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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ゾルテの精霊― 終章
55/112

55.侍従の涙


 紗江は、虚ろに天井を見上げた。

 自分がベッドに横たわっていると分かったが、体を起こす気力はなかった。もしかすると、起き上がる体力もすでにないかもしれない。

 己の力量を確認するのが億劫で、紗江はそのまま視線をベッド脇にずらした。

 夜なのだろう、部屋はとても暗かった。ベッド脇にある暖炉の灯が、部屋を暖かく照らしている。その赤い灯が、目の前にいた人間を照らし出した。紗江は人の形をしていると認識すると、ゆっくり視線を上げていった。

 ぽたり、と滴が床に落ちる。ぽたり、と彼の髪から落ちた滴が、頬に落ちた。冷たい。

 暗い表情の彼は、紗江をじっと見下ろしている。血色を失った唇が、息を吸い込んだ。

「こちらにお出ででしたか……陽菜様」

 思いのほか低く、力ない声音だった。

 彼の黒い着物は、ずぶ濡れだ。

 自分と母の区別がつかないのか、あえて母の名を呼んでいるのかわからない。しかし彼が普段通りでないことは、分かった。

 ぽたり、ぽたりと滴が床に落ちる。彼の足元はすっかり水たまりができてしまっていて、凍える吐息が聞こえた。

「どうしたの……?」

 ――貴方、とても悲しそう。

 伸ばした自分の手のひらが、震えている。構わず彼の頬を撫でると、彼は奇妙な表情をした。瞬いた後で、彼が笑おうとしたのだと分かった。口角は上がっているのに、彼の眉間には皺が寄り、眉は八の字に落ち、細めた瞳には喜びではなく悲しみが滲んだ。

 彼は笑おうとして失敗した、歪んだ表情で紗江の手を握った。

「申し訳ございません……。僕は、貴方を枯渇へ導きたかったわけではないのです……。……僕は……僕は、またあなたと過ごしたかっただけなのです……。あなたの手のひらから無限に広がる……豊穣の世界で……あなたと共にあったあの夢の続きを、見たかった……」

