41.それぞれの眼
どろりと瞼を上げると天井の月と目が合った。今日も良い顔で笑っている。
「……ん」
隣で身じろぐ少年と自分は朝までしっかり手を繋いでいた。寝ても隈が取れない顔には、胸が痛んだ。
どうして彼はこちらの世界にいるのだろう。こんなに苦しそうなのに、どうしてこの世界で頑張っているのだろう。
サーファイに願えばきっと元の世界に帰してくれるのに。
――そんなにあなたの主は素晴らしい人だったの?
牢に閉じ込め、鎖でつなぐ無体な人間だった。けれど彼はそんな状態でも、主を庇った。
――昔は違ったの?
紗江は康の顔を覗き込む。前髪の隙間から覗く、長い睫が朝日を反射する。その睫は、しっとりと濡れていた。
「怖い夢でも見たのかな……」
――私のご主人様は、とっても私に甘かったわ。とても優しくて、心配性で、赤い目がちょっと怖いけど、すごく格好いいのよ。
紗江はアランを思い出しながら微かに笑い、慣れた動作で彼の額に手を置いた。
眠りに落ちている彼の中に、ゆっくりと月の力を注ぐ。
王妃に与えた時と同じように。
――どうかアラン様の大事な人が、辛い思いをしませんように。
ガイナ王国の王子であるアランにとって、康はその一人だろうから。彼だって、ガイナ王国に必要な人なのだ。
「ん……」
肌に触れられて、小さく身じろいだ康は、すう、と心地よさそうに深く息を吸った。
月の力を与え終わり、紗江は胸を押さえる。
「少し……体が重い」
昨夜酒を飲み過ぎただろうか。視線をあげれば、窓の外に晴れ渡った青空が広がっていた。
************************************
「あのクソ野郎……」
下品極まりない言葉を吐いた王子を一瞥し、ビゼーは溜息を落とす。宰相の執務室で、分厚い報告書の束を読んでいた王子は、現在空席となっている宰相本人の執務席に憎々しい視線を投げた。
「まあ宰相がクソ野郎かどうかといえば是とお答えしますが、乱暴なお言葉はお慎み下さい。品位を疑われます」
生まれ落ちた瞬間から貴族として教育されているビゼーの感覚は、王室の教育係の感覚と大差ない。王子は怒りのまま記録帳を床に投げ捨て、閉じ紐が解け崩れてしまった書類の束を指さした。
「見ろ……! 盗人が堂々と挨拶に来ている! 俺の神子を奪った男から土産を受け取り、あいつは呑気に笑顔を振りまいたということだぞ! 更には我が国の農業の視察まで許す始末……!」
本国を代表する宝石と宝玉の視察を選ばぬところが小賢しい、と怒鳴る王子の言葉を聞き流し、ビゼーはうんざりと指先で円を描く。指先から光の粒子が溢れ、床に散らばった記録帳が元の体裁に戻り、手元に飛んできた。
先程まで王子が見ていたページを開くよう力をかけると、ごく最近の記録が開かれた。
テトラ州州官長を捉えたのちの事情聴取で得られた情報は、神子を盗んだのは遊民であること。それを指揮しているのはゾルテ王国の青年だったという。青年はゾルテで有名な呉服屋の跡取り息子を名乗ったが、ガイナ王国への入国記録にはなかった。
青年の特徴を確認したところ、宰相に謁見を願い出たデュナメ州州官長補佐官の顔と一致した。髪と目の色は本人の特定に非常に便利な情報だ。
ノラの几帳面な記録を読み終わったビゼーは、視線を上げる。王子は断固たる口調で宣言した。
「俺はゾルテへ向かう」
「お待ちください」
即座に彼をガイナ王国へ引き止める数多の理由が頭を駆け巡り、ビゼーは思い当たる端から上げていく。
「殿下は宰相補佐官です。現在宰相の代理業務を務めておいでの殿下が席を外して、誰がどのように対処するのですか? さらに殿下は王立軍第三部隊の指揮官です。軍は各地における警備と民の安全を守っており、殿下はその一翼を担っております。特に第二州であるジ州においては殿下が州官長を兼任されており、警備の筆頭官でもございますね」
「採決を急ぐ案件に関しては、既に決済をしている。これから出る急ぎの用件は王に代理を頼め。ジ州の業務に関しては補佐官に一任せよ。警備の筆頭官はお前に権限を一次的に移す。ヘキサ州の警護については、既に修正案に採決が出されていただろう。第三部隊の指揮権およびお前が補佐しているモノ州の警護管理に関しては、リカド一人でも適う」
