18.彼女の記憶
ゆらゆらと揺れながら、ローゼは記憶の海を泳いでいた。
初めの方にあったのは『幸せ』だ。
見守ってくれる存在は優しい。良く知る仲間たちと過ごす時間は穏やかに流れ、ゆったりと満ち足りて過ごしていた。
――はずだった。
だがいつからだろう。気が付かないうちに、少しずつ心の中に変化が訪れる。
見守る瞳を鬱陶しく感じる。良く知る仲間の存在は近すぎて息苦しいものとなり、ゆったりと満ち足りていたはずの日々を、緩慢で退屈だと考えるようになっていた。
(そうなのよね)
ローゼは深くうなずく。
もちろんグラス村が嫌いなわけではない。あの村はローゼの故郷、帰るべき大切な場所だ。家族がいて、友人がいて。馴染み深く懐かしい思い出があちこちにある。
ただ、ずっと同じような日々が続くのかと思うと憂鬱だった。誰かと結婚し、新たな家庭を築き、共に暮らす人の数が増えたところで、取り巻く環境が大きく変わるわけではない。
外へ出たい。
知らない世界を見て、たくさんの経験をしてみたい。
感じている気持ちが村に居た頃のものとよく似ていて、だからこそローゼは今見ているものが自分の夢なのだと疑っていなかった。しかし感情や記憶を拾い上げながら揺蕩ううち、ローゼは奇妙な思いを見つける。
――ヒトと、もっと話してみたい。
(ヒト? ……人間?)
ローゼは訝る。
特定の人と話したいということならローゼだって何度も思ったことがある。しかしこの望みはどうやら誰か個人を示しているわけではなく、人間という存在に惹かれ、焦がれているようだ。
(どういうこと? だって、あたし自身も人間なのに――)
そこでようやく気が付く。
(……まさかこれ、あたしじゃない誰かの記憶?)
誰か。つまりは、ローゼの中に棲み着いた『何か』。
確かに『何か』は別の意思を持つ存在だ。記憶があってもおかしくはない。
改めて思い至ると同時に、ローゼは不思議な感覚にとらわれる。
今までローゼは棲みついている『何か』を疎ましく思っていた。これがいなければ未来を憂うことなくいられたのに、と何度憤り、口惜しく思ったことだろう。
しかし『何か』の存在を改めて確認したというのに、今は思いのほか負の感情を抱いていない。
心の中にあるのは、どちらかと言えば親近感だ。
(……だって、あたしと似てるから……)
ローゼは『何か』に対する疎ましさが嘘のように小さくなっているのを感じていた。
* * *
思い出深い地に来たからか、偉大な彼に近くなったからか、記憶と感情は少しずつよみがえっていた。
今しがたつらつらと思い返していたのは、昔の出来事に加えてつい昨日のこと。美しく装った姿を称賛されている時の出来事だ。
装いが変わった姿をどう見てもらえるのか、不安に思う心はよく分かった。だからこそ、大切な相手から称賛されているのを感じて自分のことのように嬉しかった。
だってその昔、自分も同じだったのだから。
鬱陶しいと感じたことはあったけれど、やはり彼女にとって彼は特別な存在だ。
特別であるがため余計に、彼から称賛が欲しかったと思ってしまう。――今でさえも。
もう叶うことのない願いだとは分かっている。いつまでもぐずぐずと未練たらしいという思いもある。
だが彼女にとっては重要なことだった。そのせいで後ろばかりを見てしまうほどに。
――偉大な彼は自分の新たな姿を褒めてくれなかった。ならばきっと、自分が愛しく思うあの女性も褒めてくれることはなかったはずだ。何故なら。
