幸福のきざはし
「だからさ、そういうこと言っても意味ないから。泣くだけ無駄なの」
「それでも、やっぱり悲しかったの」
非常に冷静に自分の思いを否定され、ティナは頬を膨らませた。桜花蒼姫の離れで出立まで過ごすことになった二人は、穏やかな顔つきでティナの両脇に座っている。シャグナの配慮で夜の声が届かない離れを使わせてもらっているのだが、この館は元々上等な客のための一つ館で、豪奢な上に淫靡な作りだった。
一軒家と同じだけの広さを誇る離れの中には部屋が三つあり、この内二つが寝床だ。どちらも巨大なもので、共寝を想定されている。そういう場所で幼い弟と妹を泊まらせるのは気が引けたが、ジ州の宿屋は値が張り、安宿でも高い。事前に団長からもらっていた小遣いも底をついていた二人を泊める場所は、ここ以外無かった。ティナはまだ給料を貰えていない。
三人は三つある部屋の内、中央の部屋で寛いでいた。大きな一枚板の机と巨大な長椅子、柔らかな一人掛けの椅子が三つも並んでおり、正面の窓からは庭園が一望できると言う贅沢すぎる部屋だ。貧乏性なため、三人とも椅子には座らず、中央の机を押しやって、床に敷かれた毛足の長い絨毯の上に座り込んでいる。
ココが入れた茶をすすり、ティナは視線を逸らす。
イルヤが呆れた表情で顔を覗き込んだ。
「で? 噛まれた傷はどこ?」
病院に十日間世話になったイルヤ達を迎え入れ、これまでの出来事と、やはり切なくなる気持ちを話したところだった。ティナは髪を一方に寄せ上げ、首筋を見せる。
「この辺り。血がいっぱい出てたけど、傷跡ないよね?」
ティナを助けた後、シャグナが治してくれた。何故か口づけで治され、非常に居たたまれなかった。思い出して頬を染めたティナを、イルヤは半目で見上げた。
「ないけど、なんで赤くなるわけ。誰に治してもらったの?」
「え」
何となくイルヤには言ってはいけない気がする。言い淀むと、ココが腹に巻き付き、胸の下からうっとりとティナを見上げた。
「旦那様? ねえ、あの旦那様に優しく治してもらったの? そうでしょ?」
「そうなの?」
ココとは対照的に、イルヤの声が尖る。ココは夜になると怯える素振りを見せるが、日中はいつも通りのココだった。赤い花をいつも欠かさず髪に付けている。
「ええと……そうね。旦那様の部屋で襲われたから……」
ぎゅっとココの力が強まり、胸に顔を埋めた。
「良かった。お姉ちゃんまで殺されなくて……」
ちくりと、胸が痛んだ。あの人は恐ろしかった。けれど、シャグナにとってはそれだけではなかったのだから。
「そうだね……」
「それで、どうして官吏に報告しないの?」
至極まっとうな指摘だが、ティナには事実を通報することは出来なかった。
あの殺人鬼がシャグナの友人で、その関係で兵に連行されたのだ。やっと解放されたのに、またティナが傷つけられたと報告したら、シャグナの立場はより一層悪くなる。
今度は解放されないかもしれない。
ジ州の州官は優秀だ。それは甘くないことを意味していて、あのケイという男が人を殺していると知っていたシャグナを、今度は釈放してくれるはずが無い。
シャグナが戻ってきたと言うことは、きっと彼はその事実を隠してきたのだ。そして隠し立てをした者を、官吏は許さない。
シャグナは通報しようと言った。騒動に気付いた店の者も一部始終を見ていたのだ。けれど番頭は彼を止めた。もうこれ以上は、シャグナまでもを失うことになり兼ねないと懇願した。そしてティナも、シャグナを失うことを恐れた。
この数日で、失いかけたものが多すぎて、ティナはもう何もかも恐ろしくなった。弟と妹、自分の命、そしてシャグナ。
黙り込んだティナを座り込んで見上げていたイルヤは、嘆息する。
「もう。ほんとお人好しなんだから! もういないから、何とでも言えるけど、また殺人鬼が来たらどうするつもりだったの? その旦那様が四六時中お姉ちゃんを守ってくれるとでもいうの?」
「おや……お許しいただけるのなら、願ってもないねえ……」
全員がびくりと跳ねた。音もなく三人の背後、押しやられた長椅子の向こう側にシャグナがいつの間にか立っていた。
「だ……旦那様! いつ、いらっしゃったんですか!」
「っぷ!」
