55.侍従の涙
紗江は、虚ろに天井を見上げた。
自分がベッドに横たわっていると分かったが、体を起こす気力はなかった。もしかすると、起き上がる体力もすでにないかもしれない。
己の力量を確認するのが億劫で、紗江はそのまま視線をベッド脇にずらした。
夜なのだろう、部屋はとても暗かった。ベッド脇にある暖炉の灯が、部屋を暖かく照らしている。その赤い灯が、目の前にいた人間を照らし出した。紗江は人の形をしていると認識すると、ゆっくり視線を上げていった。
ぽたり、と滴が床に落ちる。ぽたり、と彼の髪から落ちた滴が、頬に落ちた。冷たい。
暗い表情の彼は、紗江をじっと見下ろしている。血色を失った唇が、息を吸い込んだ。
「こちらにお出ででしたか……陽菜様」
思いのほか低く、力ない声音だった。
彼の黒い着物は、ずぶ濡れだ。
自分と母の区別がつかないのか、あえて母の名を呼んでいるのかわからない。しかし彼が普段通りでないことは、分かった。
ぽたり、ぽたりと滴が床に落ちる。彼の足元はすっかり水たまりができてしまっていて、凍える吐息が聞こえた。
「どうしたの……?」
――貴方、とても悲しそう。
伸ばした自分の手のひらが、震えている。構わず彼の頬を撫でると、彼は奇妙な表情をした。瞬いた後で、彼が笑おうとしたのだと分かった。口角は上がっているのに、彼の眉間には皺が寄り、眉は八の字に落ち、細めた瞳には喜びではなく悲しみが滲んだ。
彼は笑おうとして失敗した、歪んだ表情で紗江の手を握った。
「申し訳ございません……。僕は、貴方を枯渇へ導きたかったわけではないのです……。……僕は……僕は、またあなたと過ごしたかっただけなのです……。あなたの手のひらから無限に広がる……豊穣の世界で……あなたと共にあったあの夢の続きを、見たかった……」
「……泣いてるの……?」
炎が揺れて、彼の顔に影が差す。手のひらに、人肌と同じ温度の液体が触れた。
「泣かないで……」
紗江はぎこちなく震える指で、彼の涙を拭う。
「……大丈夫よ」
――ずっと傍にいてあげる。
言葉にする前にふと、それは無理だと気付いた。ずっと一緒にいるべきは、彼ではない。同時に涙をこぼす姫様の顔が脳裏を過った。
皆とずっと一緒にいるわけにはいかない。けれど――。
「ねえ……サウラさん。お願いがあるの。カーテンを開けてくれない……?」
この部屋は暗い。全ての窓が布で覆われて、月の光が届かない。
彼は涙をこぼす。その口元で、彼は息を吐きながら密やかに笑った。
「もちろんでございます……」
彼は足音も立てず、部屋を横切った。彼が歩くたび、ぽたりぽたりと滴が落ちる。黒い影となったその染みを追って、彼の腕先を見る。濡れた指が、窓を覆う布を取り払った。
雨の匂いがしていた。厚い雲で覆われている空の一点のみ、雲が取り払われ、月の光が降り注いだ。
紗江は細い吐息を漏らす。厚い雲の合間――その月明かりのためだけに雲が払われたようだった。
煌々と輝く強い月明かりが、紗江に向かって真っすぐ伸びる。
胸が温かくなった。冷え切った体温が、血のめぐりを思い出す。消えたかと思われるほど静かに動いていた、己の鼓動が感じられた。
月明かりがこれほど己を救うとは――。
紗江は目を細めて、彼に礼を言った。
「ありがとう……とても助かったわ……」
彼の横顔に月明かりが射す。布を取り払った濡れた指先。笑んだ彼の頬を使う滴。彼の体から滴り落ちる水音。
紗江はとっさに駆け寄ろうとした。けれど体はいうことを聞かず、ただ僅かに上半身を起こせただけだった。足は木偶となったのか、動きを忘れてそこにある。
「サウラ……あなた……」
彼は笑んだ。強張った頬をぎこちなく持ち上げ、細めた瞳に涙はない。これまで見たどんな笑顔も、彼の心を感じられなかった。
