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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ゾルテの精霊― 五章
45/112

45.お人好しと侍従


 デュナメ州州城内でフロキアは半目である。いかにもお人よしの顔をした州官長は突然の来訪にもかかわらず、快くフロキア達を受け入れてくれた。だが隣のノラは明らかに部屋の惨状を睥睨している。フロキアとて同じ気持ちだ。

 ――どうしてこんなに仕事が滞っているんだ?

 フロキア達は急ぎであると告げた。それを組んでウォルザーク・ウィッチは彼の執務室に直接客を案内させたのだ。

 彼の執務室は几帳面なノラにとってはあり得ない惨状である。

 彼の執務机は八割がた山積みの書類で埋め尽くされており、彼の脇にある別の机の上もまた、書類で埋まっていた。

 ウォルザークは、はにかんだ。

「いやあ、お恥ずかしい。他国の宰相様をお迎えする状態でなく申し訳ないです。どうにも仕事が滞ってしまいましてねえ」

「お忙しいところ突然お伺いして申し訳ありません。なにか問題でも?」

 州内で大きな異変がない限り、これほどまで決済が溢れかえる事態にはならないように思う。この男も神子を連れ去った案件に関わっているのかと疑いの眼差しを向けたところ、彼は頬を染めた。

「いやあ、私には優秀な補佐官がいるのですが……彼がいないとどうにも仕事が上手く回らないのです」

「あん?」

 一歩後ろに控えたノラが、剣呑な声を上げたが、下品であったため、フロキアは彼女の前に立ちはだかり、ウォルザークの視界から彼女を消した。

「それはまた、大変なところ、お時間を頂戴してしまい申し訳ありません……。補佐官殿には、先日、言祝ぎの使者としてお越しいただき、非常に有意義な時間を過ごさせていただきました。またお話をできればと思っていたのですが……彼は?」

 ともかく首謀者の行方を聞きださない事には、次にどこに行けばよいのかもわからない。居場所を聞いたところで、嘘かも知れないが、念のためだ。

 フロキアがにこやかに尋ねると、ウォルザークの表情は、心なし沈んだ。

「それが……最近彼は体調がよくないらしくてねえ、ちっとも出仕してくれないのです。ですからこのように仕事が回らず、困っているところなのです。彼ほど優秀な補佐官はないのですが、やはりもう一人雇用するべきですかなあ……」

「知ったことか……っむぐ」

 背後のノラが冷徹にも彼の惑いを切り捨てたので、フロキアはその口を覆った。幸いウォルザークには、ノラの低い声は届かなかったようだ。突然秘書の口を塞いだフロキアを不思議そうに見るので、笑って誤魔化す。

「はははは、いえこちらの事ですお気になさらず。しかし大変ですねえ、お体の調子が悪いのはいつからですか?」

「ガイナ王国から戻ってからずっとなのです。参りましたなあ。どうやら長旅がたたったようです」

「それは申し訳ないことを……」

 建前では表情を曇らせてみせながら、フロキアは内心ぼやいた。

 ――倒れるくらいなら来ないでくれた方が良かったのになあ……。嘘だろうけれどねえ。

 ウォルザークが慌てて首を振った。

「いいえ! そのようなつもりで申したわけではないのです。ガイナ王国へは彼自身がとても行きたがっていたのでねえ。民の生活も安定していない現状での特使はいささか苦しかったのですが、彼が少しでも救われるのならと思いましてね……」

 他国の宰相にあっさりと窮状を伝えてしまうあたり、彼は政治に向いていない人間だ。おそらくこの人の好さを心配した支持者たちが、方々から彼のために動いて現在の役職についたのだろう。人望だけはありそうだと部屋の扉前で控える兵士達を横目に確認した。窮状を述べる州官長を心配そうに見つめている。

「あっ」

 意識を余所へ向けた隙をついて、ノラがフロキアの手を引きはがした。彼女は友好的とはいえない眼差しで、ウォルザークに質問する。

「彼が救われるとは、どういった?」

 ウォルザークは悲しげに眉尻を下げた。

「サウラは……本国の月の精霊様の傍仕えだったものでね……。精霊様を失った当初は、いないということさえ理解できない程混乱していましてねえ……。幼かった彼にとって、精霊様は母親のような存在だったのでしょうねえ。あまりにも可哀想だったので、私の侍従に受け入れたのです。彼は頭の良い子で、あっという間に学をするすると吸収して、今や私の補佐官です。素晴らしい子なのです」

