34.精霊の宴
案内された庭は、乾いた土に雑草が疎らに生える、手入れのされていない状態だった。周囲に生えた木は、ところどころ茶色く枯れているものの、まっすぐ天を向いている。
教会を見上げ、紗江は自分たちが裏庭に案内されていることを知った。見た感じ、木が教会の正面側と裏側の視界を隔てる役目を担っている様子だ。その気になれば木の下を潜って表へ出られるだろうが、いかんせん足元までしっかり葉を茂らせる種類の木だったし、隙間には蜘蛛の巣やら得体の知れない虫が飛び回っている。そしてその向こう側を歩く、兵の足も見えた。逃げるのは難しそうだ。
「神子様は月を見ながらお酒を嗜まれるとか」
きょろきょろと周囲を見ていた紗江に、サウラがおっとりと声をかける。振り返ると、恐らくわざわざ用意されたであろう木製の簡素な机に、サウラが酒を置くところだった。
「……どうして知っているの?」
紗江が毎夜酒を飲んでいたことなど、アランの城の者しか知らない。あの城の中に、サウラと繋がっている人間がいたのだろうか。
胡乱に見返すと、サウラは肩を竦めた。
「貴方について知りたかったから、知った、とだけお答えいたします。……どうぞ。コウ様には茶をご用意いたしました」
「そう、ありがとう」
コウは淡々と応じる。紗江は、大人しく向かいに座った彼の顔色を伺った。顔色は昨夜よりも大分マシだ。彼は頓着なくサウラから紅茶を受け取り、口に含む。
机の上を見ると、胃に優しそうな粥と野菜が並んでいる。サウラは二人のためにそれらを取り分けると、頭を下げた。
「私は教会の中におりますので、御用がございましたら、近くの者に声をおかけください……」
「うん、わかった」
コウは頷いたが、紗江は周囲に目を向ける。庭の隅に、黒い衣に身を包んだ男性がいた。紗江たちが逃げ出さないよう、見張り兼連絡役をしている人間は、六名だ。
しばらくしてもサウラが立ち去らないので、紗江は眉を上げた。彼は自分を見下ろし、紗江の返答も待っているようだった。紗江はあわてて頷く。
「あ、わかりまし……分かったわ。お食事、ありがとう」
「いいえ」
サウラは得体の知れない微笑みを浮かべて、やっと背を向けた。紗江は困惑する気持ちで、彼の背中を見送る。浚ったくせに、許しを得てから行動しようとしている。全員が揃いで着ている、黒い衣が風に揺れた。
「神子様も、口を付けられてはいかがですか?」
「あ、はい」
食事に手を付け始めたコウに促され、紗江は視線をもぎ取った。目の前にあった粥を口に運びながら、ちらっとコウを伺う。
コウは、一貫して彼らよりも位が上の人間として振舞った。そして彼らも、それを当然のように受け入れている。
月の精霊は誰にも膝を折らない。そのルールを彼は守っており、そして浚った側も、当然のように守っていた。
「あの、私……紗江といいます。どうぞ神子様ではなく、名前を呼んでください」
自己紹介も忘れていた。自分は彼を名前で呼んでいるのに、自分だけ『神子様』という、社会的カテゴリで呼ばれるのは、違和感がある。
「サエ……様?」
戸惑いがちに名を呼ばれたが、紗江は苦笑いだ。自分もしていることだが、よく考えると、二人の出身地は同じ世界だ。敬称がとても大げさだと思う。
「名前に様を付けるのは……やめませんか?」
――同じ世界出身の人に様付けで呼ばれると、詐欺をしている気分だ。
もともと何の役職もない平社員でしかなかった自分が、コウよりも勝っている点など年齢以外何一つない。敬われるべき立場という実感はなかった。
康は眉を上げ、首を傾げる。
「じゃあ……サエちゃん?」
意外な選択に、紗江はきょとんと瞬く。突然、親しみ深くなった。コウには、紗江が年下に見えているのかもしれない。
彼はにこ、と笑い、改めて自己紹介してくれた。
「僕は康、というんだ。こちらに来て、十三年経つよ」
「……十三年……」
康が机の上に漢字を書いて見せるのを目で追いながら、紗江は唖然と呟いた。長い。見たところ十五、六歳なのに、十三年もたっているとなると、見た目年齢よりも実年齢は上のようだ。
紗江はとりあえず、自分について伝えた。
「私は、紗江、といいます。こちらに来てからは、まだ二ヶ月くらいです……」
「うん、貴方のことはよく知っている。国中が注目していた方だから、知らない人はいないと思う」
「……そうですか……」
そんなに注目を浴びていたなんて、居心地が悪い。紗江は肩身の狭い気持ちで、首を傾げた。
「あの……お幾つですか?」
「二十三歳だよ」
「――――」
ぱちりと瞬いて、まじまじと康の顔を見る。康がくすっと笑った。
「分かってる、見えないよね? 僕もよく分からないのだけれど、月の滴を浴びてから、どうしてだか見た目が幼くなってしまって」
