33.微睡み
長時間馬車で揺さぶられたコウの体は、かなり無理をしていたようだ。ユスに対して強い姿勢で対応していたものの、彼は途中で意識を手放した。
ロイが心配して、ずっと貼りついていたものの、目的地に到着すると、馬車の周りを囲っていた兵士によって引きはがされた。兵はコウを軽々と横抱きにして、到着した建物の地下へ運んだ。
紗江は頭から普通の布をかぶせられ、コウに続いて同じ建物に案内された。布の隙間から垣間見た建物は、さびれた教会に見えた。
足を置くたびに軋む木製の階段を歩かされ、部屋に到着すると、紗江の頭から布は取り除かれる。
紗江は部屋を見渡した。
長方形の部屋だ。床には絨毯が敷き詰められていて、今しがた降りてきた階段は、部屋の中央に差し掛かっている。階段の正面にキングサイズのベッドがあり、その脇に小さな本棚があった。
階段の後ろ側には簡素な木製の机が一つと、椅子は四脚ついている。
机の脇には食器棚があり、その横に流しがあった。食器棚の中には、茶器と茶葉らしきセットがあり、ここで飲食ができる雰囲気だ。
机の奥に開け放たれた扉があり、洗面台が見えた。雰囲気からすると、浴室のようだった。
一通り見渡した紗江は、天井を見上げる。ベッドの斜め上に、直径一メートルくらいの丸窓があった。コウが閉じ込められていた地下牢よりは、随分とマシな部屋だ。
「コウ様はベッドに寝かせてやれ」
ユスに命じられ、兵が抱えてきたコウを巨大な別途にそっと横たえる。ベッドが大きすぎて、華奢な彼の体がよけいに小さく見えた。
「じゃーここでしばらく滞在してもらうから。今後の方針はまたサウラが伝えるし、この教会の敷地内なら自由にしていい。ここで仲良く暮らしてね、神子様!」
「え?」
紗江はきょとんとする。部屋をもう一度見渡してみるが、この部屋にベッドは一つだ。
――ベッド……一緒に使うの……?
ベッド代わりにできそうなソファもなく、紗江は瞬きを繰り返した。
「無駄に逃げようとか隠れようとかするなよ。探すの面倒だし、どうせこの国の中じゃあ、俺たちに分からない場所は無いからな」
勘違いして牽制されるも、紗江は口元を押さえ、考え込む。
浚われたのだから、我が儘を言える立場ではないのは分かっている。しかし、弱っているとはいえ、年頃の男の子と女の子を同室にするのは、どうだろう。
「じゃあな」
「あ……っ、ちょ……」
紗江の戸惑いなどどこ吹く風で、ユスはさっさと降りてきた階段を上って行ってしまった。
「あの……」
一緒に来ていた兵達に声をかけようとするが、彼らが階段を上がっていく軋みの音にかき消され、誰にも気づかれない。無情にも階段上の扉が、ぱたんと音を立てて閉まり、紗江は立ち尽くした。
「……ど」
――どうしよう。
振り返れば、ベッドの上にコウが横たわっている。
黒い髪がベッドに広がり、苦しそうに息を吐く唇が、本人の状態とは裏腹に、艶っぽく息を零す。
「落ち着こう……落ち着こう、私」
――あの状態のコウ様が私に何かをできるはずもないし、まかり間違っても襲ってくるような人でもないはずだ。
紗江は目を擦り、悩む。
一晩眠らずに移動を繰り返した紗江も、体力の限界が来ていたのだ。今にも倒れそうなほど――眠い。くらくらする。
そして目の前には、柔らかそうなベッドである。
――コウ様は寝てるわ。大丈夫、明日の朝まで目覚めない。
自分を騙している感は否めないながら、紗江は己の本能に従い、ベッドにふらふらと進み出た。コウは眉間に皺を寄せ、苦しそうだ。
「……お邪魔します……」
できるだけベッドを軋ませないように乗り、コウを覗き込む。
馬車の中で月の力を分けた時よりも、顔色が悪かった。
彼の額にかかった髪を、指先で払いのける。額に汗が滲んでいた。熱があるのかと手のひらを額に乗せると、彼は大きく息を吐いた。
「ん……?」
紗江は首を傾げた。熱は無い。しかし眉間の皺がなくなり、吐息が穏やかになっていた。
手のひらを離すと、また眉間に皺を寄せ、寝返りを打った。
試しに彼の手に触れてみると、すう、と深い呼吸が聞こえた。
――人肌が恋しいのかな。
手のひらから、コウの月の力を感じた。月の力がとても少ない。少ないから、苦しい。そういう原理を漠然と感じた。
不思議だ。
手のひらから伝わる体温に、紗江の体は自我を失っていく。
「眠い……」
――寝る前に、月の力を上げようと思ったのに……。
紗江の瞼は、抵抗さえできぬほど重く落ちていった。ぽわ、とつないだ手のひらの周りが光り、紗江の意識は、遠のいていく。頭が、ぼすりと枕の上に落ちた感触があったが、それがコウの顔の真横かどうかまでは、確認できなかった。
柔らかな、人肌の匂いがした。
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体が少し軽くなった。呼吸もずっとしやすくなった。
甘い手触りの肌が触れると、体の中に彼女の眩い光が注がれた。
闇の中にいる僕に手を差し伸べて、彼女は心配そうに瞳を潤ませる。
華奢な手首。滑らかな首筋。艶めかしい鎖骨、ふくよかな胸、折れそうに細い腰。白い太ももは、とても柔らかそう。
彼女の全てを見た後で、僕はふと目の前の唇に意識を吸い寄せられた。
ねえ、僕のものになって。
言いかけて、でも言う前に首を振った。
これは瞬きの迷い。
欲しいけれど、欲してはいけない。
彼女は月の光そのもの。
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幼い子供が、泣いている。
華奢な腕を伸ばして、助けを求めているのに、誰も手を差し伸べてくれなかった。
ねえ、僕を助けて。
憐れに思い、手を差し伸べようとして、彼女は戸惑った。
この手はすでに、誰かに握られていたはずだ。
あの人は、一体どこへ消えてしまったの?