紗江はああ、と声を漏らした。
彼の指先を染めているのは血。濡れそぼった服から滴り落ちるのは、留まるところを知らぬ彼の血液。
「陽菜様……僕はもはや、あなたのお傍にいる資格のない、穢れた者でございます……」
これが彼の本当の笑顔――。
彼が見ているのは紗江ではなく陽菜。
紗江は陽菜によく似た顔と声で、鷹揚に受け入れた。
「そんなことないわ……。あなたは今も……私の大切な家族」
サウラは重い足取りで、紗江の元に戻る。彼は枕辺に跪き、両手で紗江の手のひらを握った。血濡れた手には、もはや握力さえ残っていない。
「王家の刺客として、多くの民を殺してまいりました。それが正しいのだと、信じておりました」
「サウラさ……」
紗江は彼の手を強く握った。見上げてくるサウラの瞳だけが、強い意思を残している。
「あの日……陽菜様を失ったあの日……僕は何を失ったのでしょうか。許すことなどできませんでした。僕の唯一の主を奪い取った暴徒を薙ぎ払うことだけが、糧でございました。些細な反乱も許さず……すべてを消し去り……そして多くの民をこの手に掛けました。私は……過ちを過ちとも思わず……荒廃への手助けをしていたのです。今や我が国は、数万の民しかおりません」
紗江の瞳に涙が溜まった。全ての咎が自分にあると――自分だけのせいだと言わなくてもいいのに。
サウラの瞳にもまた、涙が浮かんだ。
「僕のために……泣いて下さるのですか……?」
涙が頬を伝った。
「過ちは、正すことができるわ……」
サウラの笑みは更に深くなり、彼の目尻から涙がこぼれる。
「左様でございますね……」
手のひらが温かくなった。月の力の粒子が手の周りを舞っている。紗江は納得した。自分の力を分ければ、彼は助かるかもしれない。だから力を彼に分けようと手のひらに意識を向かわせて、そして反発を感じた。
「え……?」
サウラは首を振った。
「いいえ、神子様。あなたの力を頂くのではございません」
手のひらから手首にかけて熱が這い上がる。紗江は目を見開く。
「何を……」
尋ねる間に、彼がしようとしている事態が分かった。腕を這い上ってくる熱。その暖かな力。
それは紛れもなく――サウラの月の力。
「駄目よ!」
慌てて手を離そうとしたが、力ない彼の手のひらが離れることはなかった。呪力で縫い付けられたのか、決して離れず、紗江は喚く。
「離して! 駄目だったら!」
血濡れた手が、強く紗江の手首を掴んだ。そして彼は儚く笑んだ。
「申し訳ございません……。だけどあなたを救うためには……もう、これしか……」
「嫌よそんなの――!」
言葉とは裏腹に、体中に満ちていく力。生気を取り戻していく己の体。紗江は目前で力の全てを注ぎ込んだ青年の命が消えるのを、ただ見つめるしかできなかった。
白い彼の顔。生気ある彼の目から光が消える。薄く開いた唇が、微かに呟いた。
「お許しを……」
紗江は喘ぐ。人形同然に己の膝に倒れ込んだ体に、体温はなかった。
「あ……あ……っ……ダメよ……!」
――私のために命を使うなんて、許すわけないじゃない!
紗江は彼の体を力の限り抱きしめた。月の力を注ごうとした刹那――彼の体が塵と化す。
「うそ……」
唇から喘ぎ声が漏れた。
「なに……これ……? こ……こんなのって無いわ……っ」
紗江の瞳はただ無力に、涙を流すしかなかった。
抱きしめるべき体さえ消え、全てが月光の欠片と同化した。ちらちらと舞い上がる燐光が集まり、蝶々が生まれる。月光を抱いた蝶々は、紗江の周りを一度舞うと、月の光に吸い込まれて霧散した。
「サウラさん……!」
ぎい、と重い扉が動く音が響く。背後から、強い光が射した。
紗江は呆然と、涙に濡れた顔を向けた。




