58.燐光
アラン王子に刃が突き付けられた瞬間、クロスは身じろいだ。加勢をするためではない。彼を守ろうと動く己の体を動かさぬよう、肩に力を入れたのだ。
クロスの手前に立っているフロキア宰相は、ふい、と視線を逸らした。女性は守るべき存在だと信じて疑わない彼には、死を覚悟した女性は直視できないのだろう。
クロスの胸の内も、重く沈んでいた。
残酷な終焉を望まれることだ――。
どんなに鍛錬を積んでいたとしても、アラン王子とリビア王女の間には大きな力量の差があった。誰が見ても勝敗は目についており、見ていられない気持ちも分からないではない。本当にこんな最後でいいのだろうか。そう思ったクロスは、フロキアが視線を向けた先に、はっと反応した。
フォルティス公がアラン王子に向けて、手のひらをかざしていたのだ。その手から光り輝くのは、月の力。
「――殿下!」
反射的に声を張り上げると、アラン王子は頭上から振り落とされる剣を払いのけ、そのままの流れで横合いから飛んできた光の塊を弾き返した。
弾かれた光は、謁見の間の壁に触れると同時に、爆発音を上げる。クロスはぞくりと、寒気を覚えた。大きく穴が開いた壁の威力を見る限り、手加減のない攻撃だった。
横合いから放たれた月の光を弾き返すと、自分に刃を振り下ろしていたリビアが、かっと目を見開いて怒りの矛先をフォルティスに向けた。
「――私の戦だ、邪魔をするな!」
「駄目だ、リビア……! こんな戦、到底承服できない!」
リビアの間合いから離れるため飛び退いたアランは、フォルティスの言葉にどこか安堵する。
「私の命を聞かぬというのか、フォルティス!」
一国の姫の権力を最大限に使ってきたリビアは、傲慢にも己の死さえ黙って見ていろと命じた。フォルティスは初めて強い眼差しを返した。
「ゾルテ王国を捨てようとする者の命など、聞く価値は無いよ、リビア」
「叔父上……! 何故わかってくれぬのだ。私はもはやこの国に必要ないのだ!」
フォルティスは眉根を寄せ、両手を広げた。
「リビア……リビアお願いだ。陽菜はこんなことのために君を残したわけじゃないんだ」
「聞きとうない!」
言い放ちざま勢いよく剣をアランに向けて振り払う。アランは胸を逸らして切っ先を避けたが、髪先が僅かに切られた。
「既に私はアランに刃を向けた……結果は変わらぬ!」
言いながら何度も剣が振るわれるが、アランはそれを受けるに徹した。じりじりと後退していく。アランは自分でも分からない、何かを待っていた。
向かってこない相手に焦れたリビアが声を荒げる。
「アラン貴様、私を馬鹿にするのか!」
「いいや」
「ならば早く……っ」
リビアは激昂した状態で、剣を高く振り上げた。あまりにも大雑把な太刀筋だった。誰もがそれは問題にもならないと高を括る一太刀。同時に彼女は叫んだ。
「――早く私を、殺せえええ!」
「――――」
叫び声が重なった。
『――許さぬ! この私が許さぬぞ! 殺せ! 殺せ、殺せ、殺せ、殺せええええええええ!』
彼女がそう叫んだ瞬間、アランの目が恐怖に染まった。
幼い頃の記憶が、アランの体を支配する。瞳孔を開き、人の死を命令した友人。そして血に染まり始めた、庭園。四方から上がる、悲鳴、斬撃の音、血しぶき――地面を染め上げる、血だまり。
アランは身動きできなかった。
「――殿下!」
自分の命を危ぶんだ、部下の声が鼓膜を揺らす。しかし間合いは、既に防御の余裕もなく、目の前に白刃が煌めいた。
頭上から振り落とされる刃に対応するには、もう遅い――。
「駄目だ――!」
フロキアが放った月の力も、フォルティスが放った月の力も、届くには遅かった。
――リビア。
アランは美しい、己の友人を見つめる。
失うわけにはいかない――。
失ってはいけない。
「アラン――!」
誰の叫び声だったのか。
