20.絆
しばらくの間、白い空間は静かなままだった。
黙って見つめるローゼの前で、レオンはおずおずと口を開きかけ、思い返したように閉じる。続いてぐっと肩に力を入れると、今度は堂々とした様子で話し出した。
【俺と一緒にいる、か。ずいぶんと聞き分けがいいな】
「そう? あたしとレオンの考えは一致してるもの。反発する理由なんてないでしょ?」
【確かに】
うなずくレオンは笑顔だ。彼を見ながらローゼももう一度微笑んだ。
「やっぱりそうなのね、良かった。だって――」
* * *
日の入りが近くなる頃合いは、農作業を終えて家へ戻る人で通りは賑わうようになる。そんな人々が帰りがけに寄るため神殿も忙しくなるのだが、今日は雨と言うこともあり、訪れる人は思いのほか少ないようだ。
もしかして、と思いながら、外での用事を済ませたイサベラ・ビセドが裏門から執務室へ入ると、思った通り、中には正神官と副神官の姿があった。
「お二方ともこちらへお戻りだったんですね、お疲れ様です!」
「おかえりなさい。ビセド神官もお疲れ様」
手前側にいた、年配の女性副神官の声に続き、奥から穏やかな声がする。
「ちょうど今、お茶を淹れようとしていたところです。一緒にいかがですか?」
20歳のイサベラとさほど変わらない年齢だが、彼はこの神殿の正神官だ。地位や経験を考えると、この場にいる人物の中では、自分が率先して雑用をすべきだろう。
「あ、でしたら、お茶は私が」
言いながら近寄るが、彼は声と同じ穏やかな笑みを浮かべてゆっくりと首を横に振る。
「もう準備を始めていますから、気になさらず」
「そうそう。せっかくだもの、甘えてしまいましょうよ」
「え? ええと……では、お願いします」
ふたりに言われて申し訳なさそうな顔つきで頭を下げながらも、内心でイサベラは快哉を叫んでいた。
実を言えば、イサベラは正神官の淹れる茶を飲みたい。彼の手による茶は香りが良く、雑味が驚くほど少ないのだ。
最初に飲んだ時に驚いてそう言うと、正神官は微笑んで「私の友人が淹れるものには劣りますが」と答えた。
彼の友人がどれほどの腕を持つのかは知らないが、この正神官が淹れる茶だって引けは取らないはずだ。そんなことを思いながらうきうきとイサベラが振り向いたところで、足の悪い副神官が長椅子に座ろうとしていたのに気付く。急いで手を貸すと、礼を言う彼女が自分の横を示したので、イサベラは遠慮なく隣に腰かけた。
たった2か月半でずいぶん図太くなってしまったな、とイサベラはこっそり苦笑する。
大神殿では地位の上下や経験の差がかなり重要視されていた。副神官の自分が正神官に茶を淹れてもらったり、年配の副神官の横へ友人のように座ったりすることなど、絶対にありえない。
あの厳格な空気はそれはそれで悪くなかったのだが、どちらかを選べるのならのんびりとした今の方がずっと好みだ。しかし残念ながら『正神官が帰郷する間の穴埋め』として臨時赴任しただけのイサベラは、もうじき大神殿へ戻らなくてはならなかった。
(もしも「延長してくれ」って言ってもらえたら、絶対残るんだけどなあ。……何しろまだ、あの方にもお会いできてないし……)
残りの滞在日数でも目的の人物には会えそうにない。残念に思うイサベラはふと、先ほどの外出時に村人から聞いた話を思い出した。
「そういえば、秋には村のお祭りがあるそうですね」
「ええ、あるわ。大地の恵みに感謝をするお祭りよ。村の広場に料理や飲み物を持ち寄ってね、そこで歌ったり、踊ったりするの。とても賑やかよ」
「いいなあ。楽しそう!」
「とっても楽しいわよ。――そうだ。もしビセド神官が赴任を延長するのなら、お祭りにも参加できるけど、どう?」
「えっ?」
考えていたばかりのことが話題に出て、驚きのあまり声が上ずる。
「私、期間を延長してもいいんですか?」
「ええ、あなたさえよければ。神官の人数が多ければ細かい所にまで手が届いてありがたいもの。それにあなたはとても働き者だから、私たちもとても助かっているのよ」
「うわあ! 嬉しい! ありがとうございます、先生! ……あっ」
「あらあら。まだ癖が抜けないのね」
この年配の副神官は、何年か前まで神官見習いの育成をしていた。イサベラは彼女から教えを受けていたこともあり、今も時々「先生」と呼びかけてしまう。
「あのう……減点、しないでください」
照れ隠しのつもりで冗談まじりに言うと、副神官は教師の顔でうなずく。
「仕方ないわね。追加の課題を出すから、その成績次第で考えましょう。――大神殿へ提出する赴任延長書を書いていらっしゃい。期日は明日まで。いいわね?」