ティナが慌てて立ち上がると、腹に巻き付いていたココが絨毯に伸びた。イルヤが剣呑な眼差しでシャグナを睨んでいるのが気になるが、彼はいたって気にしたところもなく笑んだ。
「さっき。扉を叩いたけれど……誰も気付いてくれないみたいだったから……入ってしまったよ……」
「そうですか……っ」
「なんだよ、鈴だって付いているんだから…鳴らせばいいのに……」
隣でぼそりとイルヤが呟いたので、慌ててイルヤの前に立ち、シャグナの視界から消す。イルヤは礼儀正しく良くできた弟だが、何故が世話になっているシャグナにだけは生意気だ。
シャグナの笑顔が深くなった。
「弟君の許しも出たようだから、私の部屋に移ろうか、ティナ」
「えっえ、ええ!」
何故か指先で顎をすくい上げられ、熱く見つめられる。艶々の黒い瞳に見つめられると、ティナの顔は直ぐに真っ赤に染まった。
「触り方が、助平過ぎる!」
イルヤがティナの心を代弁しながら、シャグナの手を叩き落とした。シャグナは手の甲を撫で、ティナを見つめる。
「酷いな……この間は私の口づけを震えながら受け入れてくれたのに……」
「な!」
誤解を招く言い方をするシャグナに乗せられて、弟は真っ赤になった。
「姉ちゃんに手ぇ出すとかあり得ない! 姉ちゃんはあんたみたいに遊び慣れてないんだぞ! 初心な反応が面白いからって遊び半分でからかうな!」
「イル……イルヤ、やめて」
恥ずかしいことこの上ない。弟にまで初心な反応をすると思われている自分が情けない。
ココはぽっと頬を染めてシャグナを見つめている。
混沌とした状態に終止符を打つため、ティナはシャグナに尋ねた。
「あの、旦那様……。弟たちが失礼を、申し訳ありません。御用でしたでしょうか……」
「たちって、ココ何もしてないのに!」
もういいから黙って欲しい。シャグナはくつくつと以前よりもずっと楽しそうに笑いながら、小首を傾げた。
「いや、ごめんね。面白くてつい……絡んでしまうねえ……」
ひとしきり笑うと、彼は優しい顔で言った。
「お前の仕事についてなんだけれど……いいかな?」
イルヤとココを置いて、シャグナはティナを窓の外に誘った。庭園から涼やかな風が吹いてくる。窓を閉めるとき、部屋の中央でイルヤがぶすっとこちらを睨んでいた。何が気に入らないのかさっぱり分からなかった。
シャグナは手を交互に袖の中へ隠し、視線を庭に向ける。
「すまないね……私の友人は、お前たちを傷つけすぎた。誤っても、許されることではないけれど……」
突然の謝罪に、ティナは目を見開いた。
「いいえ! 旦那様が悪いのでは、ありません!」
「いいや……私も、悪いんだよ……。止められなかったのだから……もうずっと……長い間……」
シャグナの横顔は苦しそうだった。ティナは返す言葉がなかった。彼は口元にゆるく弧を描き、笑う。
「こんな場所に、長くいない方がいいよ……」
「え?」
彼は優しい笑みでティナを見下ろした。
「こんな場所で、お前は働くべきではないんだよ……」
「……でも。旦那様が支払われた代金が……」
支払われた代金を返すだけの働きはまだしていない。目を丸くするティナを、まるで愛しいとでも思っていそうなほど、彼の目は優しかった。
「あれは、三か月の研修期間の給与だと言っただろう?」
「多すぎます」
彼はくつりと声を漏らす。
「これでも私の店は最高級店だから……従業員の給与も目が回るほど高額なんだ……」
「でも……」
「ティナ」
心臓がどきりと跳ねた。名を呼ばれるだけで、鼓動が早くなる。見つめられるだけで、泣きそうなほど苦しい。
彼は眉を下げた。
「都の菓子屋を紹介してあげる……。こんな店で、お前は働く必要はないよ。ここよりも給与は下がるけれど、きっとずっとやりがいのある仕事だよ。お前が、この街に来たときに望んだ、普通の仕事だろう?」
宝石商とは言わないけれど、普通の店の従業員になるものと思ってこの街へ来た。なのに連れて来られたのは、遊郭で、遊女にと売られかけた。
こんな店と、思っていた。だけれど、自分の思いを見透かした彼にまでそんな言葉を吐かせるつもりはなかった。
「こんな店だなんて……思っていません……」
