余話:望みは遠く
整頓された机の上を、エリオットは念のためにもう一度確認する。よく見ると並べた本がわずかに傾いでいたので、これを真っ直ぐにした。
あまりに乱雑でなければ煩く言われることはない。だが、周囲から良く思われていない自分は、できうる限りのことを行い、さらにその上を目指してようやく人並み程度の評価がもらえるのだということは、8歳のエリオットにも分かっていた。
しかもこれから迎える人物は、エリオットにとって最上に近い態度を取らなくてはならない相手だ。
緊張のあまり汗がにじむ手のひらを、開いたり閉じたりしていると、やがて約束の時間きっちりに部屋の扉が叩かれる。控えていた使用人が開くと、予定通り祖父の側近――ジャック・ダリュースが、護衛や使用人を連れて姿を現した。
エリオットの姿を認め、入り口で一礼したダリュースは机の近くまで歩み寄る。立ち止まった彼にエリオットもまた礼をとった。
「こんにちは、ダリュース」
「お元気そうで何よりです、エリオット様」
頭を上げたエリオットの目に、微笑むダリュースの柔和な顔が映る。背筋を伸ばしたエリオットは、机から最初の紙の束を取ってダリュースへ差し出した。積んである紙は、すべてが仕上げた課題だ。10日前に来たダリュースがいつものように、エリオットへ指示したものだった。
「歴史です。先生に教えていただいた場所よりも、少しさかのぼったところまでまとめました」
「今回も自発的に範囲を広げたのですね」
受取ったダリュースは中を開いて確認し、いくつかの質問をしてから、共に来た使用人へと預ける。改めて向き直るダリュースに向け、エリオットは次の紙の束を開いて示した。
「植物について書いたものです。ここの部分は、先生から教わった内容より少しくわしく――」
このジャック・ダリュースという男はシャルトス家に縁があるわけではない。いわばただの使用人で、身分という話をするのであれば、公爵家の血を引くエリオットの方が上ということになる。
しかしダリュース家の人物は、公爵ラディエイルから全幅の信頼を置かれている。
ダリュース家の先代当主、つまりジャック・ダリュースの父は、公爵の位に就いたばかりだった10代後半のラディエイルを大いに助けたそうだ。もう何年も前に引退したものの、先代が請け負っていたすべてのことは、現当主であるこのジャックが受け継いでいる。
そのため30歳をいくつかすぎたばかりだというのに、彼はイリオスの城内でかなりの権力を持っていた。
しかも彼は、エリオットにとってもかなり重要な相手だ。
父クロードが死に、母シーラと別れて以降、以前にも増して会うことの減った祖父ラディエイルが何かエリオットに指示を出す際には、必ずこのダリュースが関わっている。
彼を見るたびエリオットは、否が応でも祖父の存在を意識せざるを得ない。つまりダリュースというのはエリオットにとって、あの恐ろしい祖父も同然の相手なのだった。
背筋を伸ばしたまま、失礼が無いよう気を付けながら、机の上に積まれた紙の束をエリオットは次々とダリュースに渡す。
実を言うとエリオットは、すべての課題を少しずつ、指示以上の仕上がりにしていた。紙に一通り目を通し終えたダリュースの表情が柔和なままで、一度も眉が動くことすらなかったところを見ると、評価は悪くなかったのだろう。
期待に胸を膨らませてエリオットは本題を切り出す。
「あの、ダリュース。実は僕、お願いが――」
「ところでエリオット様。前回ご提出なされた課題ですが」
まるで遮るかのようにして話し始めたダリュースは、エリオットを見下ろして続ける。
「2か所、間違いがございました」
目を見開くエリオットは、自分の顔から血の気が引く音を聞いたような気がした。
「公爵閣下からは『自主的に範囲を広げて失敗をするよりも、言われた場所を十全に行えた方がずっと良い』とのお言葉を賜っております」
「……申し訳ありません」
「範囲を広げて課題をこなそうとの意欲は素晴らしい。ですが今回の課題でも間違いがあるようでしたら、公爵閣下はさぞお怒りになるでしょう。もし間違えておられなかったとしても、前回の汚点を雪ぐ程度のことにしかなりません」
「……はい」
希望が遠のいたことを知り、エリオットは悄然と頭を下げる。
(どうして僕は大事な時に、いつも失敗してしまうんだろう)
エリオットが毎回、指示以上の課題を仕上げているのには理由がある。
以前からエリオットは、勉学で良い評価を得た時に褒美をもらっていた。
今回も同様に、褒美として望みを叶えてもらいたいのだ。
しかし良い評価を得た後の課題では、どんなに注意していても必ず失敗してしまう。そのためエリオットは、褒美――母と妹に関しての情報入手や面会などが叶わずにいた。
ふたりに関しては「妹が産まれた」という連絡が1年ほど前に来たきり。以降は何も情報が入ってこない。そのためエリオットは、未だ妹の名前すら知らずにいた。
いったいどこで暮らしているのか。
元気でいるのか。
何か困っていることはないだろうか。
生きていることだけは間違いない。エリオットが『役目』を引き受けるのなら生かしてくれると、他ならぬ祖父が約束してくれたのだから。
だからこそ褒美として、ふたりに関することを求めたいというのに、こんなに失敗が続いては尋ねる権利すら得られなかった。
「では、エリオット様。こちらが今回の課題です」
ぎっしりと指示が書かれた紙を、暗い気持ちでエリオットはダリュースから受け取る。
「期日までにすべてを終わらせて下さい。――でないと後で、厳しいお仕置きがございますからね」
途端に背を強張らせたエリオットは、辛うじて出た声で「はい」と返事をした。
厳しいお仕置きと言われても、実際にどんな内容なのか。まだ受けたことのないエリオットには分からない。
ただ、その言葉を聞くと、思い浮かぶものがある。
血と汚物にまみれ、苦悶の表情を浮かべたまま、まるで物のように床へ転がされていた父だ。
あの父はエリオットにとって『無残な死』であり、祖父の取る恐ろしい手段の象徴。
厳しいお仕置きと聞くたびにエリオットは、父のように虚ろな瞳を向けてくる自分が目に見えるようで、息が詰まるほどの恐怖を覚えるのだった。
「では、10日後にまた参ります」
用を終えたダリュースは静かな声を残し、いつものように背を向ける。彼の後ろ姿を見ながらエリオットは唇を噛んだ。
(……また、いつもと同じだった。今回こそはって思ったのに)
視界が徐々にぼやけてきたので、扉が閉まると同時にエリオットはぐいと顔を上げる。
(次の課題は今まで以上にたくさん頑張ろう。今度こそ間違いなくこなして、公爵閣下からお許しを頂いて……そうしたら抱えきれないほどの贈り物を持って、母上と妹に会いに行くんだ)
訪ねてきたエリオットを見て、母はとても喜んでくれるはずだ。あの優しい笑顔で頑張りを褒めてくれるに違いない。
1歳の妹はまだ話すことはできないが、きっと表情でたくさんのことを伝えてくれる。いったい彼女はどれほどに愛らしいだろう。
母と、妹と、自分と。
3人で会う姿を思い描いたエリオットは、涙の代わりに笑みをこぼす。
――その横で、花瓶に生けられた白い花が、はらりと花弁を散らした。