木霊するほど強く彼の名を呼んだ人々の目の前で、閃光が放たれた。
閃光は音という音を吸い込み、無音となる巨大な爆発を起こした。一帯を強い衝撃波が襲い、堪えられず人々が倒れ伏す。一呼吸後に瓦解する音が鼓膜を揺らした。巨大な石が床に落ち、そして更に遠くで爆発が起こっているかのような音が落ちる。
立ちこめる白煙で、何も見えなかった。
膝を折り、崩れ落ちる石片を避けるため、腕で顔を覆ったアランは、ひやりと首に触れたものに、目を見開いた。
白く滑らかな指先が、目の前で重なる。
幻覚を見ているのだと思った。自分の首筋に、白い細腕が回され、彼女が背後から自分を抱きしめているなど――。
「……アラン様……」
耳に甘い、彼女の声が、自分を呼んだ。
「……紗江……」
アランは呆然と、己の神子を呼ぶ。彼女は自分の首筋に顔を埋め、震える声で言った。
「……死んではいけません……」
「お前……怪我を」
生きている。自分の神子が、傍にいると認識すると、次いでアランの意識は彼女がまとう匂いに向かった。甘い、甘い花の香りをまとっていた少女の体から漂うのは、濃厚な血の匂い。視線をずらすと、彼女の着物は深紅に染まり、アランは目を見開いた。
「――さ」
「陽菜……っ」
アランははっと、目の前にいたはずのリビアを探す。
リビアはアランから少し離れた場所で、床に座り込み、涙を流していた。彼女が見つめるのは、床に転がった石だ。石には、黒髪の聖女が微笑み、彼女を見上げていた。
自分の首に回された腕が、するりと離れていく。
――待て。お前をもう、手放したくない。
咄嗟に彼女の腕を掴もうとして、アランはぎくりと動きを止めた。自分の脇を通り抜け、リビアに向かって歩き始めた少女。
「……紗江……」
名を呼ぶと、彼女はかつてと変わらぬ、甘い笑みでこちらを振り返る。だがその姿は、これまで見たどんな彼女でもなかった。
深紅の着物に深紅の髪。変わらぬのはその黒い瞳だけ。
無垢な白い着物で彩られるべき自分の精霊は、血を吸い上げた深紅の着物と、血濡れた髪をもつ、鮮血に染め上げられた状態だった。
アランの瞳に、涙が滲んだ。
――すまない。
――お前を守れず、本当にすまない。
唇は震え、声は出せなかった。
しかし彼女は、その声を聞いたように、至極優しく微笑んだ。
「……いいの」
ぽつりとそう言って、紗江は背を向ける。
――どこへ行くんだ。俺の腕に戻れ。
そう言おうとして、アランは唇を噛んだ。紗江は、まっすぐにリビアの元へ進み出た。
石を見つめ、涙を零し、かつての精霊を呼ぶ憐れな姫のもとへ。
「陽菜……っ……ひな……」
紗江はリビアの目の前に立つ。立ったまま、膝もおらず、彼女らしからぬ冷えた声を発した。
「……あなたの精霊はもういないわ」
「……」
リビアが涙で濡れる瞳を上げる。抱きしめて慰めなければならない。誰もがそう思うだろう、弱々しい様子の姫を、神子は真顔で見下ろした。
「貴方の精霊は、もう死んだの」
「う……っ」
リビアの顔が歪んだ。苦しそうな嗚咽が喉から洩れ、また彼女の頬が濡れていく。
憐れな姫に、神子は首を傾げる。
「どうして泣くの?」
アランは眉根を寄せた。今のリビアに投げかけるには冷酷に過ぎると思った。
しかし神子は、平坦な声で続ける。
「あなたの民もたくさん死んだわ。あなたは民が死ぬたびに泣いてあげたの?」
「――……」
リビアは目を見開いた。息をするのが苦しいのか、口を大きく開き、胸を押さえる。
神子は無邪気に問い続ける。
「ねえ知っている? 黒い服を着た、あなたの家臣達も、民だったの。さっきみんな、死んだわ」
「……っ」
怯えた眼差しが神子に注がれた。リビアだけではない。周囲にいた人間も、息を呑んで、神子に注目した。
この国の刺客たち全てが死んだ。まるで彼女自身が殺してきたような言いぐさだと感じるのは、気のせいだろうか。
