、口元だけは彼にも見えていた。
「私はジ州州官長補佐官を拝命しております、ロティオ・シュトレーゲンと申します」
紗江は、ああそうかと頷く。
「ジ州は殿下が治める州だとか。日頃よりよく勤めていらっしゃるとお伺いしております」
アランの執事は抜け目がない。今日訪れる予定の貴族と高官の一覧を写真付きで用意していた。ざっと五百人。それをさも当然のように二週間で覚えろと言うものだから、紗江は半泣きで覚えようと努力したのだ。
しかし努力虚しく、前日に施された抜き打ち試験でほぼゼロ点をたたき出した紗江を見る、彼の死んだ眼差しが忘れられない。
勉強が嫌いな紗江に何かを覚えさせようとするのなら、もっと時間が必要だった。もっとも、興味のない内容を覚えるのはほぼ不可能に近い人間なので、時間があったところで、という感じもする。
それでも紗江は、アランに関する情報を僅かながら覚えていた。ジ州というモノ州の東隣にある州はアランが州官長を務めており、宰相補佐官を兼任しているアランは、ジ州を州官長補佐官にほぼ任せている。
これはルキアが用意した本からではなく、当の本人から教えてもらった内容なので、一概に己の努力の賜物とも言い切れないが。
ロティオは眉をあげ、ぱっと華やいだ笑顔を浮かべた。
「神子様に覚えていただいていたとは、これ以上ない誉れでございます。日頃の苦労も無駄ではないのですね」
語尾にアランへの嫌味を感じる。彼はどこか疲れた眼差しで、宴会の一角で軍部の人達と笑い合っているアランを見た。
「アラン殿下におかれましては、私のような若造を州官長補佐官に抜擢していただいた上、その全権をお任せいただけるご信頼、常より感謝の念に堪えませぬ……」
――愚痴だ。
常日頃から全権を委譲されて彼は、苦労の毎日なのだろう。可哀想に。
アランは王立軍第三部隊の指揮官兼、ジ州州官長で、さらに宰相補佐官に任命されている。多すぎると思うのだけれど、宰相に言わせてみれば、将来国王になるのならばそれくらいできて当たり前なのだそうだ。
ふと紗江は首を傾げた。階段下に膝を折って座っている青年の顔をじっくりと見直す。
「おやおや、殿下がいない間に神子様と二人きりで話し込むなんてお前もずる賢いねえ……」
軽薄な口調でロティオの肩に腕を回し、彼の顔を覗き込んだ男に目を向け、紗江は瞬いた。官服の上に上等な濃紺の着物を羽織っている。恐らく仕事の合間に来たのだろう。官服の詰襟には赤い一線が走っており、その胸には巨大な宝石を使った勲章が煌めいた。
紫紺の髪に紺色の目の美しき宰相――フロキアである。
彼を毛嫌いしているのか、アランはフロキアを見かけても絶対に一人で近づくなとしつこかった。本の中でもかなりの重鎮枠に入っているフロキアの顔と、ロティオの顔はとてもよく似ていた。
ロティオがあからさまに顔を顰める。
「神子様の御前で下品な物言いはお控えください、宰相」
フロキアは片眉を下げて彼から腕を外した。
「お兄ちゃんには本当に冷たいなあ、ロティは」
「あ、やっぱり兄弟なんだ……」
思わず呟いた小さな声は、しっかり二人に届いていたようだ。彼らは同時に紗江を見上げ、フロキアはにんまりと、ロティオは戸惑った表情を浮かべる。
今日一日は神子としての立ち居振る舞いを決して忘れてはいけないと重々言い聞かせられていたにもかかわらず、素の話し方をしてしまった紗江は、口元を指先で隠した。誤魔化すために、くすりと笑ってみる。
「ごめんなさい。あんまり驚いたものだから……つい。どうぞ、お忘れください」
フロキアは改めて膝を折り、頭を下げた。
「いいえ、こちらこそご挨拶が遅れ、申し訳ない。私はガイナ王国宰相を拝命しております、フロキア・シュトレーゲンと申します。噂にたがわぬお美しいお姿。お会いできる日を今か今かと指折り数え、やっと本日お会いすることが叶いました。アラン殿下には常より親しくお付き合いいただいておりますので、神子様もどうぞ飾らずお話しいただければ嬉しく存じます」
「まあ、初めまして。フロキア様はとってもお上手なのですね」
「とんでもない」
にこっと笑いかけたところ、彼は何を思ったか立ち上がり、階段を上ってくる。祝辞を述べる人間が階段を上って来るなんて聞いていなかった紗江は、呆然と彼を見上げた。雛段の後方には第三部隊の兵士が二人ついているのだが、彼等はフロキアを迷惑そうに睨みつけるだけだ。安全な人物ではあるのだろう。
「宰相! 非礼でございます!」
足元でロティオが非難の声を上げるが、彼はそれを無視し、紗江の本当の足元に膝をつく。椅子の肘掛に置いていた左手を、恭しく取り上げられた。
「あ……あの……」
彼は流れる仕草で紗江の指先に口付ける。どう反応すれば良いのか戸惑う紗江に、真摯な眼差しを注いだ。
「――もっと早くお会いしたかったです、神子様。そうすれば私とあなたの運命は、きっと違う形で結ばれるはずだったのに……」
「え……」
ついて行けない。彼は中指にある琥珀色の指輪を親指で押さえ、苦悶の表情を浮かべた。