「……てっきり、十五、六歳くらいかと思ってました……」
康は頷いて、小首を捻る。
「女性に聞くのは失礼だけれど、貴方の年齢も聞いていいかな?」
「あ、私は……二十一歳です」
「そう。貴方も、見た目は十五、六歳にしか見えないよ」
「あ……そうですよね」
月の滴を浴びてから、見た目が若くなったのは知っている。
「僕がこちらへ来たのは十歳だったから、見た目が五歳くらいに戻ってしまった時は、混乱したよ。でも月の宮の人間は、もともと僕が幼かったものだから、変化に気付いていなくて」
「そうだったんですか……。私も、月の滴を浴びてから、見た目が変わってしまって……。私のご主人様なんて、本当の年齢を言っても信じてくれないです」
「ああ、分かるよ。こちらの人って、基本的に僕たちの顔が幼く見えるらしいからね」
軽く笑って、康は少し背筋を伸ばした。
「ねえ、紗江ちゃん。僕のお願いも聞いてくれるかな?」
「え? はい」
条件反射で頷くと、彼はふっと笑って視線を落とし、気を取り直したように目を上げた。
「僕に敬語を使わないでくれると嬉しいな。この世界では、僕たちは誰にも敬語を使ってはいけない存在だから」
「――あ」
紗江は一瞬、呼吸を止めた。ぴしゃりと叱られた気分だった。月の精霊でありながら、他者に敬語を使うなど、あるまじきことだ、と。
紗江は口元を押さえ、俯く。
「ごめんなさい……つい、癖で」
「うん、そうだよね。分かるよ」
――でも、直さないといけない。
優しそうな彼の瞳は、言外にそう言った。
紗江は何とも言えず、黙り込んだ。取り繕うように、康は明るく話題を変える。
「紗江ちゃんは、いつもこうやって外で食事をするの?」
「は……うん。月は毎日見るものでしょう?」
「……そう……。だから君は、神子なのかな」
言っている意味が分からず顔を上げ、紗江は逆に尋ねた。
「康様は、見ないの?」
てっきり、彼も自分と同様、毎日月を見ているのだと思っていた。月の精霊というものは、あちらの世界で月を毎夜見ている人間がなるのではなかっただろうか。
名前に様を付けるなと自ら言ったものの、位のあるこちらの世界で十年以上住んでいる彼を、親しみ深く呼ぶ気にはならず、呼び方は変えなかった。
康は頓着なく頷く。
「そうだね。毎夜月光を浴びる精霊は、そんなにいないんじゃないかな」
「……月の精霊って、月の光を浴びて出来るんじゃないの?」
康は眉を上げ、はは、と笑った。
「そうだけど、精霊は別に毎晩月光を浴びる必要はないんだよ。僕たちにとって重要なのは、満月の夜。サーファイが言ってなかったかな?」
「え? えっと……」
――そういえば、連れ去られた日に、毎月満月の光を浴びるとできると言っていたような気もする……。
思い出したところで、紗江は眉根を寄せる。
「月に一回、月の光を浴びるだけなの……? それって、なんだか物足りない感じがしない? 寝る前にはお月様の光を浴びてからじゃないと、体の中に隙間が空いて落ち着かないような……」
毎夜おまじないを繰り返してきた紗江にとって、月の光とは殊更重要なものだった。こちらの世界に来てからは、月夜のおまじないで体が満たされる感覚まで得られていたというのに、――彼はおまじないどころか、月見さえしていないとは。――あり得ない。
今一つ同感できないのか、康は首を傾げている。
「どうかな……。でもそうだね……このところテトラ州は満月の夜の天候が悪くて、だんだん僕は体調が悪くなっていったんだ。普段から月光を浴びていれば、こうはならなかったのかな……」
考え込んだ康が、再び紅茶に手をつける。紗江は「あ」と声を上げた。
「ん?」
紗江は康の手を押さえ、茶器を手にする。
「お茶……飲む前にちょっといいかな?」
「飲みたいの?」
「ううん」
欲しいなら新しいのを淹れてあげると、ポットを手にしたが、紗江は首を振った。
気のせいかも知れないが、こちらの世界に来てから、月影を映し込んだ酒を飲むと、体が満たされる。気休めでも、康にも同じ感覚が味わえたらいいと思った。
意図を計れない康にもわかるよう、机の中央にカップを置き、琥珀色の水面に月を映し込む。そして用意されていた小さな瓶から、蜂蜜をすくい取った。
「紅茶にね、月影を映し込むの。スプーンで蜂蜜と一緒に、月影を紅茶に溶かし込んだら、出来上がり。はい、どうぞ」
「……おまじない?」
康は微笑ましそうに笑い、紗江から紅茶を受け取る。紗江は自分に用意された酒の杯に、月影を映し込んだ。酒を口に運び、ほっと息を吐いた紗江は、紅茶をすすった康が目を見張る様には、気付かなかった。




