25.不穏なる使者
ゾルテ王国が精霊を失った瞬間の記憶が蘇り、アランの目の前は暗黒に染め上げられた。
「神子様……!」
誰かが彼女を呼んだ。
アランはただ言葉を失う。
――消えた。
再びこの世は精霊を失った。
「殿下……!」
地上から自分を呼ぶ声が聞こえる。暗澹とした眼差しで見下ろせば、彼女を最後に腕に抱いていた兵士――クロスが必死の形相で、こちらを見つめていた。
「……なんだ」
自分が発したとは思えない抑揚のない声が漏れ、内心ぎょっとする。クロスも同じように感じたのか、悔しげに歯を食いしばった。
「――まだ失ってはおりませぬ……!」
「……」
すでに神子は消えた。この手を逃れ、侵入者を受け入れた。アランは絶望に胸が支配されるのまま、瞼を閉じる。
「――神子は私を選ばなかった。それだけだ」
それはアランの死を意味した。一国の王子であろうとも、法の前には無力だ。
息を飲んだのは、両脇に佇んでいた彼女にあてがった侍女。お前たちが気に病むことはない、と声をかけようとしたが、クロスの声に、アランは動きを止める。
「何をおっしゃるのです! 神子様は、最後まで殿下を望んでおられました!」
「……」
つまらぬ嘘を吐くなと、冷たく見据えるも、クロスは必至に言い募った。
「神子様は、最後に殿下の御名を呟かれ、涙を流しておられました! 殿下は、これを捨て置かれるおつもりですか……! ――どうか指揮を、お取りください!」
「……そうか」
アランは冷えた眼差しで、己が治めるジ州の街並みを睥睨する。過去の妄執に捕らわれると、判断力が鈍ってしまう。しかし今は、もうあの日と同じ自分ではない。
「まだ諦めるには、早いか……」
アランは拳を握った。
――決して手放さぬと誓ったのは、この俺だ。
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紫紺の髪の下で、紺色の瞳が胡乱気に細められた。
黒一色の官服の襟に走る赤い一線は彼の身分を称している。ガイナ国に引き継がれる王の目の色をいただく名誉を与えられた男は他でもないガイナ国宰相──フロキア。彼は秘書が提出した書面に目を落としている。
書類を提出すればもう用は無いと言わんばかりに、ノラは自分の席へ戻ったが、思うところがあったのか珍しく自分から口を開いた。
「テトラ州の鉱石採掘量は訂正されましたが、事実確認は必要かと」
「面倒だね。ちょっと突いたら、すぐ鉱石採掘量の計測を間違えました、実はもっとあります大丈夫です、だもんねえ……」
フロキアは持ち前のいい加減な話し方で応じたが、瞳はひどく不快気に書面を睨んだ。
彼が書面の全てに目を通し終わると同時に、ノラは立ち上がった。机の脇の棚の中から玉石入りの勲章を取り出し、無造作にフロキアに差し出す。フロキアは口の端を上げた。
「さすがだねー……。でも君が僕に付けてくれても良いんだよ?」
「私は侍女ではなく秘書ですので」
ぴしゃりと言い放ち、彼女は更に上着を用意する。
「ちぇー僕の秘書は冷たいなあ。これがアランならきっと付けてくれたのになあ……」
「アランは貴方に弱いですからね」
フロキアは、来客時の正装とするため、自ら胸に勲章を指し、ほれ、と言わんばかりに寄越された上着に腕を通した。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる部下が不在で、フロキアは少し物寂しく、誰も座っていない第一補佐官の机を見やったのだった。
謁見の間の上座に座ったフロキアは、接見を希望していた青年に笑みを浮かべた。
「遠路良くお越しくださいました、使者殿」
青い髪に黒い瞳を持つ青年は、人の好さそうな優しい眼差しで微笑み返す。
「お初にお目にかかります。ゾルテ王国デュナメ州州官長補佐官サウラ・モーシェと申します」
フロキアは内心、首を傾げた。彼の来意は分かっている。ガイナ王国が月の神子を手に入れた事への言祝ぎを伝えに来たのだ。しかしゾルテ国代表から言祝ぎの書簡と祝いの品は既に送られており、デュナメ州が独自に来訪する意図が分からなかった。
サウラはフロキアの疑念を察し、僅かに眉尻を落とす。
「既にゾルテ国よりお祝いを申し上げておりますのは重々承知なのですが、私の上官がどうしてもお祝いを直接お渡ししたいと強く願っており……。度重なるお手間を取らせてしまい、申し訳ございません」
「滅相もない。我が国も月の神子を恵まれたばかり。慌ただしくて申し訳ない」
