50.白銀の髪
朝議の間には、ずらりと各州から報告にあがった官吏たちが並んでいた。繊細な彫刻が入る壁も、見事な絵画を彩った天井も、煌びやかな光を放つシャンデリアも、かつての財力が残した全てが空々しく残っている。官吏たちは玉座の前に膝を折り、自分の報告の番が巡って来るのを、伏して待っていた。
彼らの一段上にある玉座に座しているのは、ゾルテ王国の嫡子・リビアだ。彼女は姫君でありながら、国政に深く関わっている。今や王の代行さえ担う彼女こそが、この国の統治者といっても過言ではない状態だった。
朝議では、各州の経済状況・民の様子・軍部の動きなどが報告される。目を伏せて官吏たちの報告に耳を傾けていたリビアは、ふと瞼を上げた。彼女の侍従が、会議室内の端をするすると横切り、足元で跪いたのだ。
報告をしていた官吏は、自分の脇に彼女の侍従が来たのに気付くと、すっと視線を落とし、言葉を切る。
小間使いとしてあちこちに飛ばされている青年は、今日もどこか急いた様子だった。その所作だけは優雅なもので、扉の開閉はおろか、足音一つ立てない。
彼はリビアの意識が自分に向かったと気付くと立ち上がり、玉座のすぐ傍まで進んだ。そして彼女に何事か耳打ちし、来た時と同じように音もなく退室した。
さて、報告を続けてもよいだろうかとリビアを見上げた官吏は、ぎくりと肩を強張らせた。
官吏たちの前では決して笑わず、苛烈なまでに酷薄な命令を下す王女が、笑みを湛えたのだ。それも、どこか暗く、腹の内に何かよからぬことを抱えたような、歪んだ笑みである。
またなにか悪いことが起きるのだろうかと、官吏が報告も忘れ憂えると、翡翠の瞳がきらりと彼を射抜いた。
「どうした。――続けよ」
「……はっ」
冷え冷えとした眼差しを注がれ、官吏は慌てて報告を続ける。彼の声は小さく、王女に届いているのかどうかも定かではないが、玉座に座る嫡子が、彼を咎めることはなかった。
リビアは、朝議の最中にほくそ笑んだ。聞くに堪えない各州の状況を聞かなければならない朝議は、毎回苦痛でしかなかったが、今日だけは違った。
己の侍従が耳打ちした情報は、朝議に参上するどの官吏もリビアにくれない、素晴らしいものだった。『犬』たちには、上等な褒美をやらねばならない。彼らの首尾は上々だ。
報告を中断した官吏を促すも、リビアの意識は上の空だった。早くこの退屈な儀式が終わればよいのに、と思いながら、リビアは官吏のどこかぎこちない報告に耳を傾けた。
ようやく朝議を終え、冷たい石の廊下を足音高く進むころには、アリアは内心浮かれていた。
歌いだしたい、とはこういう気分をいうのではないか。
浮かれた彼女は、背後に付き従う侍女の顔が、沈んだ表情である事にも気付かなかった。
「なかなかよい仕事をしたではないか。アランのほえ面を拝めるな、ティティ」
笑い含みに、隣国の王子を揶揄する。リビアが向かっているのは、この城の最上階にある、秘密の部屋だ。八階建てのこの城には、誰も知らない九階があった。隠密を使う際に利用する部屋で、場所を知っているは国王と王女のリビア、そして彼らの腹心数名だけだ。
ティティが言いにくそうに耳打ちする。
「……ただ、少し気になる報告もございまして」
「なんだ?」
リビアは足を止める。そこは廊下の突き当りだった。階下へ繋がる大きな階段の横には、階段と同じ幅の壁がある。その壁の前で立ち止まり、リビアは自身の警護のため、付かず離れず付き従っていた兵二名に手を振った。下がれ、と命じられた彼らは、廊下の端に下がり、首を垂れる。彼らは、ここから先への立ち入りを禁じられていた。
彼ら自身も、階段には近づきたくない様子で、自ら何も見たくないと言いたげに首を垂れ、視線を逸らす。
