40.死の鎖
少し荒いシーツに横たわり、紗江は天蓋の天井を見上げた。絡まる蔦のような線で月と星が描かれている。月の中に目と口が描かれていて、ニヒルな笑みを浮かべた月が二人を見下ろしていた。
「ねえ……紗江ちゃん」
「ん?」
薄い掛け布団の下で身じろぎをして、康がこちらに顔を向ける。仲良く二人で同じベッドを使わざるを得なくなった紗江は、康を異性として考えないことにした。綺麗な顔をしているし、髪が長いし、性欲もなさそうだ。
彼は穏やかな眼差しで、隣に横たわる紗江を見る。
「どうするの?」
「……なにを?」
彼の黒い目に映り込んだ自分は、間抜けな顔だった。康は仕方ないなあと言わんばかりの溜息を吐く。
「これからだよ。フォルティス公のお嬢さんになるの? それともガイナ王国王子の元へ戻るの?」
「……私は……」
紗江は答えようとしたが、質問をしたはずの康が、紗江の言葉を遮る。
「ちゃんと考えないと駄目だよ。どちらも国家が関わった問題だ。サウラはすぐにでも紗江ちゃんとフォルティス公を会わせようとすると思う」
「……そうかな……? そんなに簡単に、偉い人には会えないと思うけど」
サウラはガイナ王国から神子を盗んでいるのだ。いくら異界でも犯罪は犯罪。そんな状況で国家の重鎮に謁見を願い出られるほどサウラは偉くは無いだろうし、出来たとしても時間がかかるはずだ。
ガイナ王国で王妃との謁見を当日断行された記憶が蘇ったが、あれは異例だ。ゾルテ王国には、手順というものがあると思う。
康は目を細めた。
「会えるよ。……というか、何を置いても会わそうとするはずだよ。彼はこちらの国では割と高官らしいけれど、僕たち二人を匿って更に護衛兵まで雇う余裕はさほどないだろう。早々にフォルティス公との謁見を果たし、資金を確保する必要がある」
「あー……そういうものなのかな……。康様は、お役人みたいね……」
いとも簡単に今後について具体的に考えるものだ。教会で縋る眼差しに押され、とりあえず考えると答えた、意気地のない紗江とは大違いだ。
「僕の主は州官をしていたから、政に関わる人間の考え方は分かるよ。サウラはきっと、君を精霊として迎え入れるわけではなく、フォルティス公の娘として迎え入れ、神子を盗んだ事実を隠すつもりだ。フォルティス公の隠し子が見つかっただけだと言われたら、ガイナ王国は手出しなどできない」
拍手を送りたくなるような、見事な見解だが、紗江は片眉を下げる。
「でも……そのフォルティス様は突然娘ですって現れた、見も知らぬ人を娘だって認めるかしら? 私が生まれた時には、お父さんはいなかったとお母さんが言っていたもの。たとえお父さんでも、私の顔なんて分からないわよ。しかも国の偉い人でしょう?そ んなに上手くいかないと思うよ」
「信じるよ」
白い指先が顎に触れた。
「え」
康が艶のある眼差しで紗江の唇を見る。彼の細い指先が唇を撫でた。
ざわりと背筋に寒気が走った。不味い状況だとたじろぐ前に、康は優しく微笑んだ。
「君の顔は、相当お母さんに似ているのだと思う。でなければサウラはこんな無謀な賭けには出なかったと思うよ。きっと彼はどこかで君の横顔でも見たんじゃないかな……。君の顔が陽菜様にそっくりだったから、彼は自信をもって今回の計略を実行したんだ。きっとフォルティス公だって、君の顔を見れば崩れるさ」
「……そんなものかしら」
いくらでも似たような人を用意できそうなものだが。
納得いかない紗江の頬を撫でて、康は手のひらを重ねてきた。邪な触り方ではなかったので、紗江は握られた手と康の顔を見比べる。
康は少し照れくさそうに言った。
「手を繋いで寝てもいいかな? 紗江ちゃんに触れていると、悪い夢を見ないみたいなんだ……」
「うん……それくらい、いつでもどうぞ」
――よかった。
あっさりと疑念が払い落とされ、紗江はのんびりと笑った。きっと月の力が枯渇している彼にとって、月の力が満ちている紗江に触れると、何かしら安心させる作用があるのだろう。
康が小さく笑った気がしたが、瞳を閉ざした彼からは、すぐに寝息がきこえた。
――ちょっとは元気になったみたいだけど……辛いのかな……。
閉じたまつ毛の下には、隈の色がこびりついている。
紗江は穏やかな寝顔の少年を見ながら、ゆっくりと眠りに落ちた。
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明るい月光が丸窓から差し込み、少年は眩しさに目を開けた。目の前には、自分と同じようにベッドに横たわる、少女がいた。月光が、彼女の肢体に降り注ぐ。