謙遜したものの、フロキアは落ち着かない気分を一層ざわつかせた。これは嫌味か、心からの祝福か測りかねる。
ここしばらく、ゾルテ王国は内乱が絶えず、大地は月の力を蓄えられていない。かつての栄光は既に失われ、唯一の布の生産さえ、その糸を紡ぐサシャの幼虫を育むための植物が足りず、枯渇の一途を辿っている。
月の神子を最も必要としている国は、ゾルテ王国なのだ。
サウラはふと眉を上げる。
「その神子様ですが、いかがお過ごしでしょうか? 実は私の上官より神子様に直接、お祝いをお渡しするようにと言われてきておりまして……」
フロキアは完璧な笑みを浮かべた。
「申し訳ない。神子はこちらの生活に慣れておりませんので、しばらく何人も拝謁できぬのです」
「なるほど。そういえば、今回神子様はガイナ国ではなく王子自らが所望されたとか」
「……ええ、王子殿下は、十二分に神子に尽くしていらっしゃいます」
フロキアは内心苛立った。ガイナ国の内情にまで干渉する話し方が、気に入らなかった。だが使者という立場の者に、いい加減な態度も取れない。
「しかし、王子殿下に拝謁を希望しましたが断られてしまいました。十二分に尽くしていらっしゃるとおっしゃいますが、どうやら本当に誰一人神子様のお顔を拝見できた者はいないようです。籠の鳥のように閉じ込めることが大事にするということではないはず。ましてや言祝ぎの謁見すら叶わないとは、いささか厳重に過ぎませぬか」
心から心配している表情の青年を、忌々しいと思う自分は、どうかしているだろうか。それよりも己の背後に控えている秘書をどうにかする方が、先だろうか。
ノラはフロキアの斜め後ろで、剣呑な表情を隠そうともせず、サウラを睨み据えていた。
無垢な正義を語る青年に、フロキアは笑みを絶やさなかった。
「神子とは神聖なものでございます。我が国では神子との対面は愚か、声を聞くことさえ慎重を期しております。神子の素顔を見られるのは、王家一族と極僅かな官吏のみ。ご配慮痛み入りますが、ご安心ください」
我が国という部分を強調して言うと、青年は恥じ入ったように俯いた。
「……申し訳ございません。私の国では、月の精霊も王家の皆様と同じように生活していらっしゃったもので……過ぎた事を申しました。お許しください」
「いいえ、いいのですよ」
これで折れてくれるのなら、構わない。思惑通り事が運ぶ雰囲気に胸を撫で下ろしたフロキアは、次の瞬間、すっと視線を上げた青年の言葉に息を飲んだ。
「かように厳重なお取り扱いでは、神子を失っても誰も気付かないのではと危惧いたしましたが、まさかそのようなこと起こりうるはずがございませんね」
「──もちろんですとも」
動揺を悟らせてなるものかと、フロキアは渾身の笑顔で、その場を乗り切った。
ノラが怒りのあまり、大きな鼻息を立てたのは聞かなかったことにした。
フロキアが、事の次第を聞かされたのは、神子を失った当日の深夜だった。
既に城から自分の館へ移動して酒を飲んでいたフロキアは、自身の家令が恭しく扉を叩いた音に、目を上げた。
「旦那様。王子殿下がいらっしゃいましたよ」
ひどく穏やかな口調で言うので、フロキアは間抜けにも「へ?」と聞き返してしまった。
今日は彼の休日だったはずだ。
扉を開ける許可を出すと同時に部屋に入り込んだ彼は、よほど時間が惜しいのか着の身着のままできた様子だった。
簡素な黒の上下で現れた彼は、腰に長剣を帯びている以外、常と変わらない。不機嫌そうな眼差しも、溢れ出る支配者独特の気配も、アランそのもの。
「どうしたんだい、こんな時間に。夜這いか?」
まさか扉を開けた途端に、アランが入って来るとは思っていなかったフロキアは、若干気圧されながら、扉前に控えた家令に目を向ける。白い髪と髭ばかり目立つ家令は、穏やかに彼の視線に応えた。
「お急ぎのご様子でしたので、こちらに直接ご案内申し上げました」
確かに自国の王子が慌ててやって来たら、通してやるのが人情だろう。だがこれが奇襲だったら、自分はもう死んでいる。
アランは家令の姿が消えるまで口を真一文字に引き結び、そして扉が閉まると同時に、低く呟いた。
「……神子が奪われた」
「――はあ?」
アランのために、部屋の中央にある応接用のソファから、やりかけの書類を片付けようとしていたフロキアは、素っ頓狂な声を上げた。
彼は座るスペースができたソファにどかりと腰をおろし、王子そのものの不遜な態度で、足を組んだ。仕事が関わらない場面では、彼の態度は往々にして王子だ。
