48.盗人
「終わりー。ご苦労だったな。体は大丈夫か?」
珍しく紗江の体をいたわる言葉を吐きながら、ユスが紗江の頭に触れた。フォルティス公爵と同じ色でない髪には、長い布がかけられている。サウラが多少なりとも疑いを招く可能性を回避したいと考えた結果だ。
紗江が重い着物に辟易していることを知っているサウラは、少しでも楽にしてやろうと思ったのだろうか、紗江の頭から布を引き抜いた。布から零れ落ちた白銀の髪を揺れる。なんとなく、先程の二人が気になって、もう一度門の方を見やった。教会の扉がほとんど閉められてしまい、よく見えなかった。
閉まりかけた隙間から覗いた向こう側で、男のうちの一人が、門の鉄格子を掴んだように見えたが、外の景色は直ぐに白い扉で閉ざされた。
「疲れたわ……もう眠りたい」
紗江は瞳を押さえ、常になく、自分の欲求を口にする。全身が重かった。最近は、目の下に隈ができて、とれない。
ユスは肩を竦めた。
「好きなだけ眠れよ。でも食事を取ってからだ」
「食事……」
食事などとらず、すぐにでも眠りたい。内心が表情に出たのか、ユスは顔を顰める。
「飯は食わねえと駄目だ。もう用意してるから、部屋で待ってろよ。寝るなよ」
祭壇の裏側にある、地下への扉に向かうと、黒い着物を身に付けたサウラの部下が鉄の扉の鍵を開けた。
扉から下に続く階段は、闇色で、まるで常闇だ。紗江は慣れた足取りで、闇の中へ自ら足を進める。
雨雲により、光が遮られた地下室は、蝋燭の明かりだけが頼りだった。月が射せば明るいのに、洞窟の中に迷い込んだ錯覚を覚える。地下室まで到着した紗江は、ベッドを見た。康が横たわっている。出会った時よりも、彼の顔色はよくなっていた。
紗江は重い足を引きずって、ベッド脇まで近づき、康の顔を覗き込む。そして彼の額に手を伸ばした。寝ている彼に力を分け与えるのは、もはや日課となりつつあった。
その手首を、ぱしっと掴まれ、紗江は眉を上げた。
「あれ……起きてた……?」
「紗江ちゃん。もしかして毎日こんなことしていたの?」
力を分け与えようとした紗江の手を引きはがして、康が上半身を起こす。聞かなくても分かるだろうと思ったが、よくよく考えると、彼はいつも眠っている時だ。知らないのも仕方ない。
紗江は経っているのもつらく、康の脇に腰を下ろした。
「月の力……入れると、康様の体がよくなっていくみたいだから」
アラン様が疲れた時に月の力を注げば元気になるのと同じだ。何てことはない。
康はどうしてだか、紗江を睨んだ。
「そんなことする必要はないよ。君が倒れてしまいそうじゃないか」
「……そうかな」
確かに疲れているけれど、これは一日立ちっぱなしだったからだろう。紗江は眠気に負けて康のすぐ傍に横たわる。康が紗江の顔を見下ろし、眉を上げた。
「紗江ちゃん?」
「ごめんなさ……もう、ねむ……」
そのまますう、と紗江は眠りに落ちた。
「……寝ちゃったの? 紗江ちゃん?」
康が肩を揺すったが、彼女の眠りは深かった。溜息を落として、康は彼女を引き寄せる。かけ布団をかぶせると、彼女は更に深い眠りに沈んだようだった。
そこへ呑気な声がかかった。
「あっれー? なんだよ寝ちゃったのか? 起きとけって言ったのに、神子様体力ねえなあ」
いつの間にか階段を降りて来ていたユスが、階段裏の机に食事を置く。飄々と近づくユスに、康は剣のあるある眼差しを向けた。
「無理をさせ過ぎだ。これほど力を使わせて、彼女の力が枯渇したらどうするつもりだ」
ユスはふっと片眉を下げて笑う。
「そいつは神子様だぜ。早々力が無くなるわけねえじゃん。あんたと違うんだよ。まあ昨日今日と力を使いすぎてる感はあるから、明日は力を使わせねえようにするけどさ」