「殿下……」
ビゼーはげんなりと王子を見下ろした。いとも容易く無理難題を押し付けようとするものだ。さらりとすべての対応策を出せるくらいには、王子の中でゾルテ行きは決定事項のようだった。
今日、自分が王子に呼び出された理由がよく分かった。
彼は先ほどまでと少し違う、硬い表情でビゼーを見上げる。
「ビゼー。この国は豊かだ」
ビゼーは何を今更、と見返した。
「我が国とは対照的に、ゾルテ王国は長く内乱が続き、経済が落ち着かず、大地は月の力を蓄えられていない」
「はい」
隣国の状況を憂えてはいるものの、ガイナ王国は他国の内政に関してまで、干渉できない。それを歯がゆく思っているのは、他ならぬ王子だろう。
「三国の内、最も神子を必要としているのはゾルテであることを、俺はよく分かっている」
「……左様でございますね」
「だが神子を奪われるわけにはいかない。なぜなら、神子を盗み、それを良しとすれば、この世の秩序が乱されるからだ。精霊は競りにより公平に手に入れられなければならぬ」
一つ言葉を区切り、王子は窓の外――ゾルテ王国の方角を見る。まるでゾルテ王国の国土が見えるかのように、彼の表情は顰められた。
「我が国は豊かだが、実際に民の全てが豊かかと言えば、そうではない。我が国とて大地の恵みは不足しており、経済格差が大きすぎる。俺はこの大地が生む恵みをより確実にし、民自身が与えられた農地だけでなんとか生きていける程度まで、この国を豊かにしたい。それを実現するには、神子の力が必要だ。領土は広大であり、端々まで力を注ぐには時間がかかる」
「殿下……」
「ビゼー。俺にはあの神子が必要なんだ」
ビゼーは嘆息した。肩を竦めて記録帳を宰相の執務机に放り投げる。
「分かりましたよ。どうぞお好きに。殿下のご不在は私どもで確実にお守りいたします」
「ありがとう」
王子は深く頭を下げると、指を鳴らした。王城の彼方より風が舞い上がる音がきこえ、王子の愛鳥が、先程書類を放り投げられた机の向こうの窓から、こちらを覗き込んだ。人の頭ほどもある巨大な黄金の目玉をぎょろつかせ、彼は己の主人の顔を見つけると、嬉しそうに愛らしい声で鳴いた。
彼の名を紅羽という。その飛行速度は何よりも早く、雄々しい。雄だというのに愛らしい名だと、今日もビゼーは内心鼻を鳴らす。
************************************
サウラは粛々と計画を実行に移していた。彼は母のために作られた、白地に金と桃色の刺繍が入る衣を紗江に着付けさせ、教会の中央で儀式を求めた。
教団の祭壇に立たされた紗江は、一段下に跪いて籠を捧げ持つサウラに首を傾げる。
「どうしたら良いので……」
紗江は一度言葉を切った。わけが分からないと、長年培われた癖で、敬語がでてしまう。言い方を変えて質問を繰り返そうとしたが、皆まで言うまでもなく、サウラは答えてくれた。
「この籠をお受け取りください」
「はい」
とりあえず言われた通り、籠を受け取る。何の変哲もない蔦を編み込んで作られた籠の中には、赤い花びらが山盛りだ。
甘い香りがふわりと広がった。
「その花びらに、月の力を注いでいただけますか」
「……花びらに、力を……」
どうするのだろう。植物や無機物に力を注いだ経験はあるものの、全部無意識だった。人なら触ればできるが、同じだろうか。紗江が考え込んだところ、教会の最後尾の座席に座り、儀式を見守っていた康が、静かに教えてくれた。
「息吹を……息を吹きかけるだけで、できるよ」
「そうなの」
紗江は眉を上げ、改めて籠を見下ろす。息をかけるだけなんて、そんな簡単な作業でできるのかしらと、半信半疑ながら軽く息を吹きかけた。
――力を注ぐ。
考えながら息を吐くと、さほど強く吹いていないのに、花びらが宙に舞い上がった。
「わあ」
「うん」
紗江は驚いて声を上げた。康の傍で、こちらを眺めていたユスが、満足げに頷く。
舞い上がった花弁一つ一つに、金の粒子がまとわりついていた。ほんの数秒宙を漂った花びらたちは、ゆっくりと籠に戻る。
サウラの目が、涙で潤んでいた。
――涙目になるほどなの……?
