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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ゾルテの精霊― 終章
57/112

57.蝶々


 闇の中に光が射した。

 背後から光を受け、部屋に入って来た彼は、ぼろぼろに切り刻まれた服を身にまとっていた。切り刻まれた服の間から滴る黒い液体はサウラと同じ匂いだ。

 全身から血を垂れ流し、ユスは、紗江を、そして紗江の膝の上に落ちた布を見て――疲れ果てた笑みを浮かべた。

「なんだよ……あいつ行っちゃったのかよ、弱えな……」

「ユス……サウラさんが、消えたの……」

 ――ねえ、戻してくれない? そうしたら、私きっと、あの人を救えると思うの――。喉元まで迫った言葉を、紗江は飲んだ。

 声が震える。

 ユスは青白い顔で、乾いた笑いをこぼした。

「そりゃ……月の力を全部なくしちゃあ、消えるぜ」

「ど……して……?」

 死んだ後に、その体が残らないことが分からない。母が死んだ後だって、母の体は目の前にあった。

 彼はベッドに腰掛ける。紗江の膝の上からサウラの服を取り上げた。

「あんたは本当に、何も知らない神子様なんだなあ……。その気になりゃあ……さっさと転移して……ここから逃げ出すことだってできたのに……。しなかったのは……知らなかったからか……?」

 紗江は首を傾げる。

「転移……? ……私が?」

 ユスは突然、愉快気に声を上げて笑った。

「ははは! そうだよ、神子様。見ろよ……その辺に転がってる奴らも、そろそろ月の力がなくなるから、光に変わる」

「――え?」

 床に横たわっていた、黒い塊に目を向ける。すでにちらちらと光の粒子が一帯に浮かび始めていた。

「は……」

『――助けて……』

 耳元で、誰かが囁いた。

 紗江はびくりと、肩を揺らす。目を向けた途端、黒い塊が一斉に形を失った。それは残酷な光景のはずなのに、例えようもなく、美しかった。

 煌めく粒子たちが月の光に呼応して、瞬きを繰り返し、闇に沈んだ部屋が輝く。

 窓から降り注ぐ月の光に触れると、一つ、二つと蝶々が生まれては、また霧散して消えていった。

 涙が零れた。

「あの蝶々は……死んだ人たちだったの……?」

「どうだろうな……。蝶々は月光の結晶だ。全てが死魂なのか……一部が死魂なのか……。死んでしばらくすると、月の力を肉体に留めていられなくなる。だから体が消える。月の力が解放される前に月の力を注げば、死んだ人間も蘇ると言われていた。だけど本当に蘇るかどうか、俺達は知らなかった。……この国の姫様が蘇るまでは」

 声音が変わったユスを見る。ユスは不快気に顔を顰めた。

「姫様……リビア様……?」

 紗江を抱きしめて泣いていた美しい姫様。転じて精悍な眼差しを向けてきた彼女。救いを求めながら、一人で立とうとしている人間に見えた。

 ――アラン様を……唯一、『アラン』と呼ぶ人。

 胸が苦しい。

 ユスがぽつりと言った。

「――けがれた姫様だ」

 紗江は眉を上げる。

「穢れた……?」

 彼は立ち上がり、サウラの服を床に落とした。ぱしゃりと水音が上がる。床一面、血が水たまりのように、なみなみと揺れていた。

「一度死んだあの方は……穢れてしまった。穢れなき聡明な姫君は、もはやこの国にいない。王は腑抜けだ。姫を律する者はいない。だから王家の全てを排除する。……それがサウラの目的だった」