「……私の姿は、美しくなかった……」
声はとても悲しいものだった。
今の時は夜。
自分の心の中のように、周囲も暗い。
木の彫刻が施された天井を見上げながら両手で顔を覆い、視界を更に暗くしたとき
「あなたは、美しかった」
独り言として吐露しただけのつもりだった言葉に、返答があった。
視線を移すと、隣で眠っていたはずの人物がこちらを見ていた。
「私は何度も申し上げましたよ。もうお忘れですか?」
動かしているものは違っても、今いる体は灰青の瞳を持つこの人物が愛している者だ。
そのためだろう、見つめる眼差しに深い愛情を籠めて、穏やかな声はもう一度彼女に告げる。
「あなたは本当に、美しかったのですから」
わずかに開いた唇から、ああ、とため息とも呟きとも知れない声が漏れる。
愛しい人が褒めてくれた。なんと嬉しいことだろうか。
湧き上がる気持ちを噛みしめる一方、違う、とも思う。
この人物が見つめる愛しい相手は、自分ではなく体の元の主だ。
しかも血の繋がりがあるとはいえ、ここにいるのは自分が愛した女性でもない。
だが、彼女は内心でゆっくり首を横に振った。
そんなのは、どうでも良いことだ。
彼女は今、昔に戻ったような気がしていた。そして愛した女性が自分を見つめながら、称賛の言葉をくれたように思えていた。
「……そう。そうでしたね。ええ、覚えています」
答えると、目の前にいる青年は、少年だった頃の面影を見せて微笑む。
笑みを返す彼女は、心の奥でずっと凍りついていたものがようやく溶けはじめるのを感じていた。
* * *
偉大な彼の元から解放された彼女は、大きな期待を手にして大きな土地を巡ってみた。
しかし彼から離れるに従って分かったのは、自分の声を聞いてくれる人がいなくなっていくということ。ごく稀に反応してくれる人もいたが、きちんと相手をしてくれることはなかった。
たくさんの人と話をしてみたいと願っていた彼女だったが、結局のところ話をしてくれる人は誰もいない。
自分たちの存在を認識してくれるのが既に限られた人たちだけであることを知って、彼女は見知らぬ土地でひとり嘆く。
なぜ話をしてくれる人が居ないのだろうと考え、彼女はほどなくして理解した。
他の土地には仲間たちが少なくなっている。
偉大な彼の元で多くの仲間と過ごしていた彼女は知らなかったのだが、他に地域にいる仲間たちは数を減らしている。存在自体が幻とまで言われるほどに。
だから彼女や仲間に気がつく人間はほとんどいない。例えいたとしても、気のせいだと思って反応するのをやめてしまうのだ。
それでも、数少ない仲間たちは頑張っていた。
黒い影は自然の律を乱し、定めから外れたものを生みだす。見つけ次第消さなくてはならない。
仲間たちは持てる限りの力で黒い影に立ち向かい、そして自らも黒く染まる。
染まった仲間を元に戻す方法はない。倒すことだけが救うための唯一の手段だ。とても強い力を持っていた彼女は、各地を巡りながらそんな黒く染まった仲間たちを何体も倒した。倒しながら、涙を流した。
(……仲間はどんどん減るばかり)
自分の持つ力は強い。偉大な彼のように領域を決めて守護するのなら仲間たちを守ることができる。おそらくある程度の範囲ならば、完全に黒い力を防ぐことも可能だ。
彼女は仲間を守るためにも何度か己の領域を決めようかとも思ったが、どうしても場所を決めきることができない。
(私がここを守護すれば近くにいる仲間たちは助かる。でも、遠くにいる仲間たちはどうなるの?)