 後半は、まるで自分の子供の自慢話だ。ノラが眉根を寄せるので、彼は気まずそうに話を戻す。

「ああ、すみません。話がそれましたね。精霊様を失ったこの国を彼はいつも憂えていましてね。いつも、かの精霊様を探しているような眼をするのです。ですから……ガイナ王国へ言祝ぎの使者を願い出た時は、神子様のお姿を少しでも見られれば、彼の焦燥も少しは慰められるかと思いまして……。彼は月の宮の競りに参加した日から沈んだ様子だったのでねえ……」

「沈んだ……?」

「彼は競りに参加していたのですか?」

 ノラの声を遮り、フロキアは身を乗り出した。彼の机に軽く手を置くと、書類が乾いた音を立てて床に滑り落ちた。

 全身の血の気が下がっていく。

 落ちた書類が滑って行くのを目で追いながら、フロキアは頭を働かせようとあがいた。理由も分からないのに、鼓動が早くなる。

 フロキアの勢いに瞬きつつ、ウォルザークはこくこくと頷く。

「本国では精霊が必要ですから……本国の宰相と共に、かつて精霊の傍仕えをしていた彼も連れて行かれたのです。それから思いつめたように考える姿が多くなってしまって……。可哀想なことをしてしまった」

 ゾルテの精霊を思い出したのだろうねえ、と呟くウォルザークの言葉を聞いた瞬間、フロキアは顔を上げた。

 競りの日、サウラは月の宮にいた。月の宮は決して買い取り主以外に精霊を見せないが――アランは既に出会っていたではないか。それがアランだけだったと誰が言える? 会えずとも、垣間見ることができる可能性はどれだけあった?

 他国の官吏の前だということも忘れ、フロキアはノラにいつもの調子で尋ねた。

「ねえノラ……殿下のは御幾つだったかな……」

 ノラは眉間に皺を寄せる。

「御年二十一と先日……」

 今度は声を出さず口元だけを動かして尋ねる。

『では、『ゾルテの悲劇』は何年前だい?』

 ノラは目を見開いた。フロキアはこめかみから冷えた汗を一つ零し、口の端を上げる。

「偶然かなあ?」

 ――偶然だと良いなあ。

 情けなくも眉を落としたフロキアをノラは睨みつけた。彼女が暴言を吐く前に、フロキアは宰相の顔を取り戻し、完璧な笑顔でウォルザークを振り返る。

 意味が分からず戸惑う彼に、頭を下げた。

「非常に有用な情報をありがとうございました、ウォルザーク様。つきましては、現在サウラ様はいずこへいらっしゃるのでしょうか? 先日のご訪問の際には田畑の育成に関して非常に楽しく語り合えましたので、ぜひご挨拶だけでもさせていただければ嬉しいのですが」

「現在は……ウィルビウス州にある別邸にいるはずですがねえ……?」

 ――そんなにお人好しで大丈夫ですか?

 人を疑うことを知らないウォルザークは、素直に応じてくれた。あまりにも素直すぎる彼が心配になってくる。

 ウォルザークはこちらの心根など知る由もなく、逆に心配そうに見返してくれた。

「此度のご訪問は、サウラにご用事だったのですか? 申し訳ない。ウィルビウス州まではここから一日もかかってしまうのですが……」

 ――一日!

 狼狽しかけたフロキアの耳元でノラが囁いた。

「ウィルビウスには小隊が既に……」

 ――そういえばソラとかいう若者が戻ると言っていた。クロス特務曹長と合流するとも。

 馬の足で一日なら、月の力を使えは半日もかからないはずだ。

 フロキアは一つ頷き、速やかにウォルザークの執務室を辞するべく身を引いた。

「せっかくですので立ち寄ってみましょう」

「そうですか。彼に会われましたら、私が早く戻っておくれと嘆いていたとお伝え願えますか」

 サウラを信じ切った男は、優しい笑みを浮かべている。

 もう彼がこの城に戻ることは無いだろう。大罪を犯した者の末路など知れている。

 神子に出会わなければ、彼はこの男と共に穏やかな毎日を送っていただろうに――。

 憐みを隠し、フロキアは頷いた。

「……必ず」

 嬉しそうに笑った彼から視線を引きはがし、フロキアは背を向けた。廊下を進むその背中に、ノラの非難がましい声が降りかかった。

「彼には新しい補佐官の雇用を推薦するべきでした」

「……そうだね」

 ――でもそれってさ、とても酷だよ。

 正論と感情はどちらが優先されるべきだろうか。

 法のもと、己の王子を失うまいと駆け巡る我らと、心のままに姿を消した神子。

 さて、どちらが正しいのだろう。



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