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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ゾルテの精霊― 六章
49/112

49.夢と現


 闇に飲みこまれた。

 ひどく体が重く、いうことを聞かない。

 どろりとした汚泥の中に体が沈みこんでいる。体に絡みつく重みが四肢の自由を奪い、紗江はそのまま腐った沼に飲み込まれようと瞳を閉じた。

 体が揺らされる。

 このまま沈んでしまいたいのに、体を揺さぶって誰かが呼んでいる。

 ――もう寝たいのに。

 何も考えたくなかった。あちこちから延びてくる手の全てを掴もうとしたけれど、無理だった。

 一つを取れば一つが血に染まる。

 けれど一つを見放すには、哀願する瞳が強すぎて、逃れる術を忘れる。

 目先の窮状に手を差し伸べても、結局遠くで窮状が生まれるのだ。

 ――私にどうしろって言うのよ。

 紗江は取り繕うのも忘れ、眉間に皺を寄せ、歯を食いしばった。

 ――私は万能薬じゃないわ。誰を救えばいいのかなんて、わからない。

 目先の弱者に力を垂れ流すしかできない無能なのよ。

 ぱし、と頬を叩かれた。痛みに涙がこぼれた。

 ――なによ。私が悪いの?

 頬を叩いた相手を睨みつけ、紗江は目を見開いた。

『アラン様……』

 彼は見たこともない厳しい眼差しで、紗江を睨み据える。頬を涙が伝った。

 ――だって……。

 紗江は手を伸ばす。

『ごめんなさい。お願い、お願い……』

 何を願っているのか分からなかった。ただお願いと繰り返すしかできない。

 彼は冷たい表情で、外套を翻した。

『もはやお前などいらぬ』

 紗江は膝を折る。そして声を上げて泣いた。

 子供の頃と同じように、泣き声を上げて空を仰いだ。頬を撫でる手に彼の姿を期待して目を開くと、そこには母がいた。

 白く透き通る肌に、黒い瞳が印象的な母は、ひどく可笑しそうに笑っていた。

『あらあら紗江ちゃん。泣かないの』

 紗江が泣くといつも、母はそういって頭を撫でた。

『お月様の夜は月影を映し込んだ紅茶を飲みましょうね、紗江ちゃん。そうしたら……』

 ――そうしたら、どうなるの?

 母は甘く微笑んだ。

『そうしたら、きっと素敵な人たちに出会えるわ』

 視界が揺れる。母の姿が崩れて闇に消える。体が乱暴に揺らされる。

 紗江は眉間に皺を寄せた。頭が揺れて気分が悪い。

「……ろ。……きろ、おい!」

 ぱしりと頬が叩かれた。紗江ははっと目を開いた。緑の玉が二つ、目の前にあった。

「え……」

 紗江が声を漏らすと、緑の玉が離れる。焦点を合わせた紗江は、それが黒い布で顔を覆い尽くした人間だと気付いた。全身を黒い布で覆った男が、紗江の脇に一人、更に反対側に二人いる。

 上半身を起こした紗江は、簡易なベッドの上に横たえられていた。板張りの床は薄汚れている。狭い室内は、人が二人も入れば苦しくなりそうだというのに、四人も入っていて身動きできる幅は無い。

 闇色の四角い窓が一つとその窓の下に木箱が二つ重なっていた。箱から刀や紐、棒などが覗いている。見るからに、穏やかでない場所だ。

 緑色の目の男が別の男二人に顎を振った。出ていくよう合図を送ったのか、二人は頷いて身を屈めた途端、消えた。

「消えた……」

 忍者みたい。

「お前は神子か?」

「え……はい」

 質問に素直に応じ、紗江は頭が重いなあと、こめかみを押さえた。

「ん?」

 紗江はそこで事態の異常さに気付いた。

 ――ここどこ。

 目の前には見知らぬ男。先程まで教会の地下で康と一緒に眠っていたはずなのに。

「え? なにこれ。どういう状況?」

 素で疑問を口にした紗江の顎を、男が掴み上げた。痛い。だが文句を言うと不味そうな男だ。男の眼光はとても暗く、淀んでいる。

「本当に神子か? なぜ黒髪ではない?」

「……黒髪は……心労で白くなってしまって」

 何となく、月の力で変色させたとは応えたくなかった。男は疑わしげに紗江を見下ろし、手を離す。そして唐突に、手近にあった紐を突出された。

「じゃあ、これを蛇に変えろ」

「……蛇は嫌いだな……」

 ――それに、物を変化させたことがないんだけど。ソフィアの鈴をウサギにしたくらいで、あれも手助けがあったからできた感じだったし。花を咲かせるのだけは得意なんだけど……。

 内心ぼやき、しかし男の雰囲気からして断ってはまずそうなので、紗江は溜息を落とす。紐を受け取り、力を注いだ。金の粒子が溢れ始め、紐は形を変えた。

「あ、竜になっちゃった」

 紗江は呑気にそう言った。きっと蛇から関連するイメージで、同じ鱗を持つなら竜の方が可愛いと思ったのだ。自分のことながら、頭がぼんやりしすぎて思考すら掴み切れていない。

 紐は手のひらからサイズの可愛らしい竜になった。手の上で蝙蝠のような翼を広げ、男に向かって火を吐く。

「う……っ」

 竜の雛を出された男は、雛にしては大きな火を吐いた竜から一歩退き、紗江を睨んだ。

「分かった。確かにお前は神子だ。もういい、消せ」

「……え、作ったものを消すのは……」

 ――戻し方なんて習ってない。

 己の力の扱いを未だに御しきれていない紗江をどう勘違いしたのか、男は口元を覆う布の下で溜息を吐いた。

「なるほど。やはり精霊は慈悲深いものだな。一度与えた命を奪い難いとは……」

 都合よく解釈されたので、反論はしないでおく。竜は目を細めて「けー!」と鳴いた。

 ――ああ、やっぱりまだ眠い。

 どこか状況について行けないのは、頭が上手く回っていないからだろう。黒装束の男が紗江に手を伸ばす映像を最後に、紗江はまた意識を手放した。

「おい……!?」

 紗江はぱたりとベッドの上に沈んだ。振動に驚いた竜が羽ばたき、彼女の肩口に降り立つ。小さな竜は神子の口元を舐め、鳴いた。

「ぴー……」

 鳥の雛のような声で鳴いた竜は、神子の頬に身を擦り付けた。

 男は躊躇ったが、彼女の体を抱き上げる。神子の体は力なくだらりと腕を落とした。

「……病んでいるのか……?」

 彼女の体は、当初よりも温度を失っている。

 竜が彼女の肩口に留まったまま頭を垂れ、ぽとりと何かを落とした。

 男は眉根を寄せる。

 竜の目から透明な滴が一つ、彼女の頬に落ちた。

 竜は悲しげな声と共に、金色の粒子となってこの世から消えた。



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