リビアは侍女と雑談を続ける体で、壁へ向かった。壁にぶつかるはずの彼女の体は、ずるりと壁の中へ溶け消える。ティティも俯きながら、ひっそりとリビアに続いて、消えた。
とぷりと二人を飲み込んだ壁は、水のように波紋を浮かべ、やがて元の壁に姿を戻した。
「どうやら……病んでいるようなのです」
「病んでいる?」
壁を通り抜けたリビアたちは、巨大な部屋の中にいた。一通り生活ができるよう、部屋には暖炉、鏡、窓、ソファ、机、ベッドと全てが揃っている。
暖炉に小さな灯がともっているのを見やり、リビアは柳眉を上げた。暖炉が必要な寒さではない。暖炉のそばに置かれたベットに目を向けると、その脇で彼女の『犬』が膝を折って控えていた。
体の形に添って作られた黒い着物を着た男に、リビアは軽く笑みを向ける。
「オーウェン、良くやった。後ほど褒美を出そう」
「ありがたき幸せ」
彼が後退するので、リビアはベッドに横たわる人物を覗き込んだ。
羽根布団に包まれているのは、少女だった。白い肌がやけに目につく。細い指先は血が巡っていることを疑うほど白く、爪の色が紫に変わりそうな様相を呈していた。唇は既に紫色で、目元は不健康そうに落ちくぼんでいる。
そして枕辺に広がる見事な――白銀の髪。
リビアは眉根を寄せた。
「どういうことだ。私は神子を捕まえろと言ったのだぞ」
今にも死にそうな少女を保護しろと言った覚えはない。
オーウェンは深く俯いた。
「彼女こそが、件の神子です」
「髪が黒くないではないか。これのどこが神子だ。精霊ですらないではないか」
己の優秀な隠密ともあろう者が、何をほざいているのだ。不快を露わに睨み据えれば、彼は委縮して視線を逸らす。しかし彼は主張を変えなかった。
「件の教会に隠されておりました。髪は心労から変色したのだと本人が。こちらへ連れてくる前に、力を確認いたしました。彼女は紐を竜に変えました。物に命を与えるのは、精霊にしかできない偉業」
「その竜はどこだ」
「病んでいるためか、竜は消えました」
「説得力のない報告だな」
リビアは鼻を鳴らす。己でも分かっているのだろう、オーウェンは居心地が悪そうに身じろぎし、取り繕うため報告を続けた。
「……ウィルビウス州で現在異変が起こっております。民の多くが赤い花を身に付けており、大地にも多くの花弁が散布されておりました。確認したところ、花弁の全てに多量の月の力が施されており、急速にかの地は潤いを取り戻しております」
「……なんだと」
声に怒気が混ざった。ウィルビウスの州官からそのような報告は上がらなかった。事態の是非よりも、己に報告が無かったことに怒りを覚える。
オーウェンは顔を上げる。彼の緑の瞳は、僅かに戸惑っていた。
「更に、民の間では、フォルティス公のお嬢様がお戻りになり、民に月の力を分けていると語られている様子」
「――」
リビアの背筋を、ざあ、と寒気が走り抜けた。
フォルティス公――名を聞くだけで、罪悪感に全身が襲われた。あれ以来、リビアは彼とまともに会話をした記憶がない。
リビアはティティを振り返り、自分の声が震えないよう、慎重に声を出した。
「公爵から……何か連絡があったか」
「いいえ」
ティティは首を振る。そして気遣わしくリビアの顔色を窺った。
「フォルティス様に直ぐお取次ぎいたします。……姫様、どうか乱されませぬよう」
「……叔父上の娘だと……?」
目元が痙攣する。少女の顔をしげしげと見下ろし、かつていたあの精霊の面影を探すが、随分昔に消えた精霊を、リビアは思い出せそうもなかった。
「……とんだ茶番だな」
口角が皮肉気に上がる。
愚か者が盗んだ神子が、かつての精霊の娘だと――?
