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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ゾルテの精霊― 四章
29/112

29.完全なる移動


 紗江は自分の腰に回された腕を、鬱陶しく引きはがした。

 そして腕の主である、ユスを睨む。

「貴方ね……ちょっとおいたが過ぎるんじゃない? 私は神子様・・・で、貴方たちにとっては、割と特別な存在なんでしょう? もうちょっと離れて!」

 州城を出されてからというもの、ユスは、隙さえあれば紗江に触れようとしてくる。あまりに触られるものだから、丁寧な物言いを心掛けていた紗江の言葉も、乱暴になりつつあった。

 ユスはにんまりと紗江を見下ろす。

「近くに女の体があると、触りたくなるんだよ。仕方ないだろ?」

「あ、貴方の性癖なんて知らないわよ! コウ様も、ロイも同席してるのよ! 大人しくしてなさい!」

 ――どうしてこの男を見張り役に選ぶのよ!

 紗江は内心、采配をしたサウラを罵り、何度目か分からない溜息を吐いた。向かいの席に座っているコウが、心配そうな表情で見返す。

 紗江は、コウと共に馬車に乗せられていた。

 闇夜に紛れ込ませるためか、色合いは真っ黒だ。起毛地の座席は、手触りは良いが、やはり馬車。振動が直接、体に響く。

 窓にはしっかり黒い布が被せられており、外の景色は見えない。

 紗江の見張りとして、ユスと、彼らの部下である兵が一人、同乗しており、座る場所がないロイに至っては、向かい合った座席の間の、とても狭い空間に体育座りで収まっていた。

 ユスは紗江にしか興味が無いのか、楽しそうな、嬉しそうな眼差しを注ぐ。

 ――視線を合わせたら、負けだわ。

 紗江は固い決意のもと、車の側面に凭れかかり、気怠そうなコウに声をかけた。

「……お体は、大丈夫? 辛くはない?」

 コウは黒い瞳で紗江を見つめ、ぎこちなく口の端を上げる。

「ぼくは……気にしないで」

 ロイが不意に顔を上げた。彼は大きな金色の目を見開き、紗江を見る。

「神子。コウ助ケロ。康シンドイ。早ク。俺、コウ喜ブ、ダイジ」

 コウの隣に座っていた兵が、眉間に皺を刻んだ。

「遊民の分際で、神子様に命令をするな。立場をわきまえぬか」

 ロイはびくりと肩を揺らし、縮こまる。

 怒られることが嫌いなのか、彼は折り曲げた膝の間に顔を突っ込み、息を殺した。怯えた様子のその頭に、細い手が伸び、一撫でした。

 紗江は眉を上げる。

 ――二人は知り合いなのだろうか。

「助ける……」

 紗江はどうしたものかと考え、結局王妃にしたのと変わらない手段しか思いつかなかった。手のひらを差し出すと、コウは首を傾げる。

「私の手に、触ってください」

 彼は困った笑みを浮かべた。

「いいえ、僕は……」

「少しは楽にできるかもしれません」

 ただ遠慮しているのだと思った紗江は、言葉を重ねる。

 しかしコウは、項垂れた。

「……いいえ、神子様……。これ以上、僕の主人に罪を重ねさせるわけには……まいりません……」

「……」

 紗江は瞬き、意味が分からず、ユスを見た。ユスは、こげ茶色の自分の髪をちょいちょいと弄りながら、肩を竦める。

「精霊は基本、咎めちゃダメだからさあ……。精霊がなんか悪さしたら、人殺しとか、よっぽどのことじゃない限り、ご主人様が罪を償うんだよな。なに、神子様は、そんなことも知らないの?」

「――」

 紗江は目を丸くする。――知らなかった……。

 益々、精霊を買い上げることは、非常にリスクが高いとしか思えなかった。失ったら、死罪。精霊の悪さも、全部主人に被せられる。

 ユスはちらっとコウを見やり、皮肉気に笑った。

「つってもさ、もうあんたのご主人様は神子の略奪に加担してるんだから、大して罪は変わらねえって。ちょっと分けてもらえよ。ゾルテに到着する前に死なれちゃったら、寝覚め悪いし。あ、違うか。消えちゃわれたら、寝覚め悪いし、だな!」

「あ……っ」

 ユス軽薄に笑い、コウの手を強引に引っ張る。そして紗江の手に握り込ませ、ぽんと手の甲を叩いた。

「じゃ、治癒してあげてね、神子ちゃん」

「……神子ちゃん……」

 初めての呼称だ。戸惑いつつも、紗江は骨の浮いた、冷たい手のひらに、己の力を分け与えた。指の周りに光の粒子が小さく舞い、じんわりと血が巡り始めるのが分かる。

「……っ」

 手を引き抜く力さえないコウは、されるがまま、顔を歪めた。無理強いをしている罪悪感から、紗江は謝罪する。

「ごめんなさい。……これが罪なら、私は決して誰にも言わないわ」

 コウはぎゅっと目を閉じた。

 紗江はふと、眉根を寄せる。頭の中で、華奢で青白い肌が見えた。次いで、彼の首筋から白い肩、細い腕、胸、足全てを見てしまう。瞬きをすると、目の前の少年は、きちんと着物を着ている。気のせいかな、と首を傾げると、コウの肩が小さく跳ね上がり、こちらを見返した。彼の頬に少し朱が上る。

