28.不意
ローゼが手を離すと、彼は名残惜しそうにしながらも、床に置いてあった明かりを持つ。
「そろそろ行くことにするよ」
「もう?」
声には残念だという気持ちが含まれている。
以前なら取り繕うために何か別のことを言ったローゼだが、少なくとも今は隠すつもりにならない。そんなローゼの心の内を読んだか、青年が返す笑みには嬉しそうなものが混ざっていた。
「部屋に戻るの?」
ローゼが尋ねると、彼は首を横に振る。
「直接部屋に戻って、どこに行っていたのか問いただされるのも面倒だから、まずはフロランに用ができたという体裁をとって彼の部屋を訪ねてみるよ」
「こんな夜中に抜け出す理由としては無理があると思うんだけど」
「そうなんだけどね」
青年はローゼとは逆の方向に顔をむける。
「……部屋を抜け出すことしか頭になくて、後のことはまったく考えていなかったんだ」
「らしくないのね」
返事の代わりに小さく笑った彼は布を渡すと立ち上がり、扉へと向かう。
ローゼも立つが、なんとなく数歩の距離を移動する気になれない。
その場で見送っていると、取っ手に手を伸ばしかけた彼がふと振り返る。
「どうしたの?」
尋ねるが、返事はない。
無言で戻って来た彼は、少し迷う素振りを見せた後、ローゼの額にそっと唇を当てる。
その後わずかに笑みを浮かべるが、結局は何も言わず、そのまま扉の向こうへ消えていった。
「……もう」
遠ざかる密やかな足音を聞きつつ小さく呟いたローゼは、渡された布を見つめたまま、なんと表現して良いのか分からない思いを抱えて立ち尽くす。しばらくの後、深く息を吐くと机に近づいて布を置き、代わりに聖剣を手にした。
「レオン?」
呼びながら柄を叩くと、ようやく返事があった。
【ローゼか。どうだった?】
「どうって何がよ」
【あいつが来たんだろ?】
「あーもう。やっぱり。余計な気を回して、勝手に籠ってたのね」
ため息交じりに言うと、レオンはどことなくそわそわした声を返す。
【そりゃそうだ。で、進展は?】
「やらしーわね。何を想像してるの。これからのことなんかをちょっと話しただけよ。それ以上は特に何もないわ」
【……なんだそれは】
「どうしてレオンがガッカリするのよ」
机の上に再度聖剣を置くと、つまらなそうに何かを言うレオンの声を聞きながら、ローゼは寝台に潜り込む。夜明けまではまだ時間があるのでもう一度眠るつもりだったのだが、しかし目が冴えて眠れそうにもない。
(とりあえず、嫌われてないみたいで良かった……)
額に触れた唇の感触を思い出して赤面しながら、ローゼは微笑む。
(それにしても……なんだかいつもと違って、可愛かったな……)
同時に、彼から移った甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。そのとたん、浮ついた気持ちはあっさりと落ちる。
神官だった頃の彼の香りというのは、薬草と、そして神殿内に漂う清涼感のある香が混ざったものだった。
今のこの甘い香りはおそらく香水なのだろうが、貴族風の装いといい、短くなった髪といい、やはりローゼの知る彼とは違うのだと思い知らされる。
その時ふと、エリオットを選ぶとしたらどうする、と問いかける自分の声が耳によみがえった。
彼は母と妹を助けてもらう代わりに役目を引き受けたはずだ。
だが、その母と妹がもういないにもかかわらず、彼には役目を放棄するつもりがまったく無いようだった。
(……だとしたら、あの人が居たい場所はグラス村じゃなくて……)
ローゼは寝台の中で目をつぶって肩を抱く。
(……大丈夫。大丈夫よ。あたしは、あの人がエリオットを選んだ時のことだってずっと考えていたんだもの。だからちゃんと、言えるに決まってるわ……)
* * *
結局眠ることはできなかったが、部屋が明るくなってきたあたりでローゼは寝台から出た。着替えが終わり、いつものように文句を言う聖剣を箪笥から出したところで、小さく扉が叩かれる。
「ローゼ、おはよう。リュシーよ。朝食を持ってきたわ」
扉を開いて挨拶をすると、室内に入ってきた彼女は小さく声を上げてローゼの顔をまじまじと見る。
「傷が綺麗になっているわ。どうしたの?」
「ええと……」
「……もしかして、エリオットね? 夜中にこっそり部屋に来たって、さっきフロランが文句を言っていたもの。……でも、本当はここへ来たんでしょう?」
ためらいながらうなずくと、リュシーは少し赤くなる。ローゼはなんだか嫌な予感がした。
「ねえ……エリオットとどんな話をしたの?」
「話ですか。そうですね、今後のことを少しだけ」
「まあ、今後の話?」
何かを勘違いしたらしいリュシーは目を輝かせる。
「はい。今後、公爵閣下と話をするという辺りまでは言いました」
「あら、そうなの……でも、他には? さらにその後の話はどう?」
「さらにその後の話は……その後にすると伝えてあります」
