56.ゾルテの一姫
意志の強い彼女の瞳が、格好いいと思っていた。常に真っ直ぐに生きようと己を律する姿は、幼いながら尊敬に値するとさえ――。
長い外套を払い、壇上から足音高く降りてくる彼女の衣装は、軍服だ。まるでこれから戦を始める大将のような意気込みを感じる。
「姫様……っ」
ついて行こうとした侍女を、リビアは制した。
「お前はここで控えなさい」
「……」
何があったのだと――聞くまでもなく、彼女は変質した。
あの日――精霊を失った日から、この国の全ては歪んだ。
血塗られた歴史。波乱絶えぬ政情。
胸をめぐる多くの感情を抑え込み、アランは笑む。それがリビアをよりいきり立たせると分かっていながら。
「リビア……どうか俺の神子を戻してくれ」
リビアはアランから三歩離れた位置で立ちどまる。いつでも斬り込める位置だ。
彼女は歪んだ笑顔を返した。
「我が国にいるのは、かつての精霊が残した一人娘だけだ」
「リビア。何をしているのか、本当に分かっているか?」
玉座の傍から動くことを禁じられた侍女の顔色は、悪い。そしてフォルティスは事の裁量を計るべく、疲れた眼差しをこちらへ向けている。
彼女は小首を傾げて、楽しそうに笑った。
「分かっているさ。この国に精霊の特徴のある少女はおらん。いるのは白銀の髪の少女だけ。何を持ってあれを神子と呼ぼうか?」
アランはフォルティスを振り返る。彼の瞳はまだあの頃と同じ光を辛うじて残していた。
「では、フォルティス公。あなたのお嬢様は神子ではないと、あなたもお思いか」
「――お前の相手は私だ!」
リビアは直ぐに牙を剝く。よほどフォルティス公の発言を信用していないのだろうか、彼に発言させたくないと見えた。
アランはふと、彼女の背後を見る。玉座の脇で、顔色悪く俯く侍女。壁沿いに佇む銅像のような兵達。誰も言葉を発しない。それはリビアが許していないからだ。リビアが信を置いて発言を許せる人間と認めていないから。
――リビア。それでは無理だ。
アランはリビアを見下ろし、そして告げた。
「しかし、俺はフォルティス公にお伺いせねばならない。俺の神子は……俺の婚約者なのだから」
「――――」
リビアの瞳が愕然と見開かれた。同時にアランも目を見開く。
「リビア……?」
予想外の反応だった。彼女は一拍して、顔を背ける。
「知ったことか……っ。誰がお前などに……お前などにやるものか!」
「――では、君はフォルティス様のお嬢様を、俺の神子だと認めるんだな?」
リビアは唇を噛んだ。はじめから、彼女は神子ではないという問答で終わらせるつもりではなかっただろう。ただそれが少し早まっただけ。
離れた位置に控えているフロキアが、進言した。
「リビア姫……私共は、姫様が宝石を先に見つけられた際は、石を御前にて転がすとお約束申し上げたはずです」
リビアはフォルティスを凝視する。フォルティスは、アランの告白をどう受け入れればよいのか迷っている顔をしていた。
「約束など……いつでも破棄できるだろう?」
「……リビア……?」
リビアはゆっくり首を巡らせ、アランを睨みつける。
「お前は、強大な己の国家を後ろ盾に、あっさりと約を違えたではないか……」
リビアの侍女がはっと息を飲み、顔を上げた。
アランは唇を真一文字に引き結ぶ。
「――……」
美しい姫だ。何の咎もない姫を切り捨てたのは、他でもない自分。なぜ切り捨てた――? その質問さえ許さず、全ては断行された。
悲劇と凶兆を背景に、あっさりと破棄された永遠の約束。
ノラの固い言葉が反復される。
『何の咎もない少女が受けた傷は未だ癒されず、血を流したままなのでは。そうは思われませぬか、殿下』
本当に――そうだったのか、リビア?
美しい色で塗り上げられた彼女の唇が、震えている。
彼女の瞳は憎悪に染まった。
あの日と、同じ色だ――。
「一度死んだ、この穢れた私を……いらぬと放り投げたお前との約束など――!何故私が守らねばならぬのだ!」
フォルティスをはじめ、周囲の空気が動いた。誰もが驚愕に身じろいだ。そして事態に最も驚愕したのは、アラン自身だろう。
アランは額を押さえた。まさか――あり得ない。
「リビア。そうじゃない。俺は決して……君が穢れたなどと思っては……」
彼女の瞳が揺れる。泣くのではないかと、アランが一歩近づいた時、彼女は叫んだ。
「私は穢れた!! あの日、命を失い、精霊を失って蘇った私は……っ……もはやこの国における毒でしかないのだ!!」
「何を……」
憎悪に染まった瞳と、己の目があった瞬間、記憶が蘇った。
アランは幻聴に身動きを奪われた。
『──許さぬ!』
そして成長した彼女が声を上げる。
「この国から精霊を奪ったのは、この私だ! 気付いておらぬとは言わせぬ!」
「……」
「お前の諫言を受け入れ、あの戦場へ向かわなければ……っ、父王の前に飛び出さなければ、我が国は精霊を失うことはなかった……!」
「――姫様!」
侍女が叫んだ。動きを許されていない侍女が初めて、自ら動いた。手を伸ばす先は己の主。彼女の手元に視線を転じたアランは、片目を眇めた。
「お待ちください! なりませぬ!」
腰に帯びた剣を、彼女は抜いた。
侍女は悲鳴に似た声音を上げる。
「――剣を向けては、なりませぬ……!」
両刃を抜き切った彼女の瞳が、己を焼き切るのではないかと思うほど、彼女の瞳は憎しみに染まっていた。
リビアはあの頃と変わらず美しかった。白い肌、波打つ金色の髪、宝玉のような翡翠の瞳。気高きゾルテの一姫。あの頃と違うのは、腰に剣を携えるようになったこと。
アランは魅入られた気分で、己へ切っ先が向けられるのを見つめた。
覇気を全身から発し、彼女は壮絶な笑みを浮かべた。
「さあアラン。幕をひこうじゃないか……この国の終焉は今この時」
瞠目したのは誰だろう。瞳を閉ざした人間は、一体どれだけいただろうか。
そうか――と、妙に腑に落ちる思いを抱いた者は、一人ではない。
「リビア……君は、この国を手放すつもりか?」
淡々と尋ねたアランに、彼女は頷き返さなかった。
「いいや。手放すのではない。民が我らを手放したのだ」
切っ先を向ければ終わり。
侍女は分かっていた。アランに剣を向ければ、この国は終わると。ガイナ王国を敵と宣言した己の主を前に、彼女は膝を折った。
――一体どれだけの刺客が、君の命を狙ってきたのだろうか。
アランは絶望に似た喪失感を初めて味わった。そして剣を抜いた。
「終わりにしよう、リビア」
――この悲劇を。




