2.変わらず、このまま 【挿絵あり】
昼下がりの明るい空を見上げ、アーヴィンは目を細めた。
長らく神官がひとりしかいない状況の続いていたグラス村には今、3人の神官が在籍している。おかげで以前よりも気楽に神殿から離れられるようになっていた。
もちろん怠けるためではない。魔物がいないかどうかの見回りでもあるし、村の中で異変や困りごとがないか調べる目的もある。それでもこうしてひとり歩いている時にふと、村のあちらこちらにローゼの影を見てしまうのは事実だった。
今もそうだ。摩耗した石畳の道を行くアーヴィンの耳に、さらさらという水の音が届く。少し考えて、アーヴィンは石壁の間にある細い道を曲がった。なだらかな土手の先にはゆったりとした流れの川と、川に架かる橋とがあった。
河原へ降り、アーヴィンは小石を踏む音をさせながら橋の下へと入る。夏の日差しが遮られて冷んやりとする中、ひとつの橋脚の根元を見下ろした。赤い髪の娘がうずくまっていたのはちょうどこの場所だった。
あれは、彼女が商人との結婚に心動かされ、最終的に断った後のこと。
「……あのね、アーヴィン。あたし、村の外へ出たい」
アーヴィン――エリオットに心情を吐露したローゼが「他の人には、絶対、絶対、内緒にしてね?」と念を押してから、4年の歳月が流れた。
その1年後に聖剣の主として選ばれ、村の外どころか国の外にまで出るなど、当時のローゼはきっと想像もしなかったはずだ。
――もちろん、当時の自分も。
シャルトスの名に縛られていた頃は、ローゼへの気持ちを自覚しながらも見ていることしかできなかった。それがまさかローゼも自分に思いを寄せてくれており、さらに北方の地から解放してもらえるばかりか結婚までするなど、あの時の自分に何度言ったところで絶対に信じないだろう。
ローゼが聖剣を手にしたおかげでアーヴィンは救われた。いや、アーヴィンだけではない。シャルトス家も、シャルトス領に住まう数多くの人々ですらも救われることになったのだ。
しかし、と思いながらアーヴィンは小さく笑う。
ローゼは自分が大きなことを成したとは考えていない。彼女はいつも「あれはあたしじゃなくて、レオンや銀狼の力だから」と言い切る。
以前の南方でのことも同様だ。表面上は人々からの感謝の言葉を受け取っていても、裏で「あたしは大したことしてないのに」とぼやいているのをアーヴィンは知っている。
きっと今回も、村へ戻ってきたローゼはほんの小さな頑張り――だが彼女自身の目からは、とてつもなく大きな功績に見えるもの――だけをアーヴィンに示し、褒めてもらうことを無上の喜びとするはずだ。後ろに隠れている『本当の大きなもの』には気づかないままで。
名も実績も知れ渡りつつあるというのに、未だ自身の影響力に無頓着なローゼのことを思えば不安はある。
だが、彼女にはレオンがついている。
共に行く彼がローゼの手綱を握り、きっと上手く御してくれる。
別れる前にシャルトスの城で話したレオンには少し奇妙な点もあったが、あれから2年、アストラン大神殿から届く話を知る限りローゼの道のりは順調のようだ。ならばレオンの奇妙な点は気のせいだったか、あるいはうまく乗り越えられたのだろうアーヴィンは考えていた。
(何しろ、ローゼと聖剣は未だ共に在る。……私には、分かる)
微笑んだアーヴィンは、そろそろ行こうかと橋脚から離れる。元の道へ戻るために振り返り、そして自分の目を疑った。
いつの間にか、河原の少し離れた場所に、ひとりの娘が立っていた。
彼女は赤い髪をきっちりと結い上げ、紺のチュニックとズボン、マントという大神殿の旅装一式を身に纏っている。この姿はシャルトスの城で別れた2年前の姿と同じだ。しかし面差しはずっと大人びており、醸し出す空気には品がある。佇まいは優雅で、まるで貴族の娘のようだ。
別人なのかとすら思うくらいに様変わりした娘は、しばらく黙って風に吹かれていた。
彼女はやがて上気した頬と同じ薄紅色の唇を開き、小さな声で確かめるように呼ぶ。
「……アーヴィン……?」
別れた時と同じその声を聞いて、アーヴィンは顔をほころばせた。
「おかえり、ローゼ」
