泡沫
馬車の中で、紗江は窓の外を眺めているアランを睨んだ。彼の表情は涼しいもので、馬車に乗り込むや否や、最も重い上着を脱ぎ捨てて寛いでいる。
だが、紗江は一言いいたくてたまらなかった。
「口づけするなんて聞いてない……」
ゾルテ王国から戻って直ぐに、婚約式を行うことが決まった。戻ってわずか一か月後だ。王妃の意向もあったが、アランの強い意向も重なって、紗江が云々言う間もなく決行されたのだ。おそらく二度と他国に奪われないようにという外交的な目論見が強いのだろうが、紗江が聞いていた婚約式は、人々の前でゾルテ王家との血縁を示し、月の力を見せることで、民に白銀の髪の神子の存在を知ってもらおうという内容だった。
司祭は白銀の髪の神子など、事前の周知もなく宣誓すれば暴動が起こりかねないと反対した。しかしアランは、神の前でそんなこと起こるはずないだろうとなだめすかし、最終的には司祭を脅して決行。――きっと周知する時間さえも惜しんだのだ。
そして本番は、予想通り、全く予定通りにいかなかった。静まり返っていると思われていた民は怒涛の勢いで反論の声を上げたし、顔を見せるだけだったはずが、勝手に口づけをしてくるわ、月の宮の神官がいきなり現れるは、終わりよければ全て良しかもしれないが――納得しかねる。
絶対にアランはみんなの前で口づけをするつもりだったのだと女の勘が言っていた。
アランはちらりと紗江を見返し、鼻を鳴らした。
「口づけ一つでなんだ。それとも何か、初めてだったか? 後生大事にしていたのならすまなかったな。なんなら今、もっと良い口づけをしてやろうか」
赤い双眸が紗恵の唇を舐めるように眺め、嫌らしい笑い方をする。わざとだと分かっていたが、背筋を悪寒が駆け抜けた紗江は、大きく首を振った。
「い、いいぇ……結構です」
経験がないわけではないが、遥か昔過ぎて思い出すのも恐ろしいというのが本音だ。
「そもそもお前は俺の婚約者になった自覚はあるのか? 婚約者というのは将来結婚するという公約だぞ」
「それくらい分かってますよ……」
見た目ほど幼くないのだから、それくらい分かっているとふて腐れて見上げたアランは、何でもない口調で続けた。
「俺はお前を手放すつもりなんぞ更々ないから逃げるなよ」
「いつ私が逃げたんですか……」
「今夜の話だ」
「――?」
きょとんと見返すと、アランは紗江の表情を半目で見返し、そして窓の外に視線を逸らした。
「気にするな。何でもない」
「え? え? いやあの、何でもないって感じじゃなかったんですが」
――この予感が本物なら、割と恐ろしい現実が後々待っていそうなのですが。
彼は頬杖をつき、外を眺め続ける。
「お前の……ゾルテ王国への祝福だが」
「あ、はい」
ゾルテ王国との血縁を結んだと公言したのは、紗江の我が儘にある。どうしてもゾルテ王国を放っておけないので、月の力を込めた花を贈りたいと申し出たのだ。アランは国同士で指針を立てる必要があるとその話を政府の人達と話し合い、紗江の負担も考えてふた月に一度、荷馬車一台のみと決定された。
これを増やすことは絶対厳禁だそうだ。あまり多くの施しを他国に贈ると自国の民が不満を募らせてしまう恐れがあるらしい。国を動かすというのは、大変なのだな、と思った。
「やはり反対する民の声もある。そこのところは分かって欲しい。自国も救いきれぬうちに他国を救おうとは愚かだと言われるのは当然のことだから」
「……我が儘を言ってすみません」
アランは視線をこちらへ向け、目を細めた。ガイナ王国へ戻ってからというもの、アランは度々この鳥肌が立ちそうになる甘い眼差しで紗江を見つめてくる。どうしたらいいのか分からず紗江は視線を逸らすしかできなかった。
――ええい! 心臓よ、沈まれ! これはあれよ! 王子様的魔術だから! 騙されちゃ駄目!