でも、誰が握っていたのかしら。
思い出せない。
――だけど、戻らなくちゃ。
自分の手のひらは、乾いて、震えていた。
視線をあげると、突然、白い光が放たれた。
光は、視界の全てを飲み込んだ。
何も見えない。どこにいるのかもわからない。
不安に駆られ、世界を見渡す。
誰もいなかった。
泣いていた子供はどこ?
あの人はどこにいるの?
私はどこへ行けばいいの?
――迷い子は……誰……?
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「はー仲がいいこって」
呆れを含んだ男の声がする。
「精霊同士ですから、安心するのかもしれませんね」
穏やかな声音が男を宥めた。
温かくて気持ちいい。柔らかな布が触れ、絹の手触りが心地よくて鼻をこすりつけた。
「ん……」
誰かの鼻声が聞こえる。まだ眠りたい。だけど起きないといけない気がする。
紗江は温かな何かに包まれて微睡みながら、ゆっくりと目蓋を開けた。
――白い。
眩しいわけでもないのに、視界が白い。
「んん?」
状況が理解できず視線を彷徨わせると、きめ細かい人肌が見えた。うっすら開いた唇から、吐息が聞こえる。黒い睫に黒い眉。男の子にしては長い髪の毛。
「起きたぞ」
別の方向から声が聞こえた。目を向けると、ベッド脇に、呆れた表情のユスが立っていた。
「――え」
――どうしてユスがいるの? て言うかここどこ。
起き上がろうとしたが、体の自由が利かなかった。体を何かに拘束されている。
「え!」
そこでやっと状況が理解できた。コウの細い腕が、腰に巻き付いていたのだ。
――ぎょえー近い! 呼吸が聞こえる! どうしてこんなにくっついちゃってるの? 離れた場所で寝てなかったっけ? 寝た時の記憶がない……!
内心混乱の極致にある紗江の額に、柔らかな感触が触れた。
「ん……」
「ぴ!」
――きゃー! 額に! 額にキスしたよ、この人! 子供のくせにどんな寝相なの!
更に細い腕は、ぎゅうっと紗江の体を抱きすくめた。
「ひゃうっ」
――脇腹は触らないで! 弱いの!
紗江は真っ赤になって身を竦めた。ユスが忌々しげに舌打ちする。
「おい、こいつしばいて良いか?」
「駄目に決まっています」
ベッド脇に顔を見せたサウラが、にこやかにユスを窘めた。
周囲のざわめきに気づいたのか、掠れた声を漏らし、康も目を開けた。彼は腕の中にいる紗江をきょとんと見つめ、不思議そうに瞬く。
「あれ……?」
状況を理解していないようなので、紗江はおずおずと、身の解放を願い出た。
「あの……お、おはようございますコウ様。その……腕を……」
「……腕……あっすみませ……っ」
自分の腕が紗江の体を抱きすくめていると気付いたコウは、慌てて開放してくれた。やっと起き上れた紗江は、ほっとしながらも、熱を持つ己の頬を撫でる。
サウラ一切の出来事に触れず、平然と笑んだ。
「おはようございます、神子様、コウ様。と言いましても、夜ですが。よくお休みいただけたでしょうか? 食事をご用意いたしますので、お目覚め下さい」
紗江は天井を見上げる。斜め上にある丸窓の向こうには、星が煌めいていた。
「お食事はこちらでお召し上がりになりますか?」
まるで執事だ。食べる場所の選択権があると思ってもみなかった。紗江はとりあえず、いつも通りの場所を口にする。
「……外で食べられるなら……月光を直接見られる場所で」
サウラは優しそうな微笑みで頷いた。
「では、庭園へご案内しましょう」
上半身を起こしたコウが、不思議そうに紗江を見つめた。