「お前は過信している。精霊は望んで力を分けるときと、望まずに力を使われるときで消耗量が違う。昨日、彼女は多くの力を失った。今彼女の力は出会った時の半分しかないんだぞ!」
精霊同士でしかわからない力の感覚。その共鳴は彼女の苦痛さえ理解できるほどだった。眠っている間、彼女の感覚が康にも入り込む。
――苦しい。
喉元から競り上がるような、枯渇が康に伝わっていた。
ユスは一瞬真顔になったが、すぐに取り繕った笑みを浮かべた。
「わーったよ。サウラに無理はさせねえように言っておくって。そんなに怒るなよ。俺達だって神子様を失いたくなんかねえんだからさ」
「ここじゃ駄目だ。彼女は主の元に戻るべきだ」
「――そいつに主はいない」
康の言葉を聞き続けたいと言わんばかりに、ユスは吐き捨てるようにそう言って、背を向ける。背中越しに、ぼそりと呟く。
「そいつはゾルテの姫様だ」
「その父親はどうした。公爵の娘だと流布する割に、何故公爵邸へ彼女を連れて行かない? 公爵に取り次ぐことさえ、出来ていないのだろう!」
康には確信じみた考えがあった。
すぐに公爵へ彼女を引き渡すと思っていたのに、彼らはそれをしない。それなのにこの教会から公爵の姫君が見つかったと伝え始めていた。
これは公爵の足元から噂を広め、収束できない域に達した噂を、事実に置き換えるための手法だ。
きっとサウラは、公爵に受け入れられていない。
サウラの予想以上に、公爵は慎重な人間だったのだ。
彼女の外見は、かつてこの地にいた精霊と瓜二つなのだろう。彼女の顔さえあれば上手く話が進むだろうと思える程度に、サウラには自信があったに違いなかった。だが相手はそう簡単に御せるほど、生易しい人物ではなかったのだ。
突然娘が見つかったと言われても、取りあえず会おうとさえ思わない。いない者はいないと、跳ね除けられるくらいには、判断力のある人間だった。
だからサウラは方針を変えた。
公爵の娘が、慈悲深くも月の力を分け与えている。そんな噂から広まり、民の親愛を得てしまえば、公爵は知らぬと切り捨てることはできない。困窮した国を思うほど、拒絶は出来なくなる。月の力を持つ娘がいれば、この国は生き返るのだから。
だが、その罪は重い。
「お前たちは、国家を動かすほどの大罪を犯している自覚があるのか!」
「うるせえ!」
ユスが感情のまま振り返った時、破裂音が響き渡った。同時に闇が天井から落ちた。
目の前に飛散する透明な欠片。康は目の前に広がった闇を見上げ、動きを忘れた。雨の音が鮮明に聞こえる。まるで窓を開けた後のような音だ。絨毯に雨水がしとどに流れ落ち始めた。
「てめえら、何者だ!」
ユスが声を荒げたが、全身を闇で染め上げた侵入者たちは彼を気に留めた様子もない。闇は全部で四つ。一人がユスに向かって刃を投げつけた。二人は周囲を見渡し、残る一名は康を見据え、そして視線をベッドの上に落とす。
康は咄嗟にベッドに横たわる彼女を抱き寄せたが、男の手が素早く動いた。
「やめろ!」
白銀の髪を持つ少女を、闇の装束に身を包んだ男が、康の手から奪い取る。乱暴に奪い取られた彼女の頭が揺れた。
康は息を飲んだ。
――起きない。
あれほど乱暴に扱われても、彼女は目覚めなかった。
「があ!」
ユスの悲鳴が上がり、血の匂いが部屋に漂う。
腹を切られたユスが床に跪いた。物音を聞きつけた誰かが、階段上の扉を開ける。その音を聞くや否や、黒装束の男たちは窓へ飛び上がって消えた。
康は雨が降り注ぐ天窓を、呆然と見上げる。
月が見えない。
また雲が月を隠す。
