43.死神
力が満ちていく。
教会の庭園で、見張りに囲まれながら、康は欠けた月を見上げた。神子の隣に居られるようになってから、体の底に薄く漂うだけだった力がどんどん補充され、呼吸が楽になっていく。康は深く息を吸った。呼吸が楽になるほど、視界は明瞭になった。澱が溜まった思考が澄んでいく。
神子は先に寝室で眠りについていた。この地に連れて来られてからもう何度夜を迎えたのか、康はすでに分からなくなっていた。
すぐにでも神子を国家中枢へ差し出すと思っていたサウラは、まだ動かない。だがそれも時間の問題だ。近日中に神子は父といわれている、この国の中枢人物の元へ運ばれるだろう。
傍らで膝を抱えてうずくまるロイを見下ろすと、彼は気配で察したのか顔を上げた。疑いのない純粋な眼で見上げてくる彼を見ると、いつも罪悪感が込み上げる。
「康。シンドイ?」
康は目を細めた。
「ロイ。いつまでもこんなところにいる必要はないんだよ。君は行きたいところへ行きなよ」
バサトの諫言に乗り、神子を盗むという大罪を犯した子供。ガイナ王国へ戻れば、極刑は免れない。今のうちに逃げて欲しい。それが本音だ。
ロイは大きな瞳を更に大きくして瞬いた。
「ロイ、康ノ傍ニイル。康、助ケテクレタ。俺ノ命、康ノモノ」
康は眉尻を下げた。
「僕が君を助けたのは……君を従えるためじゃないよ。あの草原で、君が今にも呼吸を止めそうだったから、助けただけだったんだよ……」
彼は捨て子だ。どの国で生まれ、どこに親がいるのかもわからない。食べる物も見つけようがないほど幼かった彼は、サイの草原で餓死寸前の状態で横たわっていた。それを偶然見かけた康が助けただけだ。
「シッテル。俺、アノ時ホトンド死ンデタ。康ハ神様。ダカラ助カッタ。ダカラ俺、康ノモノ」
「ロイ……」
頑なな言葉を遮るために、康は膝を折ってロイを抱きしめた。何度同じ言葉を繰り返しても、彼に康の想いは通じない。
「僕は神様なんかじゃない」
ロイの喉がきゅう、と動物じみた音を立てた。見なくても分かる。彼は今、瞳に涙を溜めていることだろう。彼は康を神だと崇め信じている。その本人が神ではないと否定するたび、彼は彼自身が否定された気持ちになるのだ。言うたびに彼の心は傷つく。それでも分かって欲しい。
ただの人でしかない。中途半端な力を持つ康には、ロイを守るだけの力はない。それが神子ならまた違うのに。
一国を動かせる巨大な力を背景に、彼女なら道理さえも歪めてしまえる。
「康オネガイ。ロイ、誰モイナ。一人、嫌イ」
「……」
肩口に顔を埋めた子供が、必死にしがみついてきた。康は小さな子供の体を抱きしめ返す。息が震えた。
「そうだね。僕も一人は、嫌だよ……」
どうしようもなく、自分とロイが重なる。
見上げた視界の端で、何かが動いた。切り立った崖の上に目を向けた康は、ざわりと鳥肌が浮くのを感じた。
崖の上に、黒い影が浮かんでいる。細長い影。闇の中に顔のような形がぼんやりと浮かんで見えた。闇が腕を広げ、深い闇の中に白い軌跡が見えた気がした。
まるで巨大な鎌が、そこにあるような――。
――あちらの物語で読んだ、死神のようだ。
無意識に身震いすると、瞬きの後に影は見えなくなっていた。
――気のせいか……。
ほっと視線を落としかけた康の耳に、甲高い異音が聞こえた。闇を切り裂くほどの強烈な音。
「――!」
甲高い悲鳴だった。
言葉まで聞き取れないが、あの声は――。
康と同時に立ち上がったロイが、涙で濡れた顔を教会の足元へ向けた。彼も事態を理解しがたいのか、呆けた顔で呟いた。
「神子ガ泣イテル」
悲鳴は断続的に教会の地下から響き渡ってきた。鼓膜が痙攣を起こし、音を反響させる。
――悲鳴……? 神子が悲鳴を上げるはずがないのに。
この世の至宝を傷つける者など、存在しないと信じ切っていた。
「……駄目だ」
康は呟くと、即座に駆け出す。
突然駆け出した康を引き留めようと、見張りの男が追いかける。腕を絡め取られ、行く手を阻まれる康の耳に、鮮明に声が届いた。残酷な、悲鳴。
――誰もかの方を傷つけてはならぬ。
眉間に皺をよせた彼は、怒りのまま叫んだ。
「――そこをどけ!」
彼の背後に控えていた、獣の瞳孔が開いた。金色の眼を持つ彼の下僕は、主の枷に牙を剝く。
ロイと康を押しとどめようとする人の枷は、比較しようのない月の力の差によって、一つ二つと剥されていった。