途端にローゼの顔は、アーヴィンの良く知る村娘のものへと変わる。
「アーヴィン! ただいま!」
溌剌とした声で叫んで彼女は駆けだした。その身を受け止めるため、アーヴィンはわずかに屈んで両腕を広げる。だがなぜか、数歩走ったところでローゼは不自然に動きを止めてしまった。更にはアーヴィンの顔をまじまじと見つめたかと思うと、うつむいてしまう。
「ローゼ?」
今度はアーヴィンの呼びかけにも反応しない。
ふたりの間にあるのは5歩程度の距離だ。アーヴィンの側から迎えに行っても良いのだが、彼女の気持ちが分からない以上は近寄るのも躊躇われる。互いに黙ったまま立ち尽くしていると、今度はレオンの声が聞こえる。
【どうしたんだ、ローゼ。さっきまであんなにアーヴィンと会いたがってたじゃないか】
声色から察するにどうやらレオンも戸惑っているようだ。ならば今の自分に問題があったのかもしれないのだが、困ったことにアーヴィンは思い当る節が何ひとつとしてなかった。
「ローゼ」
重ねて名を呼ぶと、ローゼはびくりと肩を震わせた後に顔を覆ってしまった。
――もしかするとこれは拒絶なのかもしれない。
「私が何か気に触ることをしたのだろうか」
「ううん、違うの、アーヴィンのせいじゃないの。これは単に、あたしの問題で――」
「ローゼの問題?」
「うん……。だって……」
うつむいたまま、ローゼはぽつりと呟く。
「アーヴィンが……」
後ろの言葉は風が運んで行ってしまってアーヴィンには聞き取れなかったが、聞こえなかったのはどうやらアーヴィンだけではなかったようだ。
少し強い口調でレオンが促す。
【ローゼ。今の声じゃ俺の場所ですら何も聞こえないぞ。もう一度ちゃんと言った方がいい】
「……ええと……あのね。……アーヴィンが……すっ、すっごく……」
【すっごく?】
「……すっごく…………の」
【なんだ? 聞こえん】
「……いいの」
【何? 何がいいんだ?】
「か……格好、いいの!」
両手で顔を覆ったままローゼは叫び声をあげ、大きく首を横に振る。
「どうしよう! 格好いい! こんなに格好いい人見たことない! フィデルで会わされた男たちなんて比べ物にならないわ!」
【は? いや、まあ……あいつらはあいつらで見た目は好かったと思うが……】
「何言ってるのよ! こんなにさらさらで綺麗な褐色をした髪の人なんていなかったわ! しかもその人が、目元もすっきり優しそうな上に、鼻も、口も、頬や顎の線も、全部整ってるなんて! どう考えても世界で一番格好いいわ! それに、見た?」
大きなため息の後、低い声でレオンが答える。
【……なにをだ】
「神官服よ!」
【……見た。それがどうした】
「分かんないの?」
【分からん】
「分かんないんだ……」
レオンはとっくに呆れた口調になっているのだが、ローゼは気にする様子がない。
「可哀想に、レオンは目がおかしくなっちゃったのね。それとも頭かな? あのね、他の人とはぜんっぜん違うの。今まで見てきた中に、ここまでさりげなく、かつ、見事に神官服を着こなしてる人なんていた? いなかったでしょ? そりゃそうよね。だってあたしの目の前にいるのは、神が理想の神官としてお作りになった――」
【おい、アーヴィン。そろそろこいつを黙らせろ】
「ローゼ」
両腕を降ろし、今度こそアーヴィンは彼女の方へ歩を進めた。橋の下の暗がりに慣れた目に日差しが眩しい。それをまるで彼女の眩しさのように思いながら、アーヴィンは2年ぶりのぬくもりに触れる。
「――おかえり、ローゼ」
抱き寄せると緊張していた彼女の体が緩む。鼻腔をくすぐるほのかに甘い香りは、ローゼのもの。
「おかえり」
もう一度囁くと、小さな吐息が聞こえた。アーヴィンの腕の中だけでローゼが聞かせてくれる、幸せそうな吐息だ。愛しさで胸がいっぱいになり、両腕に力が入る。2年の間、この瞬間をどれほど夢に見たことか。
目眩く心地で抱きしめていると、ローゼは腕をそっとアーヴィンの背に回し、顔をアーヴィンの胸に押し付ける。
「……アーヴィンの匂いがする」
嬉しそうに言ったローゼが、アーヴィンの背に回した腕へ力を入れた。