「この石をお送りするべきは、きっと私だったのに……」
「おい、いい加減にしてくれ」
いくら浮かれた宴であっても雛段の上まで上がるような人間はさすがに目立ったらしい。酒を浴びるように飲んでいたアランが、殺意のこもった眼差しでフロキアの背後に立っていた。
紗江はアランとフロキアを交互に見る。
フロキアは悪びれず肩を竦めた。
「あれ、もう気づいちゃったの? ったく抜け目ないなあ坊ちゃんは……」
アランのこめかみに血管が浮かんだ。フロキアはあっさり手を離し紗江に笑いかける。
「婚約はいつでも破棄できるから、僕と結婚したくなったら言ってね神子ちゃん」
――神子ちゃん……。
初めての呼称だった。
「絶対に渡さんから、離れろ」
「おーおー熱いねえ」
からかわれるにしてはアランの表情が恐ろしすぎで、紗江は口元を引き結ぶ。フロキアはアランの怒りなどどこ吹く風の様子で、飄々と階段を下り、宴の人ごみに消えてしまった。
紗江の隣にどかりと腰をおろしたアランは、膝を折ったままのロティオに気付く。
「ああ、ロティオ。久しぶりだな息災か?」
「……」
フロキアとアランが会話をしている間、ずっとアランを見つめていた彼は、何も応えなかった。宴の演奏が煩くて聞こえなかったのだろう。不機嫌な表情だったアランが、すこし口元に弧を描く。
「……あー……今日はわざわざ足を運んでくれてありがとう、ロティオ」
「……」
彼は無言だ。アランがこめかみを指先で押さえた。何故か瞳を閉ざす。
「……ロティオ……その、ジ州はどうだ……」
とても言いにくそうに尋ねる。不思議にアランを見た紗江の耳に、微かな笑い声が聞こえた。ロティオが小さく笑ったらしい。彼は俯いてすらすらと祝辞を述べた。
「この度は澄んだ晴天の元、花々の祝福を受け、月の神子様とのご婚約式を無事迎えられた事、心よりお祝い申し上げます。民も方々でお二人のご婚約を祝い、ガイナ王国のこれまで以上の繁栄を願い、そこかしこに吉兆の花毬が彩られております。民の一人として、アラン殿下と月の神子様に心よりお喜びを申し上げます」
「……ありがとう」
アランが礼を言うと、彼は立ち上がった。彼は柔和な笑顔を浮かべていた。
「これは州官長補佐官としての質問にございます。一体殿下はいつになったらジ州にお戻りいただけるのですか?」
「……ああ」
アランは片眉を下げ、彼に手のひらを見せる。待て、という意味だったが、彼は無視した。
「このような祝いの席で無粋なご質問かとは存じますが、神子様ご降臨以降、殿下はいっかなジ州へおいでくださらない。州官長補佐の名を頂く以上、殿下の補佐をするにはいささかの躊躇いもございませぬが、現状、ジ州の州官は私の命にて動いている」
アランは視線をあさってに向ける。顎に手をやりぼそりと呟いた。
「だからお前には俺の給与をやると言っているじゃないか……」
ロティオは恐ろしいほどに完全な笑顔と、誰にも気取られない穏やかな声音で続けた。
「恐れながら、給与の問題ではございませぬと何度申し上げればお分かり頂けるのですか。王より州官長を拝命されたのは、他でもない殿下でございます。現状、ジ州は王のご意向を反映できておりません。神子様ご降臨以降、御忙しさに拍車がかかったことと存じますが、これ以上席を空けられるようであれば私にも考えがございます」
彼は紗江が他国へ盗まれていたことを知らない人だった。紗江の口元が小さく開くと、アランは紗江の前に手をかざした。アランは紗江を見ずにロティオを見下ろす。
「そうだな。長い間お前には負担をかけた。すまなかったな」
「──」
ロティオは目を見開いた。アランは苦笑して、紗江の前から手を引く。
「今後はきちんと務めを果たそう」
彼は驚きの表情から、疑い深い、アランの真意を探る眼差しになった。
「いついらっしゃるのかご確約を頂きたい」
アランはふっと息を吐く。紗江に目を向け、言い淀んだ。何を言い淀んでいるのかよく分からない紗江は、ロティオに笑いかけた。
「大丈夫ですよ、ロティオさん」
「あ、こら」
アランが遮ろうとしたが、紗江は深く考えず言う。
「殿下がお時間のない時は、私が殿下をお連れ出来ますから」
転移は得意技になった。しかも自分一人なら全く消耗しないし、一人くらい一緒でも大して疲れないことをガイナ王国に戻った後の訓練で知った。
ロティオの表情がみるみる明るくなり、アランが渋い声で遮る。
「いや、ロティオ。神子は政務には…」
「左様でございますか。やはり殿下には公私ともに神子様がご必要だったのですね。今確信いたしました。ガイナ王国へのご降臨……心より、心より感謝申し上げます!」
彼は深々と頭を下げた。──紗江に。
「おいおい……」
アランが弱った顔をするも、紗江は呑気に笑んだ。
「転移ができますから、大丈夫ですよ。アラン様がしっかり働くことは、ガイナ王国が豊かになる第一歩でもあります」
すべての民に祝福を──。
それは心からの願い。