申し訳ないと、心から思った。この店を軽蔑して済まない。この店で働く人間を尊敬せず、蔑視して申し訳もない。どれだけの努力と自負でもって、築き上げられた結晶であるかもわかろうとしなかった、幼いだけの自分。
シャグナは柔らかに言う。
「いいんだよ……。お前は若すぎる。この店には不釣り合いだ。だから、これは店の主人から、研修者への契約破棄の申し入れだ」
「……はい」
ティナの声は震えた。目尻に涙が滲んだ。この人は優しすぎる。我が儘な子供を、全てを許して、更に将来まで支えてやろうとしてくれる。
堪えられず、目から涙が零れた。
シャグナが困った顔で見下ろした。
「そんな顔をして……私を煽らないで……」
相変わらずの物言いに、笑ってしまうと、また涙が零れた。
「でも……旦那様と離れるのは、寂しいです」
彼が目を見開いた。本当に心から驚いた顔をしたので、ティナも釣られた。
「旦那様……?」
彼は口元を手で覆い、視線を逸らした。
「全く……。いいや……そんな風に言って、私が本気にしたらどうするの。馬鹿な子だ」
馬鹿と言われ慣れていないティナは、むっと口を尖らせる。
「本気ってなんですか? 私は、心から言っています」
彼はくるりとこちらを見おろし、目を細める。顎に指を掛けて、唇が触れるほど近づかれ、ティナは狼狽した。
「だ……っ」
「……そんなに、私と離れたくないの……? 一生、傍にいてくれるっていうの……」
彼の唇が艶を持って弧を描く。ティナは口を開いて何か返そうとしたが、シャグナの言葉を頭の中で繰り返すと、喉元からじわりと熱が昇った。真っ赤に染まりあがった顔を見おろし、彼は笑う。
「ほらね。こういう目に合うと言っているんだよ……不用意な事は言わないように……」
ふっと頭が冷静になった。ティナの口はあっさりと決意を述べた。
「傍にいることだってできます」
シャグナは眉を上げ、ぽかんと口を開けた。初めて彼の間抜けな顔を見た。
「旦那様のような大人の男性に私は不要でしょうが、旦那様が求められるのでしたら、私はお傍にいたいと思っています」
シャグナは直ぐに眉間に皺を寄せた。これも初めて見た表情だった。
「お前は……意味が分かっていない……」
「分かっています。私が、旦那様を好いているというだけです」
「……」
彼の表情が固まった。ティナは妙に冷静な自分を不思議に思いながら、言葉を重ねる。
「だからって遊んでほしいわけじゃありません。私は仕事に誠実で、従業員に公平で、馬鹿にしたように振る舞いながら、その実人の心配ばかりに気を回している、そういうあなたを好いています。それだけです」
彼は当惑した様子で、髪を掻き上げた。視線を逸らし、小さく呟く。
「よく……分からないよ……」
ティナは眉間に皺を寄せて、シャグナを睨んだ。こちらが心を砕いて言葉にしていると言うのに、いつまでも逃げを打つ姿勢が気に入らなかった。
「旦那様は、私が他所の男と睦みあっても平気なのでしょうが、私は旦那様が他の女をその腕に抱いていらっしゃる姿を見るだけで、嫉妬をするということです。分かりましたか!」
どうせ気持ちは通じないのは分かっている。最後に恋心に気付いてよかった。十五の子供に思いを寄せられても、断るのが面倒なのだろう。
ティナはいっそ清々した気持ちで、深く頭を下げた。
「今までありがとうございました。働く者の心を学ばせて頂き、感謝しております。次の店の紹介、お手数をおかけしますが何卒よろしくお願いいたします」
「え、っと、ちょ……」
顔を背けて部屋に戻ろうと窓に掛けた手を掴まれた。細い指だと思っていた手のひらは、思いのほか大きく、力強かった。窓を開けようとしたが、びくともしなかった。
「待って、待って」
とても慌てたような、狼狽したような、揺れる声に驚いた。見上げると彼は声と同じに、揺れる瞳でティナを見下ろしていた。
「はい」
まだ何か話があっただろうかと首を傾げると、彼は必死な様子で言った。
「お願い。ごめん、待って欲しい」
「はあ……」
なんだか話し方が幼くなっているような気がする。そういえば彼は一体何歳なのか、知らない。
彼はティナの手を引いて、自分の正面に立たせた。そして手を掴んだまま、ティナの目をじっと見つめる。躊躇っている。シャグナでも躊躇うことがあるのだと、意外だった。
