35.秘め事
月が明るいなあ、と杯を傾けた紗江は、物言わなくなった康を訝しく見やった。
「康様……?」
康は不思議そうに紅茶を見つめている。
「なんだか……これを飲むと月の力が入って来る……。これに、月の力を注いだ?」
紗江が首を傾げる。――月の力が入ってくるって、どんな感じだろう。
状況の想像ができないので、とりあえず事実を口にした。
「何もしてないよ……?」
いつも通り紅茶に月を映してかき回しただけだ。
紗江は月影を映し込んだ飲み物が好きだ。毎夜それを飲んでいるだけで慰められる。こちらの世界に来てからは、月夜の宴が自分の体を満たしてくれるものに変わった。
そこまで考えて、紗江は両手を胸の前で叩いた。
「あ、月の力が入って来るって、体の中心がじんわり温かくなって落ち着く感じの事?」
「え……そうだね、そういう感覚かな。心臓の周りに光が溜まる感じなんだけど」
戸惑いがちに返事をした康にとっては、月の力がどんな感覚の物なのか明確なのだろう。力の増減を感じたことのない紗江にとって、今一掴み切れていない感覚を共感できたことが嬉しくて、紗江はにこっと笑った。
「そうなの。月影を溶かした飲み物を飲むと満たされるの。……お母さんのおまじないは案外間違えてないのかも」
「お母さん……」
とても楽しそうにおまじないを教えてくれた。まるで秘め事を伝えるように、小さな声で囁いた母。甘く優しい母の匂い。
紗江の黒い瞳が月を仰ぐ。月の光を取り込んだ黒い瞳孔が開いた。絹糸の滑らかさを持つ髪の毛が風に揺れ、白い人形然とした顔が康を振り返った時、康は表情を変えた。
紗江は気付かなかったが、康の目には、彼女は別人のように映る。
赤い唇が蠱惑的な艶を放ち、彼女の香りに誘われた蝶々が、どこからか湧き上がった。白い肌、黒い髪、黒い瞳──その瞳孔は金色。
紗江は吐息交じりに、母の言の葉を口に乗せた。
「『お月様が出た夜は、お庭で紅茶を飲みましょうね。お月様を映し込んだ紅茶にはちみつを入れて、スプーンで月影と一緒に紅茶に溶かすの。それを飲むとね……お月様の力があなたの体を綺麗にしてくれるわ』」
康の目が見開いた。
紗江は言葉を続ける。
「『──秘密よ。でも月夜のお約束。おいで、紗江ちゃん。一緒にお月見をしよう──』」
康の唇がうっすらと開き、また閉じた。その表情があまりにもぽかんとしていたので、紗江は噴出した。
「はは……っ。康様、びっくりしすぎ。今のはお母さんの口癖なの。いつも秘め事めいた口調で、ベランダへ誘うのよ。月が見下ろす夜は必ずベランダで月を愛でながら紅茶を飲んでいたわ。お母さんが、大好きだったから」
月影を溶かした酒を飲み下す。と、突然康が紗江の手を取った。びくりと肩を揺らした紗江を、真剣な眼差しが射抜いた。
「……君のお母さんは……こちらの世界を知っていたんじゃない?」
「……え?」
紗江は目を丸くする。
――『こちらの世界』
母は向こうの世界で普通に働いていた、普通の人だ。こんな異世界なんて知るはずが無い。そんなわけない。
紗江は片眉を下げた。
「そんなことないと思うよ……」
月の光を取り込んだ蝶々が、二人の周囲を舞っている。傍から見れば、幽鬼に見えるだろう。これから毎晩ここで晩餐をすれば、その内近所の人から幽鬼が漂う教会と恐れられるかもしれない。――愉快だ。
「紗江ちゃん」
「……んっ」
わざと考えを滑らせた紗江の意識は、強く握られた手のひらの痛みで引き戻された。
ため息が漏れる。
紗江は酒を机に置き、片目を手で覆った。美しい人だったことしか思い出せない。残酷にも、甘い声は記憶から消えていくばかりで。
「……月影を飲むなんて、僕は聞いたこともなかった。それは……それは君のお母さんがこちらの世界で知ったことじゃないの? こちらへ来たからこそ……あちらの世界からこちらへ来るための術を……」
「知らない……」
康は言葉を重ねる。
「本当に何も知らない? 君のお母さんは……月の――」
紗江は言葉を遮るために、立ち上がった。金色の瞳孔をいただく、神子の瞳に見据えられ、康は言葉を失った。
喉の奥で、笑い声が漏れる。笑ってしまう。抑えきれず、紗江の笑い声が庭に響き渡った。
そうかもしれないと思った自分が、笑えた。
――どうして、お母さんは毎夜月を飲み、月を見つめていたの?
――そんなこと、考えたこともなかったわよ!