 彼は戸惑った様子で、慌てて視線を逸らした。

「……?」

 何かあったかしら、と紗江は周囲を見渡す。

 ユスは興味がなさそうに自分の爪を見ており、兵は冷たい眼差しをロイに向けていた。

 何か問題があったわけではなさそうなので、紗江は月の力を注ぐことに集中する。コウの体の中には、ほとんど月の光がたまっていなかった。空っぽの器を見ているようだ。力を注ぐと、ほんの少し、光の粒が溜まる。でもこれを一杯にするのは、とてもじゃないが、一日では無理だ。

 ある程度力を注ぐと、コウの手がそっと紗江の手を押し返し、離れて行った。

「あ、もういいの……? もうちょっとくらい、あげられるよ?」

 まだ器の底が、金色に染まるくらいしかあげられていない。不十分だろうと眉尻を下げると、コウは苦笑した。まともな表情をつくれるようになっている。紫色だった血色も、薄い血色をしていた。

「いいえ、もう十分です。ありがとうございます」

 掠れてはいたが、彼の声は牢に繋がれていた時よりも、ずっと精気があった。紗江は、ほっとする。少ししかあげられていないけれど、役には立ったようだ。

 うずくまっていたロイが、ぱっと顔を上げた。

「コウ、元気カ。嬉シイカ?」

 康は長い前髪を掻き上げ、ロイに微笑む。

「大丈夫だよ、ロイ。どうして来たの? 僕のために無茶をしては駄目だと、言ったのに」

 ロイは途端に眉尻を下げて、下唇を尖らせた。

「無茶、シテナイ。俺、神子見ツケタ。アイツ褒メテクレタ」

「けっ!」

 ユスが突然、心底嫌そうに吐き捨てる。

「これだから餓鬼は嫌なんだ。何もわかっちゃいねえ」

 ロイがむっと身を乗り出した。

「俺、ガキジャナイ! 分カッテル、全部、康ノタメダ!」

「分かってねえじゃねえか、ガキめ。お前は、なーんにも分かっちゃいねえ。自分がしでかしたことの、何千分の一も分かってねえよ!」

 ロイばかりを責め立てる態度に、紗江はつい、口を挟んだ。

「なにを他人事みたいに言ってるの? 貴方だって同罪じゃない。罪の重さは、彼もあなたも、皆同じよ」

「――」

 ユスは一瞬目を見開き、そして暗い眼差しになった。

「……わかってるよ。俺たちは皆、同罪だ。言われずとも、犯した罪を一生背負う覚悟で、ここにいる」

「……えっと」

 いきなり馬車の中の空気が重くなり、紗江は戸惑う。なんだか悪いことを言った気分で、紗江はコウに目を向けた。その耳に、ユスは、はっきりと告げる。

「あんたが俺たちの元から逃げるなら、俺達は迷わずコウ様を殺すからな」

「…………っ」

 紗江が言葉を失った時、馬車がガタリと音を立てて止まった。即座にユスが馬車の窓を開けて、外の人間に確認する。

「着いたか」

「はい」

 窓から垣間見えたのは、どこまでも続く塀。紗江の顔が強張り、コウが気遣わしく声をかけてきた。

「神子様、大丈夫ですか」

「ええ……」

 口先では何でもないと答えたが、紗江の心臓は、早鐘を打つ。

 ――ガイナ王国領の塀だ。

 それは、紗江がガイナ王国領から離れようとしていることを、意味していた。

 紗江は無自覚に、顔を曇らせる。

 ガイナ王国を出てしまったら、アランの元へ戻るのは、いつになることか。長く離れたら、アランの立場が悪くなる。自分のせいで、アランが死を賜るのは、嫌だ。

「神子様……」

 不安に瞳が揺れ、焦燥に唇を噛んだ紗江を、ユスが上機嫌に振り返った。

「出番だよ、神子様」

 彼は紗江の手のひらを無理やり掴んだ。紗江が心の準備もできない速さで、ロイは言葉を発した。

「転移」

「やぁ――っ!」

 急激に体から力を吸い上げられた紗江は、甲高い悲鳴を上げた。

 闇の中、道の先に見えるのは領地門。門兵の視界に入らない、ぎりぎりの距離まで近づいた黒塗りの馬車と、その前後を警護する人間達は、忽然と消えた。

 門兵は常と変わらぬ景色に、目を配る。

 曲線を描く道の先に、結構な大きさの馬車行列があったことなど、誰も気づかなかった。



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