「……その、ね……お前をこの店に置き続ける気は、ないよ」
「はい」
それはさっき聞いた。彼は頷く。
「ただ、その……私の傍には……いてくれないだろうか……」
「?」
意味が分からなかった。店が変わっては傍にも居られなくなる。分からない顔をしたティナから視線が逸れた。その頬が、ほんのりと赤い。見間違いだろうかと瞬きを繰り返す。彼は視線を逸らしながら、ぼそりと言った。
「だから……その。私の、恋人になってくれないか……」
ティナの脳天から血が下に落ちた。即座に弟の発言が自分を冷静にさせた。弟にさえ心配されるほど、自分は初心である自覚がある。浮かれてはいけない。
「……遊びは嫌なんですが」
彼は恨めし気な目でティナを見る。
「私はそんなに……遊び人に見えるのかい……」
「まあ……見えます」
以前着物を乱して美しい女と部屋から出てきたところも見ている。今度は彼がむっとした。
「いつ、私が遊ぶ姿を見せたというんだい……。私は、お前がこの店に来てからは一度だって遊んでなどいない」
ティナが来てからは、という前置きが引っ掛かる。ティナはとりあえず脳裏を過ぎった事象を上げた。
「でも、サクヤ様と良く逢瀬を……」
彼は片眉を上げ、不快気に顔を歪めた。
「サクヤ嬢には、経営の仕方を教えろと煩く言われたから……話していただけだよ。反物屋も……商品に使う布地を選ばせられていただけで……」
「着物を乱して?」
「うん?」
理解できないと言う顔をされたが、着物を直しながら部屋から出てきたのは事実だ。言うと、彼はああ、と頷いた。
「サクヤ嬢は数字が苦手で……考える間に頭を掻き毟られて、髪が乱れたから直す時間がかかっていたんだ。それに私は……お前がいたから。お前は私の胸が見えると視線を逸らすだろう。だから……」
不満げに見つめられる。ティナの頬は徐々にまた染まって行った。妬いていた事実を確認する作業は、終わってみると非常に恥ずかしい事だった。
彼はティナの唇に指先をつつ、と沿わせて笑う。
「ねえ……これで安心した……?私は……割と一途なんだ……。お前に目を付けた従業員にくぎを刺すくらいには……みっともなくお前に執着していたんだよ……」
「えっ、だって、でも!」
ただの子供でしかない自分を、シャグナのような大人が好く理由が分からなかった。
彼は余裕を取り戻した、艶のある笑みを浮かべる。
「さっきはあんなに私の事を好いていると言ってくれたのに……私が手に入りそうになったら躊躇うの……?」
「ええ? いえ、あの!」
彼の指が唇を拭う。
「私以外の男からもらった香露なんて……もうつけないでおくれ……」
「は……」
唇には、ジンキからもらった香露を塗っていた。シャグナが近い。息が絡むほど、傍に顔を寄せられ、ティナは彼の肩を押す。
「待って下さ……っ」
「私はお前が好きだよ……ティナ。その純粋な瞳も、穢れを知らない無垢な性格も、感情のままにくるくると変わるお前の顔も。ねえお願いだよ……私の……私だけの……恋人になっておくれ……」
返事をするまでもなく、唇は柔らかな彼の唇に塞がれていた。逃れさせないように、いつの間にか後頭部に回っていた手のひらに力が籠り、腰に回された腕がシャグナの体に引き寄せられていた。
「ん……っん、んっ」
呼吸を忘れたティナの目尻に涙が溜まると、彼はそっと唇を離して笑んだ。
「一生傍にいてくれるかい?」
ティナは酸素不足で朦朧とした頭で、くらくらとしながら目の前にある美丈夫に見とれた。そして口は勝手に返答していた。
「はい……」
だん、と何かが打ち付けられる音が聞こえた。
「あ……」
見やると、窓の向こうで妹に拘束された弟が、怒りも露わに窓を叩きつけていた。
「ああ……弟君にはいつになったら好かれるのだろう……」
彼はティナの腰に腕を回して抱き寄せる。真っ赤になった目尻に口付けを落としながら、楽しそうな声でそう呟いた。
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございました。
以上で本編を完結とさせていただこうと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。




