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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ゾルテの精霊― 五章
42/112

42.闇の中を蠢く影

『──帰ってきた』

『帰ってきた』

『帰ってきた』

 ざわめきの中に木霊する言葉を意識したのは、この地に辿りついて一日が経過しようとしている夜だった。

 傾いだ看板の位置を戻す余力もない店の外観は、不衛生だ。

 薄い木の板で囲われた外壁はとうの昔に朽ち、隙間から風は愚か害虫・害獣も出入り自由。くたびれた居酒屋で酒を飲んでいる男たちは、一様に襤褸と変わらない、擦り切れた衣を身に付けている。

 ガイナ王国では襤褸と称されるその布が、ゾルテ王国における庶民の普段着だと気付くまで時間はかからなかった。警護のために着ていた衣服から私服に変えても、ソラ達は空気に馴染まなかった。

 酒と油が染み込んだ木製の机は黒ずみ、出された酒もぬるい。樽から直接注がれた葡萄酒を一口飲み下し、向かいに座っていたクロスが店内を見回した。小さな店内には円卓が七つ。飲んでいる人間は中央に三人組、窓際に二人、ソラが座る席の後ろに二人だ。どれも男。

 店主の男は、腫れぼったい瞼の下で、茶色い眼球だけを細かく動かし、店内を確認している。やる気の見えない給仕の女は、愛想の欠片もない表情で注文した鶏肉の旨煮を机の上に置いて行った。鶏の胸肉が二切れ並んだだけの皿は、材料不足を想像させた。

「う……」

 ――ぬるい。

 自分に用意された発砲酒もまた、ぬるいことは言うまでもないが、やはり喜びが八割削られた。

 ソラはゾルテ王国王城まで宰相を送った。その後、通常三日はかかる行程を、月の力を駆使した強行軍で戻り、現在はウィルビウス州だ。ここはテトラ州からゾルテ王国へ移動した場合、最短距離で入国できる土地だった。

 ソラはここで、ゾルテ王国へ入国直後から動いていたクロスと合流した。

 乾いた大地と疲弊した民の様子に、驚きを通り越して唖然とするしかない。ガイナ王国を出自としているソラにとって、石で整備された道や街路樹、街路灯、緑に茂る田畑、道を行き交う人々の数と笑い声は当たり前だった。隣国は非常に厳しい状況だという話は聞いていたが、実際に見るまで、己の想像の甘さに気付いてさえいなかった。

 舗装されていない土の道を馬で移動する間、片手で数えられるほどしか、民を見ていない。通り過ぎざまに見えた民は、一様にやつれ、痩せ細り、虚ろな瞳をしていた。

 居酒屋に漂う退廃的な空気さえ、疲れ果てている。だが店にいる男たちは、僅かに目を輝かせ、声を潜めて話し込んでいた。

 ――何が楽しいんだろう?

 耳をそばだてても、内容は聞き取れない。そこへ客がのっそりと入って来た。黒い着物を身に付けた男は、空気のように存在感を出さず、店主の目の前のカウンター席に座った。

 クロスは気に留めていない表情で、ちらとソラに目配せをした。

 ――あの男は普通じゃない。

 男は店主に二言三言声をかけ、出された酒をただ俯いて飲んだ。しばらく様子を窺ったが、特に変わった仕草はない。気のせいかと意識を後方の二人組へ戻すと、酒で酩酊した、上ずった声が聞こえた。