頬を染めて俯く紗江を見下ろし、アランはふっと笑った。
「まるで生娘の様な反応だな、紗江」
「――え」
頬に吐息が触れたと思った時には顎をすくい上げられ、目の前に絶世の美貌があった。彼は蠱惑的な眼差しで紗江の瞳から唇へ視線を移し、薄く口を開いた。
「ひっ」
――食われる!
本能的に紗江はアランの顎を押し上げ、目をぎゅっと瞑った。これに対する、アランの反応はない。恐る恐る片目だけ開けてみると、彼は眉間に皺をよせ、怪訝そうに紗江を見下ろしていた。
「なあ、お前……年齢は二十一だと言っていたが……。もしかして本当に生娘なのか?」
「…………」
紗江は顎を押し上げられても尚美しい主の顔を、唖然と見上げた。彼がさり気なく顎を掴む手を外した事にも気づかなかった。
――この人、月の宮にしょっちゅう遊びに来てたようなこと言われてたよね……?
紗江は遥か昔に思える、アランとの出会いを思い出す。
紗江が降臨した日、彼は月の宮に入り込んでいた。紗江が月の滴で全身を清める場面を見ていたのだ。
守り人であるサーファイによると、月の滴に身を沈めると、全ての穢れが払われてしまう。元の世界での全てがリセットされるため、処女に戻るらしい。未だにそれが本当かどうかわかったものではないが、自分が神子であるところを見ると、それは事実だと思われる。
このシステムをアランが知らなさそうなことが、意外だった。――この表情は、恐らく知らない。
何と応えればいいのが分からず当惑していた紗江は、左手首が掴まれる感触に気付いた。右手首はそれ以前から掴まれていた。
「え……」
両手首を掴んだ彼は、その腕を紗江自身の体の両わき、座面に押し戻す。傍から見れば、ただ座面に両手をついて座っている紗江の手首に、アランが手を添えているようにしか見えないだろうが、身動きは出来ない。
「あの……アラン様……?」
彼は長い睫に縁どられた瞳を細め、輝きを放ちそうな素敵な笑顔を浮かべた。
「そうか。お前は生娘なんだな。十歳やそこらの娘でないから仕方ないかと思っていたが、お前は正真正銘、全て俺の物となるんだな」
「あ、えっと、あの……」
――け、経験は一応……。
遥か昔の記憶を、今更思い出せるだろうかと不安が過ぎった。紗江のその表情を増々勘違いした彼は、嬉しそうにほほ笑む。
「安心しろ。俺は優しい」
「……やさ……」
頬がぼっと火をあげそうに染まり上がった。ことをイメージしてしまい、恥ずかしさのあまり紗江が半泣きになった時、馬車は止まった。予定通り扉を開いた侍従が中を見て、はっと息をつめる。
「申し訳ありま……っ」
紗江は我に返った。どう見ても、腰を浮かしたアランが紗江に迫っている状況だ。角度から見れば口づけをしていたと勘違いされてもおかしくないかもしれない。しかも彼は上着を脱いでいて、紗江は半泣きだ。
「違……!」
紗江が否定の声を上げるもむなしく、扉を閉めようとした侍従を引き留めて無理やり扉を開かせた執事のルキアは、中を覗くなり目を据えた。
「殿下。事を急く男は見苦しゅうございますよ。御仕度ください」
アランは舌打ちして上着を取る。
「……俺を飢えた獣のように言うんじゃない……全く」
「ひ、否定してください!」
状況の説明をしてくださいと訴えたが、彼は不思議そうに振り返って首を傾げた。
「どうして」
「……」
紗江は生粋の王子様と庶民の違いをひしひしと感じて俯くしかなかった。