鮮血で穢れた神子は、淡々と続ける。
「……あなたの父も、死んだ」
「――!」
リビアの目が、驚愕に染まる。
「数十万の民の死と引き換えに、王は首を撥ねられた」
アランは目を見開き、拳を握った。遅かった。正すには遅すぎたのだ。
しかし神子は、にっこりと笑んだ。
「国とは民があって初めて動くもの。ねえあなた、分かっていた?」
「私は……っ私は……」
リビアは反論の言葉を持たなかった。彼女の懐にあったのは深い憎悪。自分から富を奪った者への恨み。上手くいかない現実への憤り。
神子は一瞬にして笑みを消した。
「精霊がいなければ何もできない? ――そんなはずないわ。この国の人は、精霊の助けなんてなくても、しっかり生きているもの」
「しかし精霊がいなければ……我が国はもう……!」
必死の形相で見つめられても、神子は首を振る。
「この国は今、導き手を失った。王の首を撥ねるだけでは、駄目だった。導くべき者もまた、共に死んだ」
リビアはそれが誰なのか分からない顔をした。神子は答えるつもりがないのか、小首を傾げて続ける。
「あなたのような愚かな姫を……そしてあなたを諌められなかった王を頂いた国の民は哀れだわ。けれどあなたは正すべきよ」
「私は……責を負い退くべきだと……」
神子はぴしゃりと言い放った。
「貴方は責任を取って、民の死を背負いながら、この国を導くの」
「…………」
リビアが喘いだ。
神子は冷たく、リビアを見据える。
「あなたはこの国の導き手をことごとく消し潰してきた、罪深き姫よ」
「……」
「国を導く術を持たぬ愚かなあなたのために、多くの才ある民が失われた」
「嫌だ……」
「もはやこの国には数万の民しか残っていない」
「嫌……」
「これ以降ゾルテの民が決起することは不可能だろう」
「い……」
「ねえ、リビア姫」
リビアは頭を抱えた。見開いた瞳は正気を保っているのかどうか、怪しく揺れている。神子が姫を潰そうとしている。
神子は残酷なまでに、妖艶な笑みを湛えた。
「――あなたは死んでしかるべき姫なの」
リビアの目が焦点を失った。そして彼女の口から無残な悲鳴が上がった。
「だけど死なせてあげない」
神子はリビアの前に膝を折る。現実を見ようとしないリビアの両腕を掴み、漆黒の瞳で見つめた。
「あなたは数十万の民の命を背負って、生きていかなければならないのよ、リビア姫」
アランはふっと息を吐いた。王族が背負うべき責は重い。リビアはそれを知らなければならないのだ。
「私をしっかりと見て」
リビアは涙で濡れる瞳を揺らめかせ、首を振る。
「いやだ……」
「――リビア姫」
鼓膜が揺れた。空気が揺れる。深い声が鼓膜ではなく、脳そのものへ声を届けようと干渉し、リビアは動きを止めた。涙で無残に崩れ果てた彼女の頬を、神子は慈しみ深く撫でる。
「……苦しいでしょう……?」
リビアは低く応えた。
「ああ……」
「あなたはそうやって、民を苦しめて来た。全ての責を取り、あなたはこの国を再び豊穣の国へ導く一翼とならねばならない」
神子はリビアの瞳を強く見据える。
「逃れることなど、許されない」
リビアは瞳を閉ざす。涙がまた、零れ落ちた。
「私には……何の力もないのだ……」
神子は初めて、心から優しく微笑んだ。
「私のお母さんはね……一生懸命、私に月の力を注ぎ込んで、そして神子になるまでに育て上げて死んだわ」
「……」
「お母さんは、こちらの世界に行けば素敵な人たちに出会えると言っていたの。でも本当のところは、きっと貴方や夫が心配で心配でたまらなかったのね。自分が帰れない代わりに、私をこの国に帰して逝ったの」
彼女は首を傾げた。
「あなたはお母さんの可愛いお姫様なのでしょう? 私は貴方達を殺すためにここに来たのじゃない。あちらの世界に戻っても心配させるくらい、どうしようもない貴方達を助けるために来たの。たぶん、きっと」