涙が視界を歪めた。紗江の手を掴んでいた康の手が、離れる。紗江は笑いながら両手で顔を覆った。
蝶々が紗江の周囲に群がり、康は目を見開いた。金色の鱗粉に包まれた少女は、自身も淡く光を放つ。滑り落ちた袖口から、滑らかな白い腕が露わになった。震える華奢な肩、細くしなやかな体、そして艶やかに風に揺れる、漆黒の髪。
「紗江ちゃん……君は」
紗江は月を仰いだ。金色の瞳孔が映すのは、月。
「私は何も知らないわ……」
――泣いたりしない。
母を失ってから、涙は枯れた。涙など流すものか。空虚な毎日でも良い。月夜の思い出だけが自分の糧。他は何も――いらない。
「では、知っていただきたい」
紗江はびくりと、肩を揺らした。紗江の周囲を舞い踊る蝶々が、凛とした声に驚いたように、飛び上がる。
教会の裏口から出たところに、闇夜に溶けそうに暗い、真っ黒な衣装を身にまとったサウラが佇んでいた。紗江の全身を、寒気が襲う。彼の黒い装束は、教会の影に、まるで首だけが浮かんでいるようだったのだ。黒いフードをかぶった青年は――死神に見えた。
「サウラさん……」
震える声で彼の名を呼ぶと、蝶々たちが形を失い、崩れ落ちた。散り散りの粉となって消えた様に、康も紗江も目を見開く。
「蝶々が……」
金色の粉が、手のひらに落ちて、そして粉もさらりと消えた。
サウラは穏やかに笑った。
「その蝶々は月の力が凝縮され、形を成すもの。驚けば月の光そのものへ戻るもの」
「……?」
蝶々たちが、月の力そのものだったなどと、俄かには信じがたい。これまでそんな説明をしてくれた人もいなかった。皆にとって当たり前のこと過ぎて、気にもならないことだったのだろうか。
生きているのに、生きていない。まるでソフィアの、ウサギだ。
サウラは恭しく体を横に向け、紗江達を促した。教会で話したい。そう態度で示され、紗江の胸がどんよりと曇った。
――嫌だ。
我が儘に振舞い、何も聞きたくないと耳を塞ぎたい。けれど紗江は、促されれば従ってしまう。己の性は、自分自身がよく知っていた。
無性に彼に会いたかった。
――アラン様。
彼の体温が恋しいのはどうしてだろう。
身に付けたままの、紗江のために作られた衣は、月光の下、虹色に揺らめく。
サウラは紗江達を、昨夜は直接地下に連れて行かれ、見られなかった教会内部に案内した。教会内部は、灰色の壁と白い柱で作られていた。煉瓦と同じ形に切られた灰色の石を積み重ね、壁が作られている。いたるところが煤で汚れ、崩れている物がほとんどだ。街でみた民家と、さして変わらない様相だった。
崩れた石の隙間から覗く木は、この建物の支柱のようだ。その木すら崩れ始めていて、建物の耐久性は確実に弱いだろう。
サウラは祭壇前に進み出ると、その上部を彩る、色鮮やかなステンドグラスに手を伸べた。
「ここは、地域の教会として使われていた場所です。かつては、ゾルテ王国の月の精霊が使用していました」
ステンドグラスに描かれているのは、長い黒髪と白い衣装を着た女性だった。女神として両手を広げ、教会の中を優しく見下ろしている。
「……」
女神像など、どこにでもありそうな姿なのに、紗江の心臓は凍り付いた。思わず視線を逸らし、俯いてしまう。
こちらの世界へ来てからというもの、紗江は何を考える余裕もなく、日々に翻弄された。混乱していたけれど、何も考えなくていいのは、楽だった。思い出したくもない感情を、すっかり忘れられたから。
けれど、紗江を浚った彼らは、その嫌な感情を呼び起こす。なんて嫌な状況だろう。こんな感情は忘れたいのに。思い出したくないのに。
顔を覆って全てから視線を逸らしたい。体を駆け巡った衝動を堪え、祭壇を睨んだ。
古ぼけた木の机がぽつりとおかれているだけの、祭壇。かつては花が彩っていたのか、祭壇の両脇に朽ちた藁のようなものが落ちていた。
視線を横にずらしていくと、祭壇手前の長椅子に、ユスが横たわっていた。ユスは横たわったまま、肘を立てて、頭を支える。
「よお、精霊様方。これからの住まいの確認か?」
実に不信仰な景色だ。
紗江の隣に立っていた康が、突然ふらついた。サウラが素早く彼の腰に腕を回し、気遣わしく顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか……?」
「大丈夫。少し眩暈がしただけだから」
「無理するなよ。神子様に直してもらうったって、一朝一夕にはいかねえんだ。地下で寝たらどうだ?」
ユスは何も気にしていない顔つきで、祭壇脇を指さす。祭壇の脇にある扉は、直接地下に繋がっていた。地下から上がって来ると、祭壇に出る扉と、裏庭に出る扉があり、先程はもう一方の扉を使っていた。
それにしも、雰囲気から察するに、あの地下室で紗江と康をずっと住まわせるつもりのようだ。
月の精霊には性別がないとでも思っているのだろうか。
彼らにとって月の精霊は、神聖なもので、ともすれば、紗江たちにとっての妖精か何かのような感じなのかもしれない。
しかも気安く康の治療と言うが、紗江には何をしたらいいのか分からなかった。月の力を分けるだけでいいのかも、判然としないのに、当てにされても困る。
紗江は口元を歪め、眉間の皺を拳で揉んだ。
その紗江に、サウラがさらりと告げた。
「貴方は、ゾルテ王国の精霊となるべく育てられた方。本来ならば、我が国の姫君の一人として、育てられるはずでした――神子様」
「――姫」
紗江はあんぐりと口を開いた。
この世界に来てからというもの、紗江は混乱するばかりだ。
誰に何を聞けばよいのか、さっぱりわからない。