「……まるで月に選ばれたような人だな……」
呟きは彼女を目覚めさせるには小さすぎた。窓から差し込む月光は、まるで人を選んだかのように、まっすぐに彼女を照らし出していた。
かつての月の精霊が使っていた寝室は、月光がベッドに差し込むよう計算して作られていた。
人工的な理由を理解しているにもかかわらず、彼はどうしても、月の光が彼女を選んでいるようにしか思えなかった。
自身にも溢れ注がれる月の光。
テトラ州の満月が天候により隠され続けるのは、この世界が自分を異物として取り除こうとしているからなのではないか。
そんな疑念が、ずっと腹の中でくすぶっている。
康は自分が、主を幸福へ導きたいがゆえに、月の力を使いすぎている感覚があった。それでも満月の光を浴びれば、力は補充された。だが使いすぎた力すべてを補充しきることができなくなり始めた頃から、雲が空を覆い、天は満月の光を康に与えなくなっていった。
康は、元の世界には戻りたくなかった。
戻っても、自分には何もないのだ。
あちら側は、親も、親戚も、友もいない、虚無の世界だった。孤児の自分が唯一己の居場所だと思えたのは、こちらの世界。
守り人に孤児院から連れ去られた日、彼は幸福の絶頂にあった。あちらの世界で感じていた違和感がなんだったのか、分かったからだ。自分はこちら側に来るべき者だったのだと信じ切った。
けれど時間と共に、世界は自分を見放す。
自分の力が枯渇して初めると、元の世界へ吸い寄せられる感覚が強くなった。恐怖だった。元の世界が自分を吸い戻そうと働く、得体の知れない力を感じるのだ。
月の力がなくなるほど、こちらの世界での重力を失う。大地に足を置くことが困難になって行き、それでも大地にしがみつけば、体が病んでいった。
食べ物を食べても栄養を吸収せず、体は痩せ細る。やがて己の痩せ細った体すら重くなり、自身を支える力さえ奪おうとする『意志』を感じた。
酷く恐ろしかった。
この世界に執着する自分を消し去るために、世界が命を奪う勢いで排除に乗り出している。
病んだ体が見せる妄執ではない。
この世の摂理に背こうとする自分を、世界は確実に疎んでいた。
地下に閉じ込められ、鎖で繋がれた時、主の身を案じて絶望すると共に、安堵した。重い枷をはめられれば、この大地から離れようとする軽い体が、少しでも縫いとめられる。
どうせ果てるなら、この地で果てたい。
ここまで病んだ自分の目の前に現れた、無垢な女の子。
『はじめまして、コウ様?』
鈴を転がすような、甘く優しい声。
笑みを浮かべる瞳の中には、康を案じる慈悲深ささえあった。
光そのものを放っている。康の瞳には、彼女自身が体に宿す月の光が見えた。無限にあふれかえる月の力の主。
彼女こそが──神子だ。
誰に何を言われずとも分かった。そして絶望した。主は罪を犯した。自分のために罪を犯した。この世界で最も危険な手段に手を伸ばした。
――僕のせいで!
この世に執着する自分のために、自分の主は命を削る。こちらの世界の法は甘くないことを、十年以上この世で生きた康は知っていた。
自分が消えたら主は死ぬ。
自分が病んでも主は死ぬ。
自分を救うために、この人は死すら厭わない――。
懇願するしかなかった。
神子に縋るしかなかった。
どうか僕の主を殺さないで。どうか僕の居場所を奪わないで。どうか彼を――そして僕を、許して。
瞳から涙が零れ落ちた。
枕がひやりと濡れていく。
康は嗚咽も漏らさず泣いた。
神子として君臨する幼気な少女の姿の彼女に、縋りつきたい衝動を堪え、寝入る彼女をただ見つめる。
「ねえ神子様……お願いだよ……。どうか、愚かな僕たちを助けて……」
涙に呼応するかのように、繋いだ手のひらが淡く輝いた。
康は目を見張った。
手のひらから、彼女の月の力が、康に注がれる。
眠っているのに。
――眠っているのに、どうして僕なんかに力を分けてくれるの。
「う……っ」
嗚咽が漏れた。涙が止まらない。
子供のように眉根を寄せ、唇を歪め、彼は泣いた。
声を堪えるだけで、精いっぱいだった。
――お願いだよ。僕たちを、助けて……。
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紗江は夢の中、泣き声を聞いた。
静かに泣く子供が、必死に救いを求めている。
荒廃した世界。
戻りたくない世界。
心が餓える。
子供たちが泣いている。
白く細い腕を伸ばして叫ぶ。
どうしたら笑ってくれるの?
ねえ逃げたりしないわ。
お願い笑って。
ずっと傍にいるわ──ねえ。
貴方は――だれ。