 紗江は周囲を見渡す。全て黒い装束の人々だった。

「――この人たちも……王家の一部だったの……?」

 聞くと、ユスの口元が歪んだ。

「そうだ。こいつらは、王家の刺客だ。ユスも、そうだった。王家に命じられれば、躊躇いなく民を殺していく、意志なき犬だ」

「…………」

 わからない。眉根を寄せ、紗江は首を振った。

「どうして、正さないの……? どうして、正さずに殺すの?」

 ユスは疲れた溜息を吐き出すと、扉へと歩みを進める。彼の背中は、紗江を置いて行ってしまう気配を帯びていた。彼の瞳は、固い意志に染まっている。

「何度も民は決起した。そのたび全てが、こいつら――に殺された。数十万の民を失った今、もはや正す術はない」

「姫様は……あなたと同じじゃないの……?」

 ユスが立ち止まる。

 紗江は彼女の泣き顔も、知っていた。

「彼女も……この国を救いたいと願っていたように思うの」

「――まさか」

 吐き捨て、彼は振り返る。その表情は怒りに染まっていた。

「あれは荒廃の導き手。ゾルテ王国の死神だ!」

「――だから殺すの?」

「そうだ。俺たちは、殺した」

 紗江は目を見開いた。言われた意味が分からず、聞き返す。

「……誰を、殺したの……」

 ユスは血に染まる手を軽く広げ、淡々と言った。

「国王だ」

「――国……王、を……」

「民の命は失われ過ぎた。王は理解した。統治者として、あの男は相応しくなかった。だから俺たちは、王を弑し奉った」

 紗江は、ゆっくりと唇を動かす。

「……今から、どこに行くの?」

 ユスは機械的に応えた。

「ゾルテの死神の元へ」

「何のために?」

「――」

 最初からそのつもりだったはずの彼は、何故か口を閉ざした。

 リビア姫も、殺しにいくわけじゃないの――?

 紗江は首を傾げて彼の答えを待ったが、彼から言葉が返る様子はない。

 代わりに、彼の目が揺れた。

 揺れた瞳は、彼の惑いを映していた。

「……これから何をしたいの?」

「……俺達は……ゾルテの復興を……」

 復興のために必要な、その筆頭は――?

「この国に精霊はいないわ。ゾルテの復興に必要なのは、いったい何?」

 ユスの目が揺れながらも紗江を指し示す。紗江は首を振った。

「私はゾルテの精霊ではないわ」

「あんたは――ゾルテの姫様だろ」

 紗江はユスをまっすぐ見返した。

「ゾルテの姫様は、誰?」

「――」

 ユスはたび言葉を失い、そして耳を塞いだ。

「やめろよ……そんな下らねえ話、聞きたくねえ……っ」

 唇が動く。

「あなたたちの姫様は、誰?」

 彼の肩が怯えたように、震えた。

 唇がほんのりと暖かかい。

 ユスの瞳には、彼女の口元から金色の粒子が吐息とともに吐き出されるのが見えた。

 彼女の言の葉が、塞いだ両耳に入り込んでくる。響き渡る鈴の音のような木霊を伴って。

「失うべきは何――?」

 ユスは口を開く。喉が痙攣して言葉は生まれない。

「正すべきは何――?」

 甘い声だ。思考をぐずぐずに溶かしてしまう、甘露の誘惑。

「あなたたちの導き手となるべき人は――一体どこにいるの?」

 ユスの瞳が苦渋に揺れた。必要な者は既に失われた――。己一人でこれからどうしようというのか。

 紗江はベッドから足を降ろした。同時に呪縛が外れ、ユスの喉が鳴る。荒い呼吸を繰り返す彼は、胸を押さえ、がくぜんと足元を凝視した。

 彼は今惑まどっている。何が正しいのか分からない。信じ切って進んできたその指標であるサウラを失い、彼の基盤は狂った。

 サウラの力を吸った体は、今や身軽なほどにいうことを聞く。

 そしてぴちゃりと水音が響いた。足が濡れた。足元は、血だまりだ。着せられた白い装束が、端から血を吸い込む。白い着物がじわじわと深紅に染まった。

 ユスの顔が強張る。

「おい……やめろよ……着物が」

 紗江は、着物が変色していくことなど気にも留めず頭を上げる。

「彼女は死神なんかじゃなかったわ」

 腹の前で手のひらを重ねれば、袂が床を撫で、血で満たされた床から血を吸い上げた。

 あちこちに転がっていた彼らの血は、闇の中ですっかり床一面を染め上げている。紗江の着物は彼らの死を飲んでいった。

 紗江はユスを穏やかに見る。

「彼女もあなたと一緒」

「おい……」

 着物は深紅に染まり上がり――そして白銀の髪までもが、深紅に染まっていった。

「可哀想なまよ

「……迷い子……?」

 慈悲の全てを湛えた甘い甘い笑顔と声で、紗江は命じた。

「……私を彼女の元へ連れて行きなさい」

 迷子の子供が泣いている。

『許してくれ……陽菜。私はこの国を荒廃へ導くしかできなかった……』

 夢の中でも。現実でも。

 みんな泣いていた。

 みんなお母さんがいないと、泣いている。

 紗江は腕を伸ばす。白く滑らかな手のひらを差し出された彼は、戸惑う。躊躇った彼を促すために、彼女は笑みを深くした。

 私も――ずっと泣いていたわ。

「……」

 日に焼けた手が、白い手に触れた。黒い肌の掌を、白い掌がしっかりと掴んだ。

「行きましょう」

 ――お母さんは、もういないの。



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