途端にリュシーはがっかりした様子を見せるが、ふと思いついたことがあるようで表情を引き締める。
「そうよね。ローゼの目標はまず公爵閣下と話をすることですもの。私が浮ついてしまっては駄目ね、ごめんなさい」
「……いえ」
今度は逆にローゼがうしろめたい気持ちになり、リュシーからそっと視線をそらした。
その時リュシーが、そうだわ、と呟く。
「傷が治ったのは良かったけれど、もしかしたら今日は何かを悟ったフロランが会いに来るかもしれないの。エリオットの目的がこの部屋だったと分かれば、少し面倒なことになるかもしれないわ」
考えてみれば、確かにその可能性は高そうだった。
「ローゼが嫌でなければ、傷のように見える化粧をしてもいいかしら」
尋ねられたローゼが承諾の返事をすると、朝食の間を利用してリュシーは侍女に化粧道具を持ってこさせる。
洗顔を済ませた後に紅などを使い、うっすらと赤みがかった傷を頬にもう一度作り出してくれた。
「これでいいわ。せっかく綺麗になったのにごめんなさいね。夜になったら一度落として、また明日の朝に化粧をしましょう」
そう言って微笑んだリュシーは侍女たちとともに部屋を去ったのだが、確かにこの後、疑いの眼差しを向けるフロランがやって来た。
薄暗い部屋の中、フロランはローゼの怪我が化粧であることには気づかなかったらしい。リュシーの心遣いに感謝しつつローゼはほっと息を吐いた。
さらに翌日にはリュシーが昼食と共に「明日の夕に公爵が帰ってくる」との話を持ってくる。
「フロランが祖父の機嫌を見て話を持ち掛けると思うから、明日以降は動きがあると思うわ」
緊張した面持ちのリュシーから話を聞いたローゼは、やっと、という思いがした。
【ついに明日か。長かったな】
リュシーが去って後、レオンが緊張をにじませつつローゼに話しかけてくる。
「そうね。まあ、いつ会えるのか分からないけど……ちゃんと助けてね、レオン」
【任せておけ】
頼られて嬉しそうなレオンが自信ありげな返事をしたとき、部屋へと向かってくる足音が聞こえた。
普段はリュシーが3回食事を持ってくる以外、訪れる人物はいない。
またフロランかとも考えたが、彼はいつも多数の護衛を引き連れているはずだ。しかし今、廊下に響く足音はふたつしかない。ひとつは男性用の靴、もうひとつはかかとの高い女性用のものだ。
なんとなく嫌な予感がしたので髪に布を巻いて聖剣を手にしたとき、扉の前で足音が止まる。
やはり目的はこの部屋なのか、とローゼは息を殺しながら窓に近寄った。逃げるためにそっと窓を開けたとき、扉の向こうから尊大な調子の声が聞こえる。
「この扉を開けなさい。私はマリエラ・クラレス、エリオット様の婚約者です」
彼女の言葉を聞いた途端、ローゼの中から一切の選択肢がなくなった。
レオンの制止も聞かずに扉を開ける。
扉の外には確かに、以前舞踏会で見た白いドレスの女性――マリエラが立っていた。今日の彼女は鮮やかな赤色のドレスを着ている。その色はなんとなくローゼの髪を思い起こさせた。
「部屋へ入れなさい」
「嫌です。……と言いたいところですがどうぞ。でも入れるのはあなたに命令されたからではありません。そこにずっと立たれていると、嫌でも目立つせいだということを忘れないでくださいね」
そう言ってローゼが窓近くへ移動すると、明らかに不機嫌な表情になったマリエラと、後ろから護衛であろうひとりの騎士が入ってくる。
護衛の騎士は若い男性だったが、その姿を見たローゼは目を見張る。
髪の色が褐色だった。
とはいえ、次期公爵となる人物の色よりは薄い。しかしまさか北で同じような髪の色を見るとは思わなかったローゼは心底驚いた。
「そちらの人は一体…?」
思わず問いかけると、マリエラは鬱陶しそうに後方へ視線を送る。
「……私の護衛騎士」
尋ねたかったのはそういうことではないのだが、マリエラはこれ以上何かを言うつもりがないようだった。しかも、油断なく周囲、特にローゼへ視線を向ける騎士の様子は、当たり前だがどう考えても好意的ではない。
マリエラの態度も騎士の瞳も気に入らないローゼは、思わずぼそりと呟いた。
「この狭い部屋の中で二対一、しかもおひとりは剣の使い手。あたしにとっては、とても楽しい状況ですね」
【ローゼ。お前、態度悪いぞ】
「ベルネス」
レオンが呆れたように言うのと同時に、マリエラは背後の騎士に声をかけた。
「私が命じるまで剣を抜いてはなりません」
「しかし、マリエラ様」
「反論は許しません。私に恥をかかせる気ですか」
ベルネスと呼ばれた騎士は黙って頭を下げる。
その姿を見てからマリエラはローゼへと目線を戻した。
「これで構わないでしょう?」
「構わなくないですが、仕方ありませんよね。……で、ご用はなんですか?」
「分からないとは言わせません」
マリエラは手にした扇を握りしめる。
「お前はなぜここにいるの」
鮮やかな青の瞳の奥にある怒りを隠そうともせず、マリエラはローゼをにらみつけた。