悩みを抱え、染まった仲間を倒し、各地を巡る彼女は結局生まれ故郷の近く、彼の近くまで戻ってきてしまった。
この地にいる仲間は多い。黒い影も少なく、その分だけ黒く染まることも少ない。
一方で、遠くにいる仲間たちはなんと寂しいことだろうか。
あまりの差異に彼女は暗澹とした気分になる。川辺で打ち沈んでいると、ふと柔らかな声がかけられた。
「精霊様、どうして泣いておられるのですか?」
見るとそこには、艶やかな衣装に身を包んだ人間の女性が立っていた。灰青色の瞳を宿す目元は柔和で、朝の日に金の髪を照らされている様は、まるで光り輝いているかのように眩しく見える。
綺麗な人だと思いながら、女性に向けて彼女はゆるゆると首を横に振った。
『私は泣いてなどいませんよ』
「いいえ。あなたは傷ついて泣いておられます。私には分かります」
女性は膝をつき、手を取ってくれる。その手からは温もりが伝わってくる。案じて寄り添おうとしてくれる心が伝わってくる。
「私でよろしければお話を聞かせて下さいませ。精霊様、何があったのですか?」
穏やかで真摯な声にも後押しされ、彼女は語った。各地を巡っている間に見たこと、思ったことを。
朝だった光がやがて昼の強い日差しになる頃、長い話を聞き終えて女性はぽつりと呟いた。
「他の国の精霊たちはなんというつらい思いをしているのでしょう。私の国の人々は皆、精霊と共に生き、精霊に日々感謝をささげているというのに」
この大陸では当時、小さな国が乱立していた。そんな国のひとつを治めている王だったこの女性は、そう言ってはらはらと涙を流した。
仲間のため泣いてくれる人が居た。
孤独に各地を巡っていた彼女にとって、そのことがどれほど嬉しかったか。どれだけ言葉を尽くしても、きっとこの女性――女王に伝えることはできないだろう。
それでもつらく苦しい日々が報われたような気がして、彼女が感謝の言葉を述べようとした次の瞬間、女王は手を叩いて叫んだ。
「そうだわ! 良いことを考えました、精霊様!」
くっきりと涙の痕を残しながらも、女王は晴れやかに笑って立ち上がる。
差し伸べられた手を取ると、女王は彼女を立ち上がらせ、そのまま滑るような動きでくるくると回った。女王が着る、あちこちに水濡れの染みを作ったドレスも、女王の動きに合わせて軽やかに舞う。
「他の場所にいる精霊たちを私の国へ集めましょう!」
木の葉の隙間から日差しは明るく差し込む。至上の喜びを見出したかのような女王の表情は、木漏れ日を受けて一層輝いた。
「たくさんたくさん集めて、私の国を人と精霊とが一緒に住む国にするんです! 素敵な考えだとは思われませんか、精霊様!」
ね、首をかしげた女王は朗らかに笑う。
こちらを見る灰青の瞳が眩しそうに細められた。
ああ、とため息のような声が漏れる。
ずっと沈んでいたはずの気持ちが浮き立ち、体中に喜びが満ちるのが分かった。
――こうして自分は、運命に巡り合った。
優しい女性だった。
人を愛し、精霊を愛し、国を愛し、そして自分のことも愛してくれた。
だから自分は、この女性のために自分の生を使おうと決めたのだ。
――これは、むかしむかしの出来事。
彼女の記憶を見ていたローゼは深くため息を吐く。
「あたしたち、似てる」
思わず呟いたが、声は届かないだろうと思っていた。
しかし予想に反して答えがある。
『本当に』
目の前で、彼女が微笑んだ。
整った顔立ちの若い女性だ。ただし体のすべては銀色。目も、肌も、地について木の根のように広がる長い髪も、なにもかも。
穏やかで、柔らかく、まるで内側から輝きが湧き出してくるような控えめで優しい彼女の銀色を見ながら、なんて美しいのだろうと思ったところで、ローゼは瞼越しに届く光の中、目を覚ました。
開けた視界の中、真っ先に飛び込んできたのはローゼが最も思いを寄せる相手の姿。
その、穏やかな眠りの中に居る彼の姿を見ながら、ローゼの胸の中からは愛しさが止め処なく溢れてくる。勇い心が湧き上がってくる。
――この人がいてくれるのなら、自分は何でもできる。
――この人のためなら、自分は命を投げうっても構わない。
ローゼは胸の内で呼びかける。
(きっとあなたも、同じ気持ちだったのよね)
遠い遠い過去に、この青年の祖である女性を愛した存在。
(あたしたちは、似てる。考え方も、好きになった人も。だから共鳴して、一緒に来ちゃったのね)
胸元を押さえ、ローゼはもう一度瞳を閉じる。
(でしょう? ――古の大精霊?)
薄らと明るい視界の中か、あるいは心のどこかで、ローゼは申し訳なさそうにうなずく銀の輝きを見たような気がした。