その目は迷うことなくフォルティスの元へ向かう。フォルティスは悲しみと喜びが入りまじった複雑な表情をしている。
「貴方は一人じゃないのよ。皆の意見を聞いて、行動しないといけないの」
神に最も近い存在である彼女は、おおらかに全てを包み込んだ。
血の匂いに眉根を寄せ、リビアはまた一つ、涙を零した。
「私もあなたを助けてあげる。だからお願い……どうか死を選ばないで」
「わかった……」
リビアの震える手が、神子の袖に触れる。
アランは眉根を寄せた。我慢するべきだろうかと逡巡したが、アランは堪えられなかった。
「――お前は……。お前は俺の精霊だ、紗江」
彼女は、自分の精霊だ。
二度と手放さないと決めた。
誰に求められても、彼女だけは、傍に置かなければならない。
人道に悖るかもしれない。だがアランには国があった。
自国の民のため、アランとて彼女を失うわけにはいかなかった。
恐れを覚えながらも、彼女を呼び止める。
行くなと願うアランの感情は、声に滲んだ。
慈悲深く戦乱の世に呑まれた姫を抱きしめていた彼女は、こちらを振り返った。眉を上げ、アランと視線が合うと、はにかんだ笑顔で、神子は瞳を輝かせる。
「はい。私は貴方の精霊です。だから、お許しが欲しいのです」
「内容による」
ゾルテ王国の精霊になりたいなどと言ったら、即刻連れ去ろう。
アランは覚悟をして拳を握ったが、神子は案外まともな願いを口にした。
「この国に少しだけ、力を分けてもいいですか? ――今」
リビアは震える吐息を吐いて、俯く。
アランは内心ほっとした。しかしそれはおくびにも出さず、厳めしく頷く。
神子は両手を広げ、恐らく彼女自身が破壊したのだろう、ぽっかりと穴が開いた天井を仰いだ。
「ゾルテ王国に祝福を」
彼女は慈しみ深い微笑みと共に、天空へ大量の月の力を注いだ。
広大な国土全域に注がれるよう放たれる、金色の粒子。
その壮絶な月の力の量に、アランの頬が強張ったが、気付いた者はいなかった。誰もが壮大な光景に息を飲んだ。
金の粒子は川と同じ莫大な流れを作った。青い空の全てを覆い尽くす金色の粒子。空に流れる光の川が国土全域に舞い落ちていく。
************************************
乾いた土を耕していた男は、瞼がちかちかするなと目を擦った。目の端に光が煌めいて眩しい。
目を擦りながら腰を上げた男は、空の色にあんぐりと口を開けた。
「なんだありゃあ……」
男の家から子供がはしゃいだ声を上げて駆けてくる。
「すごいすごい! 月の力が降ってるよ!」
「そんなわけがあるか! 馬鹿言ってないで藁でも編め!」
男は痩せぎすの子供を一蹴するが、ふと見た己の家の輝きに、眉根を寄せた。
「ああ……?」
「だからあ、月の力が降ってるんだってば!」
息子が大地を指差す。男は眉を上げた。先程まで乾いてどんな栄養もない畑が、黒々と色づき、瑞々しい色を放っている。
「……」
息子は空を見上げ、奇声を上げた。
「すごい! 空の全部に月の力が広がってるよ! すごいねえ! 王城から広がっているみたい。これだけあれば、きっと今年の収穫は大丈夫だね!」
「……そうだな……」
男は首を傾げる。今もなお降り落ちてくる光は、紛れもなく月の力。体に触れたそれは、男の命そのものにまで力を分け与えた。
ゾルテ王国の各地で、人々は空を見上げた。そして降り注がれる祝福に気付き、それぞれに反応する。涙を流す者、信じられず呆然とする者、ひたすらにはしゃぐ者。皆の反応は違ったが、喜びは広まっていった。
祝福に包まれたこの国に、温かな風が吹いた。
『ゾルテの祝福』『慈しみの女神』
人々は寂しげに、けれど嬉しそうに、王城のある方角を見つめ、そう呟いた。




