59.言霊
アランは一人、己の神子が力を使い切ってしまうのではないかと、はらはらしていた。どれだけ力をばら撒く気だと終いには苛立ち始めた頃、彼女は力の配布をやめた。
少し疲れたのか、ふうと一つ息を吐いて、アランを振り返る。
彼女はかつてと同じように、愛らしい笑顔を浮かべた。
「許してくれて、ありがとう、アラン様」
かつての彼女と変わらぬ話し方だ。アランはほっとして、腕を広げる。
「来い」
「……」
彼女は大きな瞳を丸くして、アランの顔を、そして広げられた腕を見た。彼女は、来いと言われて来ることはあっても、腕を広げて待たれた経験はなかった。しかしアランは、譲らなかった。
待っていると、彼女は戸惑いながら、そろりとこちらに近づいてくる。裸足なのだろう、とてとてと足音がした。
彼女が自分の目の前に近づくと、アランは待ちきれず、一歩進み出て、華奢な肢体を抱きすくめる。
「……っ」
驚いた様子の彼女が抵抗もできないほど、強く抱きしめる。
血の匂いに、胸が苦しくなった。
「……一人にして、すまなかった、紗江」
不甲斐ない自分に、腹が立つ。無垢な少女を、こんな姿に変えてしまった。
冷え切った衣に身を包んだ紗江は、温かなアランの腕に安心したように、ほっと息を吐く。そんな反応が、またアランの胸を詰まらせた。
一人で、どれほど不安だっただろう。彼女の唇からは、震える息が零れていた。
――すまない。
黒髪を失い、どれほどの苦痛を味わったのか。
アランは守り切れなかった悔しさに、眉根を寄せた。
「紗江……」
「……長い間……お傍を離れてごめんなさい、アラン様」
紗江はアランの腕の中で、そっと呟く。彼女の一挙手一投足を、誰もが注目していた。
紗江は顔を上げ、泣き出しそうな顔で、それでもにこっと笑う。
「勝手にお傍を離れて、ごめんなさい。ほんの少し、外の世界が見てみたかったの」
「……」
アランは軽く眉を上げた。
まるで自分から外に飛び出し、すべてを仕組んだかのような物言いが、俄かに理解できなかった。
彼女は瞳を煌めかせ、悪戯っぽく肩を竦める。
「次からは、ちゃんとアラン様に言ってから、お出かけします」
全員の視線が集中する。
アランは彼女の意向を理解した。
彼女は全てを、隠すつもりだ。
アランの腕から身を離し、紗江はその足元に膝を折る。首を垂れ、主であるアランに、許しを乞った。
「どうかここまでに起きた、私の我が儘の全てを――お許しください」
月の精霊が頭を下げるのは、唯一、その主のみ。
それを皆に知らしめるために。
全ては神に近い存在である、神子の戯れとして、許せと――。
どんな凶事も起こらなかった。
国家の全てを――そして月の宮までもを沈黙させる魔法の言霊。
たった一人の神子の意向に沿わせるための言霊を吐き、彼女は世界を騙す。
アランは、くしゃりと顔を歪め、笑った。
――何も知らぬ、無垢なばかりの神子は失われた。
けれど――それでもいい。
――彼女は、俺の神子だ。
アランは厳かに、彼女の全てを受け入れた。
「ああ……全て、許そう」
紗江はこちらを見上げ、明るい笑顔を浮かべる。
「ありがとう、アラン様」
アランは誰にも見せたことのない、甘い微笑みを湛えた。
「お帰り、紗江」
「……」
紗江は眉を上げた。ぽかんと自分を見つめていた彼女は、次いでぽっと頬を染める。
彼女の気持ちが動いたのを、アランは見た。
そして己の血潮が、ざわりと妖しく蠢くのもわかった。
アランは紅蓮の瞳を艶やかに細め、指先でそっと彼女の頬を撫でる。
――さあ次は、お前の心を掴む時だ。
アランの意向など欠片も知らない彼女は、頬を染めたまま、可憐に微笑んだ。
「はい。ただいまです、アラン様」
――それは神子の、ささやかな悪戯。
ゾルテ王国は、神子の加護を密やかに受け、ゆっくりと復興の階を登りはじめた。
拙作をお読みいただきましてありがとうございます。
一先ずこちらでひと段落としたいと思います。
もっと面白い作品を作れるように、まだまだ頑張ります。
(『ゾルテの精霊』改稿2015.12)