康は震える息を吐きながら、ベッドを降り、ユスに近づいた。ユスは腹を抱え、声さえも漏らせない。血が絨毯を彩り続ける。早く助けなければ命が消える。
「ユス……おい」
ユスの肩に手を置いた康は、同時に聞こえた、何かを殴りつける音にびくりと体を強張らせた。
天井が、重い音を立てて揺れた。
「な……なん」
驚いたのもつかの間、天井の向こう側で激しい破壊音が響き渡る。怒声まで聞こえた。
「どうなっているんだ……」
動揺しつつも、康はユスの腹に手を差し込んだ。
「うっ……!」
ユスの額には脂汗が滲んでいた。腹は無残に横一文字に切り開かれている。残虐な手法を選ぶものだ。
康は彼の傷口に力を注ぎ込んだ。ユスは痛みで歪んだ顔を天井へ向けた。
「く……っ」
「えっわ!」
治癒の最中だというのに、ユスは康の襟首を掴み、自分の背後へひっくり返す。何をするんだと康が起き上がると同時に、天井が割れた。厚い板が無理やり砕かれる壮絶な破壊音と、床に何かが打ち付けられる爆発音が重なる。土ぼこりが容赦なく巻き上がり、視力と聴力が意味を失った。
「な……な……」
一体何事が起ったのか分からず、周囲を見渡す。しばらくして奇妙な音が聞こえた。
「ぎゅろおおおお」
地の底から響くような――正確には上空から轟く――恐ろしい音だった。
白い靄が落ち着き始めて、康は床から視線を徐々に上げていった。
――大きい。
茶色い巨大な怪物が、破れた天井の向こうで首を回している。その背から人間が飛び降りた。
――ダン! と音を立てて床に飛び降りた男は、周囲を見渡す。
「ああ?」
不機嫌な声を上げ、男は赤い双眸をぎらりとこちらへ向けた。康は無意識に委縮する。彼のまとう覇気は、尋常でなかった。他を圧することに慣れた、人の上に立つべき姿と強さを兼ね備えた男は、顎を上げる。一拍して、首を傾げたのだと分かった。
「お前……康か」
康は息を飲んだ。低く良く通る声に、体が痙攣した。震える喉から声は出せず、康は頷く。
「――俺の神子はどこだ」
強く言い放たれた言葉に、康の心臓が大きく跳ね上がった。
完全な所有を誇示する声だった。威圧される理由を過分に理解した康は、頬を強張らせる。
「神子様は……」
「ぬす……まれた」
苦しそうな声が、康を遮って応じた。康は我に返る。ユスの処置が途中だった。
「――ちっ」
ユスの腹に手を添えて処置を続け始めた康は、危うく力の量を間違えそうだった。二人の様子を訝しく見下ろし、男は胸の前で両腕を組む。男は、国の頂点に君臨する人間だった。
階段の上から足音が響いてくる。見覚えのある軍服に身を包んだ男たちが駆け下りてきた。
「制圧いたしました! しかし神子様を見つけられません!」
報告を受けた男は、赤い双眸を眇める。
「サウラは」
「消えました」
彼はふっと短く息を吐き出し、指を鳴らした。
「――そこの精霊を保護しろ。バサトに返せ」
バサト――。
主の名前を聞いた瞬間、康の目に涙が滲んだ。手のひらが震える。
「帰れる……」
これまで神子と共に過ごせる穏やかさが、彼の思考を滞らせていた。否――考えないようにしていた。もはや戻る術などないのではないかと、漠然とした不安が常に付きまとい、敢えて視線を逸らして来た。
それが今――この男――ガイナ王国第一王子によって、明確に取り払われたのだ。
康は、俯く。そして顔を覆った。これまで、主と友人が犯した罪が、脳裏をよぎった。
康は震える声で、懇願する。
「お許しください……」
バサト様を――そして僕を。
しかし一国の王子は、鼻を鳴らした。
「罪を犯せば罰せられる。それが世の理だ――精霊殿」
康は深く瞳を閉ざした。