対するフロキアは、書類を机の上に落とし、アランを見つめる。座っている場合ではない。
「どういう意味だ。誰かに寝取られたとか、そういうのなら聞かないぞ」
最悪の事態を考えるのが嫌で、敢えて色恋ネタを振った。アランは眉間に深い皺を刻んだ。
「――俺の神子を寝取るような男が居たら、即殺してやる」
それはそれで問題だ。神子とて恋愛は自由なのだから。だが、今の問題はそこではない。
「ということは、神子そのものを奪われたということか? 何をどうしたらお前の無駄に厳重な警護の中から、神子をかすめ取れるんだ」
「敵の月の力が強すぎた。空を飛べる奴だった」
「守り人が関わっているということか?」
「知らん。だが月の宮では見た覚えのない少年だった。恐らく遊民だ。侍女が敵の話し方が変わっていたと言っていた」
「ああ……教育を受けずに育った子供か」
遊民の親を持つ子供は、国の加護が無いため、教育を受けられない。生粋の遊民は、話し方がたどたどしかったり、文字を書けなかったりする者が多かった。
フロキアはアランの顔を覗き込む。
「本当に浚われたんだろうな? お前に嫌気がさして逃げ出したとか、元の世界へ戻ったとか、そういう可能性は絶対に無いと言い切れるのか?」
アランは顔を強張らせた。これは確認しておかないといけない、重要な事だ。月の精霊が自らの意思で逃げ出したのか、浚われたのか。この些細な違いが、アランの行く末を左右する。
「わからない」
「おいおい……」
勘弁してくれよ、と呟かずにはいられなかった。フロキアとて人の血が通っている人間だ。みすみす自国の王子を殺したくはない。
だが当人は、僅かに迷いのある眼差しで俯いた。
「神子に付けた侍女が、最初に敵と遭遇した。その時神子は侍女に手を伸ばして助けを求めていたそうだ。そして侍女と敵がやりあっている間に、神子は地上へ落ちた」
「落ちたって……お前の神子は、飛べないのか?」
アランは片手で顔を覆った。大きなため息が落ちる。
「あいつはまだ……自分の力の使い方を知らないんだ。きっと自分が飛べることすら、気づいていない。そのくせ意識もせず、月の力で庭園の花を全て咲かせたり……力の使い方に波がある。今回も、その波の一つだったと思う」
「というと?」
手のひらを膝の上に落とし、こちらを向いた双眸は忌々しげに怒りを湛えていた。
「相手が悪かった。敵は少年だった。うちの侍女は有能だ。相手の見てくれなんぞに手加減はしない。きっちり敵として応対した。敵も強かった。だから互いに血だらけの死闘になった」
「普通じゃないか」
それの何が問題なのか、わからない。アランは細い息を吐き出し、首を振った。
「だが、紗江は違う。侍女によれば、紗江は侍女が気づくまで敵と会話をしていたらしい。そして侍女が彼女を呼んだ瞬間、囚われた。混乱しただろうし、もしもあいつが、敵を普通の少年として見ていたらどうだ? 突然襲われたとしても、血だらけの少年が目の前にいたら……きっとあいつは、それを救いたいと思うに違いないんだ……」
「……神子はそれほど、慈悲深いものなのか?」
月の精霊は何人か見たことがあるが、子供の頃から祀り上げられているせいか、往々にして我が強く、扱いにくいものだった。自分が襲われたにもかかわらず、襲った相手を救う精霊など、想像もできない。
アランは膝に肘をつき、口の前で両手を絡め合わせた。視線はフロキアの背後――窓の向こうで輝く、月に向けられた。
「神子全員がそうなのかは、分からない。けれどあいつは……俺の神子はそういう人間に見えた」
救いを求める者すべてに手を差し伸べようとした彼女を諭したのは、他でもない自分だと語ったアランを見返し、フロキアは頷いた。
「じゃあ、猶予を与えよう」
赤い双眸がしっかりとフロキアを見上げる。
「宰相として、お前に猶予をやる。月の神子を連れ戻し、神子自身にお前の無実を証言してもらえれば問題無い。だが神子の不在を隠せるのは、一月が良いところだ。王立軍の指揮権を使って構わんから、早く見つけ出せ」
王立軍は十部隊に分かれ、その指揮権は王と宰相にある。三部隊は王直属であり、それ以外の部隊は王と宰相両方の合意で持って動かせる。
この王直属部隊の内の一部隊は、王子に指揮権があった。しかし部隊を動かすには、宰相の許可が必要になる。
フロキアの許可を求めに来た彼は、言葉を聞くなり、勢い良く立ち上がった。
「感謝する!」
「その代り、神子様が戻ったら会わせろよ」
「……」
アランは嫌そうに片目を眇め、答えずに部屋を出て行ってしまった。




