47.落ちる滴
鳥の背の上で胡坐をかいている彼は、平均的には大きな、だが現在彼が座っている鳥に比べれば小鳥ほどの大きさの鳥から手紙を受け取った。紙面に記された文字を読むなり、紙切れを握りしめ、舌打ちする。
ゾルテ王国は、想像以上に緑が失われていた。かつては森だった小高い山に潜もうとしたアランは、現在はげ山の頂上に堂々と鎮座している。
一国の王子でありながら、アランの周囲を守るべき兵は一人もいない。唯一彼を守るであろう味方は、彼の座布団と成り果てている巨大な怪鳥くらいだ。
怪鳥──紅羽は地面に同化したいのか、体を土の上に伏せて目を閉ざしていた。上空から見れば土色に紛れられるだろうが、巨大すぎる体が造り上げる影により、どこから見ても怪物が地面に伏せていると分かる。
「紅羽、無駄なことはするな。隠れられておらんぞ」
「きゅるるる」
紅羽は主の言葉を理解できる動物だが、人語を操らない。彼は巨大な瞳を潤ませて、アランを見上げた。主の苦言を理解した彼は、一層深く地面に伏せて、羽の中に頭を突っ込んでしまった。どうやら傷ついたらしい。
アランは紅羽の機嫌取りを後回しにして、眼下を見下ろした。クロスとノラから届けられた二つの報せは、どちらもウィルビウス州を指している。しかも腹立たしいことに、クロスによれば、神子の力をふんだんに使わせている様子だ。
「……俺の神子を無断で使いおって……」
土の色がほとんどを占めるウィルビウスの街で、唯一緑豊かな箇所を、アランは知っていた。教会の周辺だ。この国では、教会の周囲だけは木が茂り、森が森としての姿を維持している。
かつていた精霊が残した祝福の跡だ。
ところどころに生える木々は全て奇妙に傾ぎ、そして不思議と、教会周辺の木々は天を目指していた。点在する木々が傾ぐ方向は、全て各州の教会に向いているのだ。精霊の力を求め、木々は首を垂れる。
「いらん犬どもが動き始めているのも気に食わん」
人間としての気配を持たない存在が複数、ウィルビウス州で蠢いていた。教会の周囲にいる黒衣の男どもの気配が、件の犬どもと酷似しているのも気に入らない。なんにせよ、扱いに困る輩が動き出しているのは明白だった。
「リビアめ……」
フロキアには協力を求めるよう命じたが、リビアの懐刀まで動かせとは言っていない。リビアが奴らをアランのために使うはずもなく、アランは顔を歪める。あの犬達は、リビアをはじめとする王家のためにのみ動かされるのだ。
ぽつり、と乾いた大地に染みができた。染みは一つ二つと広がって行く。
紅羽が太い首をもたげ、空を見上げた。つられて空を見上げたアランは、上空に立ち込めはじめた雨雲に眉を潜める。
「この期に及んで、天までも邪魔をするか」
灰色の雲が濃度を上げ、天から降り注ぐ雨が大地を強く叩きつけるまで時間はかからなかった。外套を頭からかぶると、端から零れ落ちる雨水の勢いは、まるで蛇口から流れる水のようだった。
一気に暗くなった街の中は、闇を好む奴らに都合がよい。
「犬どもよりも先に突入する必要があるな。行くぞ紅羽」
「ぎゅるるる」
玉葉は気持ちよさそうに声を上げる。雨が好きな鳥など、この怪鳥くらいのものだろうなと思いながら、アランは紅羽の手綱を握り込んだ。
金の粒子が手綱から鳥の体全てを覆いつくし、紅羽は空に同化した。
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教会の中は浮ついたざわめきに包まれていた。塗装が剥げた椅子は立てつけが悪く、人が座るには相応しくと、サウラたちが着席を禁止している。
それは紗江にとって都合がよかった。もしも椅子が使えたら、教会内は人であふれかえり、人々が帰ろうともせず、紗江は蓄積され続ける疲労に顔色を悪くしただろう。
ただでさえ重い着物を着た紗江は、次々に訪れる民を淡い微笑みで迎え続けていた。疲労困憊の状態だったけれど、瞳を輝かせやって来る人々を見てしまうと、自分の感情は腹の内にしまい込むしかない。
