44.失われた神子
月の光の中で、紗江は眠っていた。胸の上で両手を重ねて眠る彼女の体は、うっすらと光を放っている。階段を下りてくる足音に目蓋を上げた紗江は、降りてくる人間が想定と違う人間だったことに瞬いた。
康であればこのまま眠りに落ちてもよかったが、これは起きないといけない状況だ。睡魔の誘いを泣く泣く放棄し、紗江は少し重い体を無理やり起こした。
仕事帰りなのか、官服を身に付けている彼は、柔和な表情でベッド脇に佇んだ。
「お休みのところ、申し訳ございません」
「こんばんは……サウラさん…に、ユス。どうしたの……?」
眠い瞼を擦って、開かない目蓋を機能させる。ユスは硬い表情でサウラの一歩後ろに控えていた。俯いた紗江に、サウラが優しく声をかける。
「はい。明日にもフォルティス様のお嬢様であるという公証を頂く運びとなりそうです」
「……こうしょう」
――本当にフォルティスっていう人の娘にするんだ……。すごいなあ。
どこか他人事のように思う紗江と違い、サウラの目はいたって本気だ。
「つきましては、御髪の色を変える必要があります」
「おぐし……?」
髪の色を変える。
その言葉を頭の中で反復してみた紗江は苦く笑った。
――嫌だな……。
元の世界なら、髪の色なんていくらでも変えられたし、気にも留めなかった。だがこの世界では違う。彼の要望には応えるわけにはいかない。
はっきり断りにくくて、紗江は尋ね返した。
「どうして……?」
サウラは底の知れない笑顔だ。
「神子様の見事な黒髪は、どうしても人目についてしまいます。今回、フォルティス様のお嬢様は、陽菜様が密かに市井に産み落とされ……やっと見つけたという話にしました。市井で育ったお嬢様が、月の神子様の特徴である見事な黒髪をお持ちでは、これまで誰にも気づかれず静かに過ごされてきたという話の、現実味がありません。大変心苦しいのですが、どうかフォルティス様と同じ、焦げ茶色の髪へお戻しください」
神子を盗んだ事実は隠し、王家の娘を見つけたことにすれば話は早いのだろう。作り話を聞かされ、紗江は自分の髪を指先で梳いた。髪の色を変えてしまえば、神子の疑いはなくなる。
髪の色は、この世界における、紗江の立場を明確にさせる唯一の目印だ。
「髪の色を変えるって……染料か何かで染めるの……?」
応えたくない気持ちで、視線を合わせられず、また尋ね返す。
「いいえ、神子様。染料では色が落ちてしまいます。確実にお色を変える必要がございますので、月の力で染め上げるのです」
サウラの手が紗江のこめかみに垂れる髪の一房を取った。紗江は瞬く。
「月の……力……で」
そんなことまでできるなんて。
柔らかな声が、紗江を追い込んだ。
「月の力は私たちにもございますが……髪の色そのものを変えるには、非常に多くの力を必要とします。ですから今回は、私が神子様からお力を分けていただき、御髪の色を変えさせていただきます」
じわりと汗が滲んだ。脳裏に浮かぶのはただ一人――。
白銀の髪に、赤い双眸の主。
紗江はうっすらと汗を滲ませ、小さな声で言った。
「無理…かな……」
サウラは少し驚いた表情になる。
「いかがされましたか?」
体の具合が悪いのか、とでも聞くような口ぶりだった。紗江が断るはずもないと、彼の顔は物語っている。
紗江の唇から、血の気が引いていった。
「髪は……髪の色を変えるのは……駄目だよ」
ユスが眉根を寄せた。紗江は視線を逸らす。
戻れなくなる――。
私の顔は、誰も知らない――。
アランは宰相補佐官だ。あの人が自ら探しに来てくれるはずもない。見つける役は、彼の部下に決まっていた。
彼の部下の中で、いったい何人が紗江の顔を知っているだろう。
髪の色を失えば、きっと誰も、紗江に気付かない。
私は――この色を失うべきではない。
「神子様は……この国の民を、哀れとお思い頂けませんか……」
紗江は唇を噛んだ。
――ずるい。
この国は疲弊している。ガイナ王国よりもずっと困窮していて、紗江の力が喉から手が出るほど欲しいはずだった。手を差し伸べなければ――末路は見えている。
『不公平だろう?』
声に出さずとも、ユスは同じ言葉をその表情で繰り返す。
――でも。
脳裏を過ぎる、ガイナ王国の豊かな大地。紗江を見守る侍女たちの柔らかな眼差し。心臓の悪い王妃と、彼と同じ双眸を持つ国王。
誰もが言っていた。頼む――と。
紗江は縋る気持ちで、サウラを見上げた。
「他に方法はないの……?」
「これ以外にございません」
サウラは頑なに言い張った。
――髪の色が変わったら、きっともう帰れない。アラン様にもう二度と会えない。私が戻らなかったら、アラン様は?