彼は紗江に聞こえない、微かな声で呟く。
「陽菜様……」
「え?」
サウラははっと我に返り、いつもの笑みを浮かべた。
「――お見事です、神子様。その花びらを民に分け与え、乾いた大地へばら撒きます。そうすると少しずつこの地が潤っていくのです」
「そうなんだ……」
紗江は感心する。力を注いだものに、そんな効力があるのを初めて知った。アランには、こんな作業を求められなかった。必要なときにだけ力を使えと抱きしめるばかりで、その必要な時がいつなのか、紗江には教えない。
ほんの少し考えて、紗江はサウラに籠を返した。
「役に立つなら、嬉しいわ」
何もできずにぼんやりと過ごすより、よほど理にかなった生き方だ。
思ったまま言っただけだったが、サウラは笑みを深くし、ユスは眉を上げ、康は僅かに表情を曇らせた。
************************************
「いやー……クロス特務曹長って、実に使い勝手の良い部下だなあ」
フロキアはゾルテ王国の都にある、上等な喫茶店で茶をすすっていた。
ゾルテ王国への入国を果たした瞬間から、フロキアの指揮を離れ、自ら動き出した軍人を誉めそやす。
彼は己の部下を引き連れて、街へ散った。テトラ州近郊のゾルテ領をしらみつぶしに回るつもりらしい。どんな伝手があるのか知らないが、彼にはおおむね目的遂行に必要な情報が手に入っているようだった。
リビアの了解を得る前だったが、どうせ承諾を得るまで譲らないつもりだったので、結果は同じだ。
向かいに座るノラは、何故だかご機嫌斜めにこちらを睨みつけた。
「殿下の腹心です。当然でしょう」
「おや……僕は賞賛したつもりなんだけど、どうして怒ってるのかな?」
ノラは大きく鼻息を出す。
「宰相がちっとも動こうとしないからです。なにを呑気に喫茶で茶など飲んでいるのですか!? 此度の事態は一刻を争います。本国における力の要が、全て隣国へ移っているなどと恐ろしい……! すぐさま盗人をひっ捕らえ、八つ裂きにしたいほどだ……!」
実に愛国心溢れる、殺意のこもった瞳だ。
フロキアはまた茶をすすり、ほう、と満足げに溜息を零した。
「まあねえ……。僕も殿下が首を撥ねられるような事態にはしたくないからねえ……」
「幼女趣味の変態など今は問題ではない!――のです!」
上官に対してだけは努めて敬語を使おうとしている秘書に、フロキアは笑いかける。
「今、確実に敬語忘れてたね」
「忘れてなどおりません! 女の身ながら、宰相秘書に抜擢いただいた御恩は言葉に表しきれぬほど感じております。いかに己の上官が好色で、下品で、いい加減であろうとも、身分という障害がある以上、完璧を貫かねば!……と心に決めております」
「うん。最後の方、言わないでほしかったな……」
己の人望について、フロキアはほんの少し考え込んだ。しかし目の前の机が、勢いよく叩きつけられた。
「――っ!?」
ノラが激怒したのかと思ったが、彼女も驚いた顔で机を見ている。
二人が使っていた机の上は、酷い有様になっていた。高級な陶器のポットとカップは横倒しになり、菓子を並べていたスタンドがへしゃげている。そしてその上に、固そうな筒が落ちていた。
空から落ちて来たのか、と半信半疑で上空を見上げたフロキアは、間抜けにも「へ?」と口を開ける。
「殿下……っいや、アラン? どっちだ!?」
同じく空を見上げたノラが、混乱極まった言葉を吐く。どちらもアラン殿下だ。
しかし彼女の混乱も分からなくもなかった。喫茶店の上空を、巨大な怪鳥が旋回していたのだ。あの鳥を従えるのは、母国においてアラン王子以外いない。
彼に対しては、王太子として対応するか、部下として対応するか、時によって態度を改めなければならなかった。
フロキアはとりあえず机の上に落とされた筒に手を伸ばす。それを確認すると、鳥の影は消えた。
フロキアは周囲に目をむけ、安堵したらいいのか、嘆いたらいいのか、よく分からない溜息を零す。喫茶店には、貴族の令嬢と思しき娘と傍仕えが二人いるだけだった。
「もう仕事を放り出してきたのかあ。まあ、そうなるだろうとは思ってたけど……」
遥か彼方へ飛び去って行く怪鳥を見送る。隠密作業なのに、全てを台無しにしかねない王子の荒業には、ほとほと辟易した。
茶で濡れた筒は、ありがたくも水を通さない鉄製。
「……当たったら死ぬじゃないか」
フロキアは独り言を呟き、鉄の容器に入っていた書面を取り出した。
『デュナメ州州官長補佐官』
その言葉だけが書かれた書面を見下ろし、フロキアはふふっと笑い声を漏らした。
向かいのノラが怪訝に首を傾げる。
「なあんだ……。あいつ、僕を本気で殺す勢いダヨ……」
フロキアの手元を覗き込んだノラは、かっと目を見開いた。
己が笑顔で迎え入れた使者が、首謀者のようだ。
フロキアはさっと立ち上がり、ノラの腕を掴む。滅多にしない真剣な眼差しを向けた。
「ノラ。僕が本気を出す時が来たようだよ。もたもたしている場合じゃない」
「そうしないと、貴方の首は、胴体と惜別を果たさねばならなくなりますからね」
にっこりと恐ろしい現実を突きつけられるも、フロキアは問答する時間すら惜しく、警護の兵に馬の手配を命じた。
激情型の王子が万が一にもご乱心しては敵わない。
――俺はまだ首と胴は仲良くしていてほしい!
フロキアは早馬で駆けた。デュナメ州へ向けて。荒廃した大地に顔を顰めながら。