擦り切れた着物を身に付けた人々は皆、骨ばった腕を伸ばし、紗江に握手を求める。やつれた彼らの顔は、牢に閉じ込められていた康よりもずっと悲壮だった。日に焼けた肌を撫でるだけなのに、彼らは瞳に涙を滲ませて笑う。
苦労を知らない自分の手が、骨ばった手のひらを握り込む。骨と皮だけの老人は、紗江の目の前に跪き涙をこぼした。
「よくお戻りくださったなあ……。精霊様は、それはそれは慈悲深いお方で……姫様だけでもお戻りになられて……公爵様もお喜びじゃろうなあ……」
紗江は曖昧に笑むと、傍らにある籐籠から一輪花を取り、差し出す。
「祝福を」
たった一言呟いた紗江を、老人は見上げた。灰色の瞳が、布の隙間から紗江の髪の色を覗き見る。彼は残念そうに、けれど同時に安堵して頭を垂れた。
「ありがとうございます。これで今年の畑を耕せる……」
一列に並んだ人々の波は途切れることを知らない。昼頃から始まったこの儀式じみた礼拝は、ユスの仕切りで動いていた。祭壇の中央で立っている紗江が疲労困憊になる頃合いを見計らい、ユスが休憩を入れる。けれど基本的に立ちっぱなしの上、次々に月の力を花に注がなければならず、気が休まらなかった。
黒髪の康を見られると問題になるため、彼は今、地下に閉じ込められている。サウラは破壊された地下の扉を、数時間で頑丈な鉄の扉に取り換えてしまっていた。
紗江は一息ついて、立ち並ぶ人々の顔を見渡す。皆嬉しそうだ。それが嬉しいと、心のどこかで思える自分が、不思議だ。
着物はとてつもなく重いし、身動きなど取れないが、皆口々に母の話をしてくれた。
母は本当に、こちらの世界にいたようだった。
「精霊様はこの教会でよく話し語りをされていました。子供たちも精霊様の夢物語がとても好きでねえ」
話は元の世界の昔話だったり童話だったりした。あちらの世界の人にとっては、誰でも知っていそうな話が、こちらの世界では夢物語になるところが妙に現実的だった。
「どこでもお昼寝をされるお姿は微笑ましくて」
確かに母はどこでも寝られる人だった。
「まだ幼い頃なんて姫様とそっくりなお顔でしたよ」
そういえば、母の幼い頃の写真は見たことがない。
「私たちにとっては天上のお方なのに、いつも分け隔てなくお話していただけてねえ」
人と話すのが好きだった。
話を聞けば聞くほど、紗江の胸は苦しくなる。
――知らない。自分が知らない母が、この国にいた。
次々に握手を交わし続ける紗江の表情は、次第に歪んでいった。
祭壇近くの椅子に足を組んで座っていたユスが立ち上がり、教会の扉前に立つ兵に顎をしゃくった。
ユスが顎を上げるたび教会の扉が閉ざされ、嘆く声が上がる。だが直ぐに扉は開くと慰められて、人々は教会から出ていった。紗江が休憩する間、人々が扉前で待つものだから長く休憩も取れない。
まだまだ人々がいるのだろうかと、紗江は扉の外へ視線を向けた。その鼻先を湿った風が撫で、紗江は微かな声を零す。
「あ……」
淀んだ雲が、空を覆っていた。サアと地面が打ち付けられる音がして、雨が降りはじめた。
ユスが声を上げた。
「雨だ。皆、今日はこれで終わりにする。悪いが会いたい奴はまた明日来てくれ」
「ああ、雨か。久しぶりだな」
「雨が降れば田畑が潤うねえ」
「姫様がお戻りになってから、いい事ばかりだ。めでたいなあ」
淀んだ雲は、見る間に厚みを増して、闇色に染まった。時を待たず、雨脚は強まった。
喜びに綻んだ表情で家路につく人々を見送りながら、紗江は口角を下げる。
紗江にとって暗雲は決して吉兆には見えなかった。
薄汚れた着物を見送る。最後になった老人の背中を見送る紗江は、扉の外を切なく見つめた。自分も、あそこから出ていければいいのに。
教会の扉の向こう側には、大きな鉄格子の門があった。門は、配備されている兵によって、ゆっくりと閉められていく。