愛する人と会って触れ合うことができた喜びと、彼女に一番近い者だけに与えられる特権を噛みしめながら、目を閉じたアーヴィンは心の中で呟く。
――これが幸せでなくて、何であろうか。
彼女の吐息を聞きながら、体が彼女の香りと温もりで包まれる。
ふたつの体がひとつに溶け合うような、夢と現実の境に立つ微睡みのような。そんな満たされた時間を過ごして満足した頃、アーヴィンは更なる感覚を求めて彼女の耳元で囁いた。
「ローゼ。そろそろ顔を見せてくれないか」
しかしローゼは、アーヴィンの胸に顔を押し付けたまま首を左右に振った。
「……やだ」
「どうして?」
くぐもった声で彼女は「だって」と言う。
「シャルトスの城でも、大神殿でも、さっき村に帰ってきた時も、いろんな人があたしを見て変な顔をするの」
「変な顔?」
「うん。なんていうんだろ。あたしだって信じてくれない感じ。フロランにも、ディアナにも、本当にあたしなのかって何度も確認されてね、あたしだって分かった後もよそよそしい態度なの。……きっとあたし、この2年ですごく変な顔になったんだわ」
アーヴィンは聖剣に視線を向ける。その意味に気が付いたのだろう、困った様子の声が聞こえた。
【だから何度も言ってるだろうが。お前はすごく綺麗になったんだよ。それでみんな――】
「そういう気休めはいいから」
【気休めなんかじゃない】
「じゃあ、身びいき」
お前な、というため息まじりの声を聞きながら、アーヴィンはそっと体を離そうとした。途端にローゼが腕に力を入れ、離すまいとする。
「駄目! 顔は見ないで!」
「どうしても?」
「どうしても!」
「では、仕方がないな」
アーヴィンの言葉を受けてホッとしたのだろう、ローゼの腕が緩む。その機を逃さず、アーヴィンは素早く腰を沈めた。膝をついて見上げると、きょとんとした表情のローゼと目が合う。やがて何が起きたのかを理解したのだろう、「やだ!」と叫び、ローゼは歪めた顔を両腕で覆った。
「見ないでって言ったのに!」
「隠しても遅いよ。もう見てしまった」
笑って立ち上がり、アーヴィンはローゼの両腕を握る。諦めた様子で体の力を抜いた彼女は、アーヴィンにされるがまま両腕を降ろした。
改めてローゼの顔を覗き込み、アーヴィンは納得する。
(ああ……これは、確かに)
2年前にはまだほんの少し残っていた幼さが、20歳になった今は完全に消えている。
それどころか、辺境の村で17年を過ごしていたと思えない程に洗練された容貌は凛とした美しさを見せ、それが生来のあふれる生命力と合わさって、人を惹きつけずにはいられない華を感じさせていた。
しかしそれらすべては元々ローゼが兼ね備えていたものだ。現に、以前まで表に出ていた純朴さやあどけなさが、入れ替わるようにして奥に隠れている。おかげでローゼは大きく変わったように見えている。
――その一方で、変わらないものがある。
それは、アーヴィンが彼女に惹かれる最大の理由。
己を貫き、道を進もうとする意志の輝き。
損なわれていない光が嬉しくて、アーヴィンは思わず微笑む。ローゼは黙って瞬いていたのだが、どうやら何か勘違いをしたらしく、おずおずとした様子で口を開いた。
「……やっぱりあたし、変になってるのね」
「いいや。以前と同じだよ」
「本当?」
「本当だ」
「嘘じゃない? 絶対?」
「私が嘘を言っているように見えるのかな?」
まじまじとアーヴィンを見つめていたローゼは、しばらくの後に顔をほころばせた。
「見えないわ!」
叫んでローゼはアーヴィンの首に腕を回す。合わせて身を屈めるアーヴィンの額に、ローゼは自身の額をこつんと当ててきた。
「そうね、アーヴィンも変わってない。さっきも言ったけど、アーヴィンは前よりもっともっと格好良くなったの。でも、あたしを見てくれるこの瞳は、ずっと変わってない。大好きよ、アーヴィ――っ、ぅ」
彼女を上向かせたアーヴィンは、艶やかな唇が紡ぐ褒め言葉の先を絡めとる。
空高く行く鳥の声と、風に揺れる木の葉のざわめき、さらさらと流れる水の音が辺りを包みこむ中、天から降りそそぐ光がふたりの影をひとつにした。