「そんなわけがあるか」
かの精霊は決して戻らない。未だ記憶に残るのは、鮮血の残像と、フォルティス公の慟哭。精霊が粒子となって溶け消えた後姿。
ティティが頭を下げ、部屋を後にする。フォルティス公に連絡を取るのだろう。
オーウェンは、リビアが少女に手を伸ばすと、僅かに体を緊張させた。リビアはちらと彼を見下ろし、くっと笑う。
「何を緊張している。いくら私でも、寝ている少女を殺したりしないさ」
オーウェンは気まずそうに視線を逸らした。
「いえ……申し訳ございません」
リビアは少女の白銀の髪を掴み、指先で梳く。
きらきらと暖炉の光を弾くその色は、見覚えのある色だった。自然、口元が歪んだ。リビアにとってこの色は、ただ美しいと賞賛できるような色ではない。懐かしさと悔しさをない交ぜにさせ、記憶を甦らせる、忌々しい色だ。
滑らかな手触りの髪を撫で、リビアは少女の顔を熱く見つめた。
「なあ……目を覚ませ。お前は一体……誰なんだ?」
少女のまつ毛が揺れる。リビアの瞳に、何故かうっすらと涙が浮かんだ。
失った精霊はもう戻らないのに――何を期待しているのだ、私は。
リビアの指が少女の細い眉を撫でる。肌は思いのほか冷たく、少女の体調が優れないのは隠しようがなかった。
「病むほどに……ここが嫌だったか?」
頬を撫でると、ゆっくりと目蓋が上がった。漆黒の双眸。
柔らかな眼差し。
その目に映った自分の無様な顔。
思わず逃げかけた自分の手を、冷たい手が触れて、引き止めた。口元から荒い呼吸が聞こえる。
リビアの口から、情けない声が漏れた。
「あ……あ……」
少女はリビアを見上げ、そっと笑んだ。
「大丈夫よ……傍にいてあげる……」
「……ひ……」
――その、声。
リビアは己を律する術を持たなかった。震えた指先に触れる手。甘い眼差し。甘露のようなその声は忘れようがなく――。
瞳から涙が溢れ落ちる。
リビアは少女の頬を両手で包んだ。冷たい――冷たい頬を包み込み、その顔を間近で凝視する。少女はどこかとろりとした眼差しで笑んだ。
「大丈夫……」
リビアの喉から嗚咽が漏れる。
「う……っう……っく」
リビアは少女の体を抱きしめ、泣き声を上げた。子供の頃と同じ泣き方しか、彼女は知らなかった。
「ひ…な……陽菜……ひな……っ」
氷の女王。冷徹無慈悲なゾルテの暴君。あれから涙を一欠けらも落とさなかったリビアの泣き声を聞いたオーウェンは、顔色をなくす。
誰も出入り出来ない部屋の中を、叫び声に似た嗚咽が木霊する。
ごめんなさい――。
あの時飛び出さなければ、あなたは消える必要はなかったのに。私さえ出しゃばらなければ、王は死んでも、兄が王位を継ぎ、この国はまだマシな世を迎えていたかもしれないのに。
私が王を庇ってしまったから――。
この国を未だ夜明けのない地獄へ導いたのは愚かな私――。
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夢見心地にお姫様を抱きしめていた紗江は、首筋を濡らす涙の感触に覚醒した。我に返ったところで、紗江の首筋に顔を埋めて泣いている女の子が重く、どうすることもできない。
金色の見事な髪の毛を撫でてみると、とても滑らかだった。誰かこの状況を説明してくれないだろうかと周囲に目をやると、緑色の目がベッドの足元で膝を折り、こちらを凝視していた。彼はどうしたらいいのか分からない様子で、ただ紗江と姫を見つめている。
「許してくれ……陽菜。私はこの国を荒廃へ導くしかできなかった……っ」
紗江は内心、首を傾げる。彼女は姫にしか見えなかった。姫が国をどうこうする権力を持つ者だとも思えず、思ったまま口を開く。