「はい! 私、頑張って課題をこなして、村のお祭りに参加します!」
副神官が声を上げて笑う。
「ずいぶんお祭りが楽しみなのね。当日になったら羽目を外しそうで怖いわ」
「大丈夫です! 私、神官としてきちんと振る舞います! それにお酒には強いから、いくら飲んでも平気ですし!」
「まあ、すごい。私たちはお酒に弱くて。――ねぇ?」
「ええ」
副神官の呼びかけに、お茶を淹れ終わった正神官が応える。
カップを置いてくれる時に彼の端麗な顔が間近になってイサベラの心はときめくが、この男性には決まった相手がいるので、恋心を抱くつもりは微塵もない。あくまで、容貌の良い人物を目にして嬉しいだけだ。
「村で醸造した酒も出されるのですが、ほとんど飲むことができないので申し訳なく思っていたのですよ」
「そうなの。毎年残念がられていたのだけれど、今年は村の皆も喜ぶわね」
「だといいんですけど。――お茶、ありがとうございます、いただきます!」
礼を言ってカップを取ったイサベラは、浮き立つ心のまま気になっていたことを尋ねてみる。
「と、ところで。年に1度のお祭りなんですし、聖剣の主様も、きっと参加なさいますよね?」
「おそらく今年は無理でしょう」
「……そうですか……」
正神官の返事を聞いて、イサベラはしょんぼりとカップへ視線を落とす。
各地で目覚ましい活躍を遂げている2つ年下の聖剣の主は、イサベラにとって憧れの人物だ。
瘴穴を見るという稀有な力を持つ彼女は、南方の異変を収めただけでなく、強大な北方の貴族を密かに手助けした上で懐柔までしている。
しかもいつの間にか素晴らしい剣技を身につけており、複数名で倒すのも苦戦する食人鬼をひとりであっさりと片付けた。その話はもう、大神殿中の人物が知っている。南方で実際に現場を目の当たりにした神殿騎士たちが、周囲の人々に何度も話したからだ。
正直に言えば
「西の村の正神官がしばらく神殿を離れるため、臨時の副神官を探している」
という話を聞いたときにイサベラが名乗りを上げたのは、行き先が聖剣の主の故郷だと聞いたためだった。
(きっと聖剣の主様に会える! お話ができる!)
そう思いながら勇んでやって来たものの、残念なことに彼女はまだ帰ってこない。
「……お会いしたかったな」
琥珀色の液体を見ながらぽつりと呟くと、正面から穏やかな声が戻る。
「いつか会えますよ」
イサベラが顔を上げると、右手を胸に当てた正神官はとても優しい笑みを浮かべている。
「ローゼは必ずここへ帰ってきますから」
その声からも、表情からも。感じられるのは強い信頼だった。
聖剣の主と将来を誓う彼の言葉ならばきっと間違いはない。
「そっか。そうですよね。でしたら延長要請欄の期限のところには、日付の代わりに『聖剣の主様にお会いできるまで』って書いておこうかな」
イサベラが言うと、グラス村の神官ふたりは揃って笑った。
* * *
「――だって、あたしたちは帰るんだもの。グラス村へ」
レオンの笑顔が凍り付く。
【……何……?】
「グラス村へ帰るの。レオンもそのつもりでしょ?」
【な……お前は何を言ってるんだ? 俺は帰るつもりなんて少しも――】
「ない?」
【当たり前だろうが】
眉を吊り上げるレオンを見ながら小さな笑い声を漏らし、ローゼは下を向く。
「嘘よ。レオンは帰るわ。だから魂を体に戻してくれる」
【嘘なもんか。俺はお前の魂を体には戻したりはしない】
「ほら、やっぱり嘘ついてる。隠そうとしても無駄よ」
【隠してなんかないぞ。俺はずっと、本当のことだけを言ってるんだ】
「駄目駄目。あたしには分かっちゃうんだってば」
頭を上げたローゼはレオンの顔を覗きこむ。
「だって、あたしとレオンは、声だけでやり取りをしてきたのよ」
途端に水色の瞳が揺れる。力を籠めて口をつぐむ彼を見ながら、ローゼは自分の考えが間違っていなかったことを悟った。
聖剣の中にいるレオンはローゼに表情や身振りを見せることができない。
だからこそ努力してくれたのだろう、最初のうちは不愛想にも思えた彼の声は、今やとても豊かな感情が含まれるようになっている。しかしそれが裏目に出て、どれだけ顔や態度で誤魔化そうとも、声が本音を隠し切れなくなっているのだ。
「レオンが、あたしの魂を体に戻さないのは本当。でも、ずっとじゃない」
答えは戻らない。
「あたしが今後に対しての見通しを持てなかったり、自棄になって無策のままだったりしたら、レオンは絶対に体へ戻してくれないよね」