彼らが教会の門をくぐり終えるまで目で追った紗江は、何故か一点に視線を奪われた。茶色い着物が多い中、黒い外套を着た人間が二人、門の脇にいる。視界を悪くするほど強い雨脚が地面で跳ね上がり、霧を作る。
白い雨礫で霞がかった向こう側。彼らは、門に閉ざされたその向こうから、じっとこちらを見ていた。門は鈍い音を立てて錠を落とされる。
外套の陰になって、彼らの顔は見えなかった。
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雨雲が空を覆い始めた。ソラは空を見上げ、溜息を吐く。
「一体どういうことなんでしょうか……。やっぱり公爵のお嬢様は別人なんですかねえ」
民の話を聞く限り、神子なのかどうか判断できなかった。月の力の強さだけは確実に神子を示しているように思うのだが。
クロスは民がそぞろ歩き、向かっていく先を見た。
「見てみなければわからん」
彼の声は幾分硬い。クロスにも、事態はよく分からないようだった。風に湿気がこもりはじめ、鬱陶しい。
通りの先まで見えるよう、首を伸ばしたソラは嫌気がさした。細い道を歩く民は、全てが教会へ向かって人間のようだ。この街へ来た時など、民が全くいないのではと思ったほどだったというのに、この行列はどうだ。
舗装されていない土の上に、ぽつりと黒い染みが落ちた。教会の白い建物が見える。教会入口に聳える、鉄格子の中に進んでいた人波が止まった。
「え?」
ソラは背伸びをして、もう一度、人波の先を見た。鉄の門が動き始めている。
門番が周囲に声を張り上げた。
「雨が降る! 今日はこれで終いだ! 皆、また後日来てくれ!」
「うわ、最悪……っ」
方々でも民の不満の声が上がっている。せっかく顔を直接確認できる機会を、と焦ったソラの腕を、クロスが引いた。教会からあふれ出る人波に逆行して門前まで向かい、閉ざされた門前まで、無理やり進み出る。
教会の中からは、赤い花を持った人々が出てきていた。皆幸せそうに顔を綻ばせている。
ソラは人々が出てきた教会の中に目を向けた。祭壇が見えた。教会の扉が閉まって行く。
ソラとクロスは閉ざされる門の前で、じっと教会の中に目を凝らした。祭壇の前に立つ少女。隣から話しかけられ、少女は祭壇脇にいた男を振り返る。
少女の頭には布がかけられていた。
最後の民が教会の扉から出た時、男は少女の頭から布を取り払った。
ソラは少女を凝視した。
白銀の見事な髪が、ふわりと扇形に広がる。少女が何かを聞いたかのように、こちらを振り返った。
「……っ」
――神子様!
叫びたい衝動を堪え、ソラは鉄格子を掴んだ。閉ざされていく扉の向こう、こちらを振り返った彼女は、まさにアラン様の神子だった。
無言で扉が閉ざされるのを見守ったクロスは、低く尋ねる。
「お前の見知った顔だったか?」
ソラは目に涙を溜めた。降り出した雨が、大雨に変わるまで時間はかからなかった。外套を叩きつける雨音の中、ソラは頷く。
「はい……。あのお方は……私たちの……」
ガイナ王国の――アラン様の、月の神子――。
全身を叩きつける雨は勢いを増す。ソラは情けなくも安堵と失望に涙を落とした。
なぜですか――。
なぜそのような髪に変わってしまわれたのですか。
なぜお戻りくださらないのですか。
アラン様は、ガイナ王国の民は。
――ずっとあなたを探しています。
「そうか。現時点より指揮権が私から殿下へ移る。心して掛かれ」
「は……?」
淡々と告げられた内容が頭に入らず振り返ると、クロスは上空を仰いでいた。空を見上げても、そこは曇天があるだけだ。
ふと足元を見る。巨大な影が教会の周囲に落ちていた。影は動いている。巨大な翼を広げた鳥の形の影だった。
こんなにも巨大な鳥を持っている、変わった趣味の王族を、ソラは一人しか知らない。
「アラン様……」
何も解決していないのに、ソラの声には安堵の色が滲んだ。