「……あなたのせいじゃないわ」
――あれ、私の指震えてる……。
顔を上げた女の子の泣き顔が可愛そうで、涙を拭ってあげようと伸ばした指先が、小刻みに震えていた。紗江は不思議に思いながらも、お姫様そのものの容姿をした女の子に笑う。
「大丈夫よ。きっとこれから、よくなっていくわ」
女の子は子供のように瞬きを繰り返し、眉を下げる。
「ああやはり……お前は陽菜ではないのだな」
泣きべそをかいた顔が、失望に染まった。
陽菜という名前に、紗江の心臓が跳ねる。彼女は、自分を母と勘違いして、鳴いていたのだ。自分が母であれば、この女の子はもっと嬉しかっただろうと思うと申し訳なく、紗江は苦笑する。
「陽菜は……私のお母さんなの……。ごめんね……」
女の子はぐっと瞼を閉じ、そして勢いよく立ち上がった。もう一度瞼を上げたその表情は、どこか精悍ささえ感じられる。彼女は先ほどまで見せた弱さなど見間違いだと思わせる、強い眼差しでにやりと笑った。
「我が名はリビア。陽菜ならばきっとこう言った。『大丈夫よ私の可愛いお姫様。泣いちゃだめ、せっかくの美人が台無しよ』とな」
母とリビアの間にあったであろう深い信頼関係を知らぬ紗江は、ただ困惑する。
リビアは紗江の困惑など気にも留めず、居丈高に尋ねた。
「お前、どこで生まれた」
「……あちら側……」
「守り人に連れてこられたのか」
「……そう」
彼女の瞳は一時、焦点を失う。紗江の顔のその向こう側を見ているような彼女に、紗江は質問する。
「あなたは……この国の、お姫様?」
「……ああ。――お前を盗んだ、罪深い国の姫さ」
リビアは自虐的に言い放つと、顔を背けた。足元に控えている男に、冷たい眼差しで命じる。
「警護はお前達に一任する」
「畏まりました」
「あの……」
そのまま去ってしまいそうな雰囲気を感じ、紗江は声をかけた。リビアは振り向きざま、暗い眼差しを細めた。
「お前は返さない。お前の血は我が国の公爵である、フォルティスと、先の精霊の血を受け継いだもの。お前は我が国の姫だ。アランになど……くれてやらぬ」
「……」
紗江はきょとりと瞬き、何も応えなかった。
――アラン。
これまで彼を呼び捨てにする人などいなかった。
リビアは蠱惑的な眼差しで、紗江を見下ろす。
「お前はあちら側で生まれ育った、陽菜の娘なのだな」
「……はい」
「お前の名は」
「……紗江」
リビアの手が、紗江の頬を一撫でした。
「紗江。お前は我が国の物だ。覚えておけ」
「私は……」
紗江の答えなど聞く気もない。踵を返して壁の向こうへとぷりと飲み込まれていく背に、紗江は小さく呟いた。
「私は……アラン様の……物……」
傍に控えていた男は、リビアが姿を消すと同時に立ち上がった。紗江は不意に寒気に襲われ、自分で自分の体を抱きしめる。体のあちこちが、痛い。
「寒い……」
男が暖炉の脇に積み上げている木の一つを取り上げ、火にくべた。
「あなたは病んでいるのか? どうすれば治る?」
男の声は当初よりも優しく、紗江を気遣ってくれている。傍にある優しさに縋りつきたい衝動を飲み込み、紗江は俯いた。
「月光を浴びて……月影を飲むの……そうすればきっと……」
応えながらも、紗江はそれが意味をなさないだろうと、確信に似た自覚があった。
だって――私……もう何も受け付けられそうにないわ……。
「おい……っ」
男が慌てて紗江に手を差し伸べる。
紗江は自分の体を抱きしめたまま、前のめりに倒れ込んだ。男が支えた時には、彼女の意識はまた闇の中へ引きずり落とされていた。