黙ったまま立つレオンの顔を見ても、ローゼは考えていることが分からない。体を持つレオンと長い期間つき合っていたなら読み取ることができたかもしれないが、残念ながら今のローゼには無理な話だった。
「だけどあたしがきちんと先のことを考えて、山の精霊に対してどう動くかを検討してからだったら、レオンはあたしの頼みを断らない。……でしょ?」
ローゼの言葉を聞き終わったレオンは、大きなため息を吐いてその場に座り込む。立てた右膝に右の肘をのせ、茶色い髪をワシワシとかき乱した。
【お前の言う通りだ! ――あぁ、くそ! こんなに早くバレるはずじゃなかったのに!】
「しょうがないわ。レオンは優しくて素直なんだし」
【気持ち悪いことを言うんじゃない】
横に手をついたローゼを、レオンは乱れた前髪の間からじろりと睨みつけてくる。
【で? そこまで分かってるお前は今後どうするつもりなんだ?】
「言ったでしょ。グラス村へ帰るの。あ、そうそう、レオンと一緒にいるって言ったのも本当よ。あたしは人のままグラス村へ帰るから。セラータやメラニーさんがどうしてるかは分からないから、帰る方法は体に戻った後でまた考えなきゃいけないけどね」
【……前向きになってきたな】
「まあね」
死んでしまえば聖剣は神の下へ戻る。レオンと離れてしまう。空から落ちる際の絶望の中にいたままだったローゼは、レオンに助けられてからも精霊となって村へ戻ることしか考えていなかった。
「でもね。あのとき、死ぬことしか考えていられなくなったのもしょうがないことだと思わない? あたしはずっと、ひとりで強大な相手と対決してたんだもの」
【……そうだな。エルゼにもアーヴィンにも『任せろ』と言ったのに、俺は約束を守ることができなかった……】
「変なこと言わないでよ。まだ終わってないわ」
ぺたりと座ったローゼは微笑み、レオンに右手を差し出す。
レオンはその手を、初めての物を前にしたかのような表情で見つめた。
そのままどのくらい経っただろうか。
【……なんだ、これは】
「はあ!?」
白い空間に反響する声を聞きながら、ここは思ったよりも狭い場所なのだろうかと、ローゼは心の片隅で考える。
「握手を知らないの!?」
【いや、知ってるが……なんで握手なんだ?】
「なんでって……ああもう、ずーっと笑ったままで待ってたから顔が強張っちゃったわ! いや、体が無いから本当に強張ってるのか分からないけど! でもそんな気分!」
引っ込めた手で頬を揉みつつ、ローゼは顔をしかめる。
「あのね、これからもよろしくねっていう意思表示のつもりだったの。あと、一緒に山の精霊に立ち向かおうねって!」
【……山のお方は手ごわいぞ】
「でしょうねえ」
深く息を吐いてから頬から右手を外し、もう一度レオンへ差し出した。
「でも、今度のあたしはきっと大丈夫よ。だってレオンが一緒にいるんだもの!」
【……一緒に俺がいる、か……】
レオンは差し出された手を取ることなく見つめた後、視線をさらに下へ、白い床へと落とす。
【……なあ、ローゼ……。俺は、お前が可愛い。何しろお前は俺の娘だからな】
表情の見えない彼の口から漏れ出た小さな声は、今までに聞いたことがないほどに切なく、頼りない。迷子の子どものようなこの声が本当にレオンのものだとは思えず、ローゼは右手を差し出したまま動けなくなる。
【お前の魂を体に戻したくない。危険だと分かっているところへ行かせたくない。ここで大事に守っていてやりたいんだ。……昨年、シャルトスの城で俺は言ったな。本当は木なんて放って帰れと言いたいんだと。今も同じ……いや、それ以上だ。お前と山のお方を会わせたくない。アーヴィンとの約束なんかどうでもいいだろうと言いたい。今の俺にとっては、お前以上に大事なものなんてないんだ】
「……レオン……」
【……でもな】
深く息を吐いてレオンは顔を上げる。そこにあったものは明るい笑いだ。
【俺はお前のことを分かってる。お前が望むことも、望まないこともな。――まったく。こんなに困った奴だってのに、俺はお前が可愛い。だから俺は、お前が心の底から願ったときには断れない】
明るい声の前面に押し出されている愛しさが、奥に隠された寂しさと口惜しさを隠そうとしているのにローゼは気付いた。――レオンの心は、確かに言葉通りだ。
【よし。じゃあ、ふたりで一緒に考えよう。この後どうすればいいのかをな!】
レオンが右手を上げ、ローゼの右手を強く握る。ローゼはうなずき、大きな手を強く握り返した。




