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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ゾルテの精霊― 四章
30/112

30.宿命を知る者

 こいつ、絶対殴る──。

 指先から腕にかけて走った激痛を堪え、紗江は涙で潤む瞳をユスへ向けた。ユスは窓の外に目を向けながら転移を試み、紗江の苦痛などお構いなしの様子だ。

 神子の力をたっぷりと使った転移は、見事なものだった。何の音も立てず、どんな塵も残さず、彼らはガイナ王国領からゾルテ王国領地内への移動を果たした。

 領地と領地の間の、遊民が行き来する無法地帯までも飛び越えていることに気付いた兵たちが、ざわめく。

「さすが神子様! 無法地帯もすっ飛ばしての転移も余裕! 予定通り外門を超えた後、ゾルテ王国領まで移動してたら足あと残ると思ったんだよね、やったね!」

 どうやらガイナ王国領の外門突破のみを予定していた行程を、ユスの一念でゾルテ領内への移動まで延長させてしまったらしい。

 コウが紗江に憂いの眼差しを向ける。

「体は……大丈夫ですか? 精霊は通常……一度にこれほど多数の人間を転移させられないのですが」

「…………っ」

 悶絶である。外の兵に何事か話をしているユスから手を剥ぎ取り、もう片方の手で手のひらを押さえる。薬指の筋から肘にかけて痛みとしびれが同時に走った。痛みはまだ腕に残り、紗江は歯を食いしばる。

 ――くうう! 肘を強打したときの痺れと肉を引き裂かれるかのような痛みの合わせ技だわ! 痛い! 痛すぎる……!

 兵への命令が終わったユスが振り返った時、紗江は身を竦めた。

「やっぱいいわ、あんたの力……!」

「や……っ」

 言うなり紗江を抱きすくめ、頬ずりする。

 次いで耳元で聞こえた吐息に、紗江は総毛立ち、反射的にユスの顔を攻撃した。

 ――耳を……っ!

「舐めるなー!」

 繰り出した拳は、ユスの顔面にめり込んだ。思いきり頬を殴られたユスの顔が勢いのまま横を向き、そして勢いよくこちらに牙を剝いた。

「いってーなぁ! あんまり可愛くねえとヤっちまうぞ……!」

「ひ……っ」

 引きはがされそうな勢いで、着物の合わせに手をかけられ、紗江は声にならない声を上げる。どうやって逃げたらいいか半泣きで仰け反った時、冷徹な声が割って入った。

「――無礼だな、あなたは」

「え」

 紗江は眉を上げ、向かいに座った少年を見る。先ほどまで衰弱し、涙を流していた少年とは思えない、強い眼差しがユスを見据えていた。

 背もたれに深く背を預け、コウははっきりとユスに命令した。

「神子様から離れなさい。許可も得ず御力を借りた上、その肌まで汚そうなどと、分を超え過ぎだ」

 ユスは舌打ちをする。そして紗江の隣に腰をおろし、そっぽを向いた。これ以上触らないと言わんばかりに、両腕を胸の前で組んだ。

 驚くほど素直に従ったユスがよく分からず、紗江は当惑する。

 コウは優しい笑顔を浮かべた。

「このように弱った僕では、信じてもらえないかもしれませんが……彼くらいなら、僕でもなんとかなるのです。僕にも月の力があるから。……大勢でかかられると、無理ですけどね」

「……そうなの……」

 微妙な力関係なのだな、と紗江は頷く。ユス一人くらいならなんとでもなるけれど、大勢でかかられると敵わない。だからされるがまま、従っているのだ。

 忘れていた痛みが蘇り、紗江は腕を摩った。

「どうして痛かったんだろう……。ロイの時は、ちょっと苦しい感じがしただけだったのに」

 今まで誰に力を使っても、痛みを覚えた経験はなかった。ユスが力を使うときに限って、痛みを感じるのは、乱暴に扱われているからだろうか。

 紗江の独り言を聞くなり、ユスが怪訝にこちらを見やり、コウも眉を上げた。コウが戸惑いがちに尋ねる。

「……ご存じないのですか……?」

「何がですか?」

「……私たちの力は、私たち自身が力を分け与えようと思わない限り、自然に譲り渡せないものだということを、です」

「え、そうなの?」

 きょとんと聞き返すと、コウもユスも目を丸くした。

「はあぁ? お前、そんなことも知らねえの?」

 紗江は知らない方がおかしい、という雰囲気に、気まずい気持ちになる。

「知らないけど……それって、常識なの……?」

 コウが拳を口元に押し当てて、眉を顰める。

「おかしいな……。月の宮で教わるはずなのに……」

 紗江はぎくりと顔を強張らせた。ソフィアのありがたい授業は、ほとんど上の空だった自覚がある。

 しかし、力についての話なんて、ちっともされなかったように思った。それよりもすぐに主人が決まって、その準備でバタバタしていたような――。

 紗江は手を叩いた。

「あ、私すぐに売れちゃったから、月の宮にはきちんとひとつきいなかったの。だからかな?」

 康は意外そうに眉を上げ、ユスは低く「ああ……」と納得した。

「喪の期間が短縮されたのですか?」

「そうなの。私、ここへ来てすぐに、月の宮の周りの草原を全部お花畑にしちゃって、一か月経つ前に皆に神子がいるってばれちゃったの。だからお客さんが増え過ぎない内に、すぐに競りにかけられて、アラン様に買い取られた……の……」

 紗江の声は、尻すぼみになっていった。

 何気なく出したアランという名前が、紗江の思考を鈍らせる。

 このままでは、アランの立場が悪くなるというのに、何を呑気に会話をしているのだろう。考えなしにロイを助けたいと願ったばかりに、彼に迷惑をかけている。

 紗江は重苦しくなる胸を押さえ、溜息を零した。

 視線の先に座り込んでいたロイが、不思議そうに紗江の顔を覗き込んだ。

「オ前、泣クノカ?」

 紗江はびくりと肩を揺らし、額を撫でる。そして空気が漏れるような、気の抜けた笑い声を漏らした。

「……泣いてなんか、ないわ」

 この少年を、助けるべきではなかったのだろう。しかしあのまま放っておいたら、死んでしまうと思った。

 ――人が死ぬ場面には、立ち合いたくない。だから、自分が助けられるなら、助ける。

 解消できない矛盾に、俯くしかない紗江の手を、コウが掴む。

 手のひらからは、やはり空洞になった彼の体のなかを見ている感覚がした。

「……大丈夫?」

 視線を上げて尋ねると、コウは笑った。

「……あなたは、人が好いようですね。ロイを助けてくれたとか。僕としては、お礼を申し上げたいところだけれど、本来なら、貴方がいるべきは、こんな茶番劇の舞台ではなく、一国の王子の隣だったはずです」

 その通りだ。

 しかし頷くことはできず、紗江は視線を落とし、首を傾げる。

「……どうなのかしら……。よく、わからないわ」

 ロイを助けるべきではなかったとは、口が裂けても言えなかった。目の前に助けた少年がいる。貴方を助けて後悔しているだなんて、心無い言葉を叩きつける気にはならなかった。

 コウは、俯く紗江を淡々と見つめ、ただ静かに呟いた。

「神子様、僕たちは……。――精霊は、民ではありません。どうぞ、間違われませぬよう」

 何を、と彼は言わなかった。

 紗江は窓の外に目を向け、うつろに空を見上げる。

 耳元で、何度も同じ言葉が繰り返された。

『神子様。――どうか。どうか我らの国へ、お戻りください』

 ――私が、戻るべき場所は……。

 


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