52.過ち
側面に巨大な穴が開いた教会を見上げ、フロキアは情けない声を上げた。
「ああ~……。遅かった……。遅かったよ、ノラ……」
ノラは眉間に皺を寄せる。
「繰り返さずとも見ればわかります」
馬に月の力を分け与えて移動したフロキアとノラは、半日でウィルビウス州に到着した。クロスからの知らせを受けて向かった教会だったが、既に教会への襲撃は終わっており、更には不機嫌な顔をした王子が教会から出てくるところだった。
王子はフロキアが教会前に立っているのに気付くなり、大股で近づき、がっと首を絞める勢いで胸ぐらを掴んだ。
「貴様、リビアとどんな確約をした!」
容赦なく首を揺らされ、フロキアは力なく笑む。
フロキアはリビアとの口約束について知らせていなかった。少々ごねられたとだけ記載して、鳥に運ばせたのだが、アランをだませるはずもない。
しかしアランの申し出を断ってまで、己が使者となった手前、自ら不手際を申告するのは酌だ。フロキアはすっとぼけてみた。
「何のことで?」
アランの目に灼熱の炎が迸った。
「……ふざけるな……。リビアが黒犬を使っている。俺は一切の協力を求めぬと伝えろと命じたはずだ! 多少の介入は致し方ないとしても、あれが黒犬まで使うのは異常だ。お前――とんでもない条件を飲んだのではないか」
フロキアはふふふ、と半泣きになりながら笑う。
「いやあ……姫様が競争をしようと言うものでねえ……」
アランの眉間に深い皺が刻まれた。
「神子の奪還をあいつと競争すると? ……それだけか」
射殺さんばかりの鋭い眼差しで睨み据えられ、フロキアはつい、口を割った。
「姫様が先に見つければ……神子様に選ばせるようにと……」
「――主人をか!?」
「はい……すみません」
フロキアは申し訳なく、敬語で謝罪する。アランは盛大に舌打ちした。
「下らぬことを……! 神子は俺の物だ! リビアめ、世界の理までも無視するつもりか……!」
「この世の則を乱させぬよう、姫君を守るべき時ではございませぬか」
横合いから唐突に放たれたセリフに、フロキアは愚か、アランまでも驚いてノラを見返す。
ノラは不機嫌な表情ながら、淡々と言葉を続けた。
「枷を外せぬ姫君を救うくらいの気概を見せる時ではございませぬか。何の咎もない少女が受けた傷は未だ癒されず、血を流したままなのでは。そうは思われませぬか、殿下」
アランの眉が跳ね上がる。
「我が国において神子は絶対的に必要不可欠であり、手放すなど不可能。しかしながら、ゾルテの姫君には神子が必要なのでは? ――あらゆる意味において」
「何の話だ……」
アランが事の次第を確認する前に、ノラは明瞭な声音で、断定した。
「ガイナ王国の月の神子は、ゾルテ王国の精霊と、公爵の間に儲けられた一人娘でございましょう。お気づきでないとは言わせませぬ」
「…………」
アランはフロキアの胸ぐらを乱暴に離し、顔を背ける。フロキアは眉を上げた。
「――一体いつから気付いておられたのか、お伺いしたいところですよ、アラン王子殿下」
答えてもらえないことなど分かっているノラは、恨めし気にアランを見つめる。
アランは口の端を僅かに上げて、フロキアとノラに笑んだ。そして背後から駆けてくる武官を振り返った。
「負傷者は無いか」
「は!」
クロス特務曹長が戦闘で応じ、彼の背後に一斉に部隊が集結した。
ゾルテ入国と同時に散らばった人員の全員がここに集っている。各地へ散っている以上、ここへ戻る日数はそれぞれ違うというのに、見事なものだとはフロキアの感想だ。
苛烈な眼差しで、アランは隊へ命令を下した。
「神子の奪還を計る。これより何人も死傷者を出すことを禁ずる。ガイナ王国兵とゾルテ王国兵共に、だ。――いいな!」
隊は返答をする代わりに敬礼を返す。一糸乱れぬ動作は、日々の鍛錬のたまものであり、またアランへの強い忠誠を示していた。
――戦を起こしてはならない。
彼女はそんなことを望んだわけではない。
美しい黒髪。漆黒の艶やかな瞳。珊瑚のように鮮やかな唇が弧を描くと、鈴を転がすような愛らしい声がする。
瑞々しい肌は柔らかく、華奢な体を抱きしめれば、すっぽりと腕に納まった。
かの精霊に似た、俺の神子。
気付いていなかったとは言わない。
少しでも救いになるのではないかと――ただ、そう思った。