「……泣いてるの……?」

 炎が揺れて、彼の顔に影が差す。手のひらに、人肌と同じ温度の液体が触れた。

「泣かないで……」

 紗江はぎこちなく震える指で、彼の涙を拭う。

「……大丈夫よ」

 ――ずっと傍にいてあげる。

 言葉にする前にふと、それは無理だと気付いた。ずっと一緒にいるべきは、彼ではない。同時に涙をこぼす姫様の顔が脳裏を過った。

 皆とずっと一緒にいるわけにはいかない。けれど――。

「ねえ……サウラさん。お願いがあるの。カーテンを開けてくれない……?」

 この部屋は暗い。全ての窓が布で覆われて、月の光が届かない。

 彼は涙をこぼす。その口元で、彼は息を吐きながら密やかに笑った。

「もちろんでございます……」

 彼は足音も立てず、部屋を横切った。彼が歩くたび、ぽたりぽたりと滴が落ちる。黒い影となったその染みを追って、彼の腕先を見る。濡れた指が、窓を覆う布を取り払った。

 雨の匂いがしていた。厚い雲で覆われている空の一点のみ、雲が取り払われ、月の光が降り注いだ。

 紗江は細い吐息を漏らす。厚い雲の合間――その月明かりのためだけに雲が払われたようだった。

 煌々と輝く強い月明かりが、紗江に向かって真っすぐ伸びる。

 胸が温かくなった。冷え切った体温が、血のめぐりを思い出す。消えたかと思われるほど静かに動いていた、己の鼓動が感じられた。

 月明かりがこれほど己を救うとは――。

 紗江は目を細めて、彼に礼を言った。

「ありがとう……とても助かったわ……」

 彼の横顔に月明かりが射す。布を取り払った濡れた指先。笑んだ彼の頬を使う滴。彼の体から滴り落ちる水音。

 紗江はとっさに駆け寄ろうとした。けれど体はいうことを聞かず、ただ僅かに上半身を起こせただけだった。足はとなったのか、動きを忘れてそこにある。

「サウラ……あなた……」

 彼は笑んだ。強張った頬をぎこちなく持ち上げ、細めた瞳に涙はない。これまで見たどんな笑顔も、彼の心を感じられなかった。

 紗江はああ、と声を漏らした。

 彼の指先を染めているのは血。濡れそぼった服から滴り落ちるのは、留まるところを知らぬ彼の血液。

「陽菜様……僕はもはや、あなたのお傍にいる資格のない、穢れた者でございます……」

 これが彼の本当の笑顔――。

 彼が見ているのは紗江ではなく陽菜。

 紗江は陽菜によく似た顔と声で、鷹揚に受け入れた。

「そんなことないわ……。あなたは今も……私の大切な家族」

 サウラは重い足取りで、紗江の元に戻る。彼は枕辺に跪き、両手で紗江の手のひらを握った。血濡れた手には、もはや握力さえ残っていない。

「王家の刺客として、多くの民を殺してまいりました。それが正しいのだと、信じておりました」

「サウラさ……」

 紗江は彼の手を強く握った。見上げてくるサウラの瞳だけが、強い意思を残している。

「あの日……陽菜様を失ったあの日……僕は何を失ったのでしょうか。許すことなどできませんでした。僕の唯一の主を奪い取った暴徒を薙ぎ払うことだけが、糧でございました。些細な反乱も許さず……すべてを消し去り……そして多くの民をこの手に掛けました。私は……過ちを過ちとも思わず……荒廃への手助けをしていたのです。今や我が国は、数万の民しかおりません」

 紗江の瞳に涙が溜まった。全ての咎が自分にあると――自分だけのせいだと言わなくてもいいのに。

 サウラの瞳にもまた、涙が浮かんだ。

「僕のために……泣いて下さるのですか……?」

 涙が頬を伝った。

「過ちは、正すことができるわ……」

 サウラの笑みは更に深くなり、彼の目尻から涙がこぼれる。

「左様でございますね……」

 手のひらが温かくなった。月の力の粒子が手の周りを舞っている。紗江は納得した。自分の力を分ければ、彼は助かるかもしれない。だから力を彼に分けようと手のひらに意識を向かわせて、そして反発を感じた。

「え……?」

 サウラは首を振った。

「いいえ、神子様。あなたの力を頂くのではございません」

 手のひらから手首にかけて熱が這い上がる。紗江は目を見開く。

「何を……」

 尋ねる間に、彼がしようとしている事態が分かった。腕を這い上ってくる熱。その暖かな力。

 それは紛れもなく――サウラの月の力。

「駄目よ!」

 慌てて手を離そうとしたが、力ない彼の手のひらが離れることはなかった。呪力で縫い付けられたのか、決して離れず、紗江は喚く。

「離して! 駄目だったら!」

 血濡れた手が、強く紗江の手首を掴んだ。そして彼は儚く笑んだ。

「申し訳ございません……。だけどあなたを救うためには……もう、これしか……」

「嫌よそんなの――!」

 言葉とは裏腹に、体中に満ちていく力。生気を取り戻していく己の体。紗江は目前で力の全てを注ぎ込んだ青年の命が消えるのを、ただ見つめるしかできなかった。

 白い彼の顔。生気ある彼の目から光が消える。薄く開いた唇が、微かに呟いた。

「お許しを……」

 紗江はあえぐ。人形同然に己の膝に倒れ込んだ体に、体温はなかった。

「あ……あ……っ……ダメよ……!」

 ――私のために命を使うなんて、許すわけないじゃない!

 紗江は彼の体を力の限り抱きしめた。月の力を注ごうとした刹那――彼の体が塵と化す。

「うそ……」

 唇から喘ぎ声が漏れた。

「なに……これ……? こ……こんなのって無いわ……っ」

 紗江の瞳はただ無力に、涙を流すしかなかった。

 抱きしめるべき体さえ消え、全てが月光の欠片と同化した。ちらちらと舞い上がる燐光が集まり、蝶々が生まれる。月光を抱いた蝶々は、紗江の周りを一度舞うと、月の光に吸い込まれて霧散した。

「サウラさん……!」

 ぎい、と重い扉が動く音が響く。背後から、強い光が射した。

 紗江は呆然と、涙に濡れた顔を向けた。



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