「んだってよお! めでてえじゃねえか」

「……つっても、本当か? 怪しいもんだぜ」

「だが帰ってきたのは、事実らしいぞ」

「しっ」

 大きくなりすぎた声を相方に制され、声は途切れてしまった。ソラは引っ掛かるものを感じた。周囲の会話に耳をそばだて続けたが、同じ単語が聞こえるのだ。

『――帰ってきた――』

 皆、興奮気味に何かの話をしている。それも大きな声では言いにくいと認識している内容だ。

 クロスは目の前の鶏肉を一切れ口に運び、顎をしゃくった。

「旨いぞ。お前も食え」

「あ、はい」

 一口で食べられてしまう鶏肉は、見た目に反して、非常に旨みが詰まったいい味をしていた。

「それを食べたら出るぞ」

 ソラは慌ててぬるい酒を飲み干し、外套を手にした。無愛想な給仕に、クロスが勘定を払いながら肉の感想を伝える。奥でひっそり立っていた店主が、ぼそりと礼を言った。

「ありがとよ。またおいで」

「ああ、ぜひお願いする」

 釣りと一緒に小さな紙を渡された彼は、眉を上げて笑んだ。一瞬給仕の頬が染まる。だが直ぐに別の客に呼ばれ、彼女はいかにも億劫そうに注文を取りに行った。

 冷えた空気が通り抜ける夜の外路へ出てから、ソラは給仕から何を渡されたのか尋ねた。

「何をもらったんですか? まさかあの女の住所とかじゃないですよね」

 クロスは笑うまでもなく一蹴した。

「馬鹿を言うな。これは警告だ」

「え?」

 クロスがぞんざいに見せた紙は、茶色く日に焼けている。その紙切れの端っこに、小さな殴り書きがあった。

『闇に飲まれるぞ』

 ソラは眉根を寄せる。

「どういう意味ですか? 確かにここら辺は街灯もないですから、暗いですけど……」

 ガイナ王国ではおよそ見られぬほどの闇が、辺りを飲み込んでいた。店に入る時はまだ道が見えたが、今は店の明かりで照らされた範囲から先は、何も見えない。月明かりだけを頼りに歩くには、目が闇に馴染んでいなかった。

 紙きれを胸元に差し入れ、クロスは意外そうにこちらを見た。

「ああ……お前は知らないんだな。『闇』は、この国では死を意味するんだ」

「シ……死ぃ?」

 スムーズに脳内で言葉を変換できなかったソラは、理解するなり、声を裏返らせた。クロスは苦笑する。

「この国には暗殺組織があってな。組織の色は黒。目を付けられた人間は、闇に飲まれるように夜の内にこの世から消える」

「いやいや、またそんな……夢物語みたいなこと……」

 冗談だと思い、笑って聞き流そうとしたソラは、クロスの眼差しが冷静そのもので、頬を強張らせた。見つめ返しても、クロスは冗談だと言わない。

 ソラはゆっくりと目を見開いていった。

「え……そんな組織……いちゃ駄目だと思いますが……。軍は何をしているのでしょう? そういうのを捕まえるのが、軍の仕事で……」

 クロスは一度居酒屋を振り返り、鼻を鳴らした。

「捕まるわけがないだろう。それを飼っているのは……この国の頂点だ」

 ソラは叫びたい気持ちを全力で堪える。あり得ない。暗殺組織を統治しているのが、王室だなんて。

「この国は、随分昔からその根幹が歪んでいるんだ」

 クロスにしては珍しく、冷たく突き放す声音だった。

 ソラは寂れた居酒屋を振り返る。

 そこかしこに、深い闇が漂っていた。人が集う憩いの場が、端々から闇に侵食され飲み込まれていく。そんな錯覚を覚えた。

「あんなしけた店が王室と関連を……?」

 少なくとも王城は、絢爛豪華な装飾品と堅固な城門・城壁を揃え、貧困にあえいでいる様子はなかった。王室ゆかりの店ならば、もう少し外観や作りがしっかりしていそうなものだが。

 クロスは外套の襟を立てて、店から離れ始める。後に続いたソラは、ふと背後の気配に気づいた。

 店の陰からこちらを見ている人間がいた。

 全身を闇色の服に包んだその人間は、男か女かも分からない。だが影は確実にソラたちの背を見守っていた。

「先程店に入った男でしょうか……」

 小声で確認すると、クロスは視線を前に向けたまま、何も気にしない素振りで先を急いだ。

「違うだろう。あの男が店に入ってから店の周りに複数の気配があった。店が呼んだのか、客の中に誰かいたのか分からないが……我々を歓迎しないなにがしかがいたのだろう」

「ですが……我々が何者かは、誰も知らないはずです」

「探りを入れるよそ者全てが、排除の対象なのだろう」

「……」

 もう一度店の影を振り返ると、そこにはもう、何者の気配もなかった。

「ちょっと見たい場所がある。行くぞ」

 もはや居酒屋に興味を持っていない口調で、クロスは目的地へ向かう。



 三十分ほど歩き続けた二人は、居酒屋からかなり離れた場所に移動していた。実のところソラは現在位置が分かっていない。

 軍人として鍛え上げたクロスの歩幅は大きく、更に尋常でない速さだったのだ。伍長としてそれなりの体格をしているソラだが、追いつくだけで精一杯になる程度に、今日のクロスの歩みは容赦なかった。