「怖い……」
声が震えた。サウラの気配が、柔らかくなる。
「大丈夫ですよ、神子様。髪の色が変わるだけです。お体に異常など、起きるはずもございません」
紗江は首を振る。
「ううん……私のことじゃないの。……アラン様は、私がいないと、法律で裁かれるんじゃないかな……? 王子様が罰せられたら……っく!」
言葉を言い終える前に、彼の手のひらが目を覆った。突然のことで、喉から声を漏らした紗江が、その手首を両手で掴むと、片手が引き剥がされる。
「サウラさ……?」
「どうか、私たちをお救い下さい」
外された手のひらに、サウラの手のひらが重なる。指先が絡まり、強く握られた。暗黒の視界で、紗江は目を見開いた。サウラの手の目的が分からないはずはなかった。
「やめて!」
「お分かりください」
手のひらから何かが吸い出される感覚を覚え、紗江は手を引き抜こうともがく。
「駄目よ……離して!」
強く握り込まれた手は、縫い付けられたかのように離れなかった。ならば目を覆う手のひらを外そうと、もう一方の手に力を入れるも、頭ごと掴んでしまうほど大きな彼の手は、指先をこめかみに食い込ませた。
「……っいぁ!」
痛みに思わず足が上がる。サウラの体を蹴りつけようとした足を、誰かが掴んだ。
「ユス、そのまま抑えていろ」
「いやあ!」
サウラは紗江の目を覆い隠す手のひらに力を籠め、ベッドに紗江を押し倒した。サウラの手首を掴んでいた手も外され、ベッドに縫い付けられる。
「嫌よ! 髪だけは駄目なの! お願い!」
真っ暗な視界の中、自分の状況が分からなかった。全身の自由を奪われ、紗江は瞳に涙が滲んだ。
――髪の色を失うことだけは。
「力を分けていただきます――」
彼の手のひらが力を吸い上げると同時に、紗江は絶叫した。
「きゃあああああああ!」
「お許しを」
激痛が手のひらから全身を駆け巡った。ユスに力を奪われた時と比でない激痛が、紗江を襲う。心臓がつぶれるような痛みを覚えた。力が奪われる。肉を抉られる痛みだった。こらえきれず断続的に悲鳴が上がった。
「やああああ! 離して! はなしてえ!」
「どうか髪色をお戻しください。」
サウラの手のひらから吸い上げられた力が、目元から紗江の体に注がれていく。己の力を彼の体を介して注がれることが、これほどの苦しみだと誰が想像できるだろう。
――苦しい。心臓が……息が――息が上手くできない。
「やああ! はなしてえ! 痛い、いたい! いたいぃ!」
「サウラ……っ大丈夫か!?」
体を押さえつけているユスの声が動揺していた。
――アラン様。
脳裏をよぎるのは、自分を優しく抱きしめてくれる、暖かな主の腕。
アラン様、アラン様、アラン様――!
思う人の名は口から出せず、悲鳴ばかりが上がった。
「いやあああ! 痛い、いたい、いたいぁぁあああああ!」
絶叫と激痛が全てを飲みこんだ。金の粒子が紗江の体を覆い尽くす。サウラは最後まで、手を離さなかった。
大きな衝撃音がサウラの背後で上がったのは、サウラが紗江の力を存分に使った後。閉ざされていた扉が破壊され、黒衣の男が転がり落ちる。見張りに立てていた男だった。
ユスが殺気を向けた先には、白衣の精霊と金色の瞳の下僕がいた。
穏やかな眼差しが似合う精霊は、室内の状況に唖然としていた。
「何を……しているのだ、お前たちは」
ベッドに組み敷かれ、悲鳴を上げていた神子。今はピクリとも動かない彼女が、サウラの下で横たわっている。身動きを奪うため、サウラに乗り上げられている彼女の衣は、千々に乱れ、悲惨な様相でしかなかった。
「これは……」
動揺したユスを遮り、サウラは己の着物の乱れを直しながら、ベッドから降りる。彼は穏やかに康に微笑んだ。
「問題ございませんよ、康様。神子様には我が国の姫君にお戻りいただいただけです」
怒りのの表情で足音荒く階段を下りてきた康は、ベッドの上の彼女に視線を投げ、吐き捨てた。
「――それがお前たちのいう、この国の姫君か」
「……?」
すべて成功したはずだった。光の粒子をまとった神子の髪は変色した。急激な痛みと苦痛に一度気を失った彼女は、すぐに意識を取り戻す。
ゆっくりと上半身を起こし、瞼を上げた彼女は、もはやかつての面影を残さぬ色に――サウラの望まぬ色に、染まり上っていた。
さらりと絹糸ように、髪が揺れる。
視界に映った髪を見下ろし、紗江は肩を落とした。
「……髪が……」
紗江の髪は、変色していた。――誰も望んでいない、白銀の髪に。
――もう、戻れない。
虚ろに見上げた彼らの表情は、一様に驚きを表している。
「構わない……」
サウラが、低い声で呟いた。彼は紗江の目の前に立ちはだかり、白銀の髪を一束すくい取り、笑む。
「黒以外の色なら……普通に生まれるのだから」
「……アラン様が……」
私を失って、死刑になったりしないかしら――。
紗江は、ぼんやりと己の主を思い、項垂れた。
「神子様!」
「――」
紗江は目を見開く。サウラが叫ぶように、紗江を呼んだ。彼は瞳に涙を湛え、紗江の二の腕を強く掴んで、懇願した。彼の瞳は必死だった。
「お願いでございます……! どうか……っ……どうか、ゾルテの民をお救いください!」
「…………」
――ゾルテの、民を。
口を薄く開いた紗江は、吐息を漏らし、口を閉ざした。何も考えたくなかった。体が酷く重く感じられ、紗江は俯く。その動作は、頷く仕草にも見えた。
「――痴れ者が」
穏やかな彼の声とは思えない音が、紗江の鼓膜にこびり付く。
康の声は、怒りに震えていた――。
紗江は重い体を抱え、眠りにつく。
『ずっと傍にいるわ』
それは誰の言葉だっただろう。
振り返った靄の先に、人が立っていた。
女神の笑みを浮かべた少女が、私を見つめている。
優しげな笑み。漆黒の髪。虹色の着物。
ああ……と、ため息が漏れた。
あれこそが私の理想。私の私。
赤い唇が、半月を描いた。
『約束したじゃない』
――そうね。
そう答えた自分の目から、赤い滴が落ちた。
アランを頼むと――言われたのに。