 天上には星が煌めき、辺りには明かり一つない。木々が生い茂る森の中に入り込んだ二人は、険しい道を登りつめていた。森の小高い位置に辿りついたクロスは、休憩のためか一度足を止めた。

 ソラは思わずほっと息を吐き、額の汗をぬぐう。

「はー……しかし厄介な国ですね」

 神子を勝手に盗んだり国の中枢に暗殺組織があったり。常軌を逸した情報ばかりだ。

「それに……なんだったんでしょうね。あの『帰ってきた』っていう内容」

 森の先に目を凝らしていたクロスが、ちらと振り返り目を眇めた。

「わからんな。どの席の会話からも肝心な部分が聞き取れなかった。誰かが帰ってきたという話ぶりからすると、我々の目的とは関係はなさそうだが」

 だが彼の表情は険しい。

 ソラは嘆息する。

「あーあ。あれが神子様の話なら簡単に見つかりそうなもんなんですがね」

「そうだな。すぐ見つかりそうだ」

「え?」

 目の前に立ちはだかっていたクロスが一歩脇にずれ、ソラに森の先を見せた。森の中に作られた小道は、頂上で途切れていた。頂点から反対側へ下る道はない。断崖絶壁のその下に、また別の森らしき深い闇が落ちていた。

 闇の塊でしかない地上に目をこらし、ソラは一点に目を奪われた。闇の中にぼんやりと光がある。

「あれは……民家でしょうか……?」

「いや。あれは教会だ」

 クロスは断言した。薄ぼんやりと見える明かりは、小さく揺らめいている。建物の窓から洩れる光の数はわずか二つ。教会の背後にそびえる山の頂点から見る限り、光が漏れ出ているのは、礼拝堂の蝋燭の灯だ。教会の中に人の気配らしきものは感じられなかった。

「教会に神子様がいらっしゃるのですか……?」

「月の精霊は昔から教会が信仰の対象として祀っていた。我々の国では個人所有が優先され、教会で儀式をする精霊は少ないが、こちらの国に精霊がいた頃は頻繁に利用されていた。精霊を月の御使いとして信仰の対象とする信仰心がガイナ王国よりも強いんだ」

「……クロスさんは、教会の位置を事前に調べていたんですか?」

 ゾルテ王国の地図を見たことはあるが、建築物まで記載された詳細なものを見た経験はない。入国後のクロスの動向を、ソラは知らされていなかった。

「俺は幼い頃から殿下と共に行動をすることが多かった。この国は各州に必ず一つは教会があるんだ。教会の位置など誰もが知っていることだ。少し聞けば分かる。だが現在教会はどこも使用されていないはずだ。中に祀るべき精霊を失っているのだから」

 ソラは教会を見下ろす。

「使われていますね。精霊がいるからあの教会は働いているということで?」

「この国の民の信仰心を考えればそうなる」

「では、さっそく確認を……!」

「今日は駄目だ」

 教会を見下ろすクロスの目は、何かを確認していた。

 ソラは口を閉ざす。影の中を何かが蠢いている。

「……」

 崩れかけ、微かな灯しかない教会の周囲は、闇が覆っている。目を凝らすと、何もないように思っていた闇の中を動く影があった。人間だ。先程の居酒屋にいた黒装束の人間と同じ格好の人間が見えた。

 居酒屋からここまで後を付けている気配はなかった。こちらの動きを気取られてはいないはずだが、よそ者の出現に警戒しているのだろう。

 クロスは外套を引き上げて、口元を覆い隠した。ソラに目配せをし、身を転じる。

「人手が足りない。今日は戻るぞ。時期を見て潜入する」

「は!」

 ソラも外套で顔を隠すと、闇の中へ溶け込んだ。


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