14.よすが
ローゼは混乱していた。
巫子長の話を聞いたアーヴィンはすぐに部屋を出て行くだろうと思っていた。ローゼへの愛情を失くし、もう二度と会ってくれないだろう、と。
だが想像とは違って彼は未だ部屋にいる。しかも彼の発した言葉もまたローゼの想像とは違っていた。
『私の気持ちは、まだ分かってもらえないのか』
アーヴィンの気持ちとは一体何なのだろうか。
時が止まったかのように静かな部屋の中で、同じく静かなアーヴィンを見つめるローゼは悩んでようやく結論を出す。
(あたしは伝え方を間違えたのね。だからアーヴィンは何か誤解してるんだわ)
そこでローゼはおずおずと切り出した。
「あ……のね、アーヴィン。あたし、うまく説明できてなかったみたい。次はもっとちゃんと話すから、まだ時間をちょうだい」
うなずいたアーヴィンはローゼの左手を胸から外し、両手で包んで膝の上に置く。強く握って、まるでローゼを逃がすまいとするかのように。その様子を見るローゼは、部屋から出ようとしているのが自分かのような錯覚に陥る。
変なの、と思いながらローゼは、彼の顔を見つつもう一度同じ話を始める。
ただし話す速度は先ほどと違い、ゆっくりと。
時々区切っては、言い間違いや誤解を招きそうな表現を使っていなかったかどうかを確認しながら。
アーヴィンは口を挟むことなく、じっと聞いている。
彼はグラス村でもよく人の相談に乗っていた。
話しているうちに怒りが湧いてきて文脈の散らかった話をする相手でも、心底困って何度も同じ話をする相手でも、アーヴィンは辛抱強く話を聞く。やがて相手が「言い終えた」と満足して黙った時、ようやく自分の意見を述べるのだ。
今は貴族風の衣装を着ているが、彼の態度は神官服を着ているときと変わらない。
ずっと黙っていたアーヴィンは、やがてローゼが口をつぐむと穏やかな声で言った。
「私の返事は変わらないよ、ローゼ。気持ちを分かってもらえなくて残念だと思っている」
2回目の説明を終えてなお同じ言葉を言うアーヴィンを見ながら、ローゼは混迷を深めた。
(どうしよう……やっぱり言い方が悪いの? ……あ、それとも)
よく考えてみると、ローゼは彼の言う『気持ち』の意味を分かっていない。誤解しているのがローゼの方だという可能性もある。
「ええと、アーヴィンの気持ちって、何?」
ローゼの問いを受け、アーヴィンは真摯な眼差しになる。
「私がローゼに想いを寄せているということだ」
「……そっか。ありがとう。……でも」
「でもは必要ない」
あくまで以前の話でしょう、と続けようとしたローゼの言葉をアーヴィンは厳しい声で遮る。
「私は『他の誰にも心を移さない』と誓った。ローゼはもう忘れたのかな」
「……忘れるはずなんか、ないわ」
もちろんローゼだって覚えている。
それはローゼの家族へ結婚の挨拶をした後、ふたりで夜を共に過ごす前。星の瞬く神殿の裏庭で、アーヴィンが贈ってくれた大切な言葉だ。
「私の気持ちはあれから何も変わっていない」
「……でも」
「でもは必要ないと言ったはずだね?」
「でも!」
重ねて指摘されてもローゼは反論したがる心を止めることができない。叫んで立ち上がろうとするが、左手は彼に握られたままピクリともしなかった。中途半端に立ち上がった状態で動けなくなったローゼは、仕方なくまた長椅子へ腰かけて視線を落とす。
「でも……それは、今だけよ。落ち着いて、ちゃんと考えたら――」
「ローゼ」
勁い声で呼ばれ、ローゼは思わず顔を上げる。ぶつかった視線の先、灰青の瞳は確固たる意志を持ってローゼを見つめている。
「私は、他の誰にも心を移すことはない」
アーヴィンの低い声は部屋の空気のみならず、ローゼの心の奥にも静かに響き、震わせる。
「それは私自身の生涯においてのことだ」
声にも瞳にも一欠片の迷いすらなく、アーヴィンは言い切った。
今はもう、ローゼの目には彼の瞳しか映らない。耳の奥で聞こえるのは巫子長の声ではなく、今しがたの彼の声だけ。
そして左手に彼の熱を感じながら、ローゼは心の中で繰り返し、言葉を噛みしめる。
(……私自身の生涯に、おいて)
まるで時が戻ったかのようだとローゼは思った。星空の下、神殿の裏庭で話したあの幸せだった時にまで。
ローゼの心を凍えさせていたのは、いつ最期を迎えるのか分からない恐怖の他、アーヴィンを失うのではないかという不安と孤独感。
そんなローゼに向かってアーヴィンは、最期まで必ず寄り添うと言ってくれているのだ。そしてローゼが居なくなった後も含め、他の誰に対しても心を移すことはないのだと。
最期に関する恐怖は今でもある。本当にこんな自分が彼を独占して良いのかとの思いも。だが一方で、不安と孤独感がゆるゆると溶けて行く。いつの間にか頬を伝うものがあるのも、それらの気持ちが流れ出していくためのように思えた。
「ローゼ」
名を呼び、アーヴィンが抱き寄せる。
「愛しているよ、ローゼ」
耳元で囁かれる言葉はいつもと違って情熱は薄め。しかしその分だけ、沁み渡るような優しさが多くなっている。
彼の腕の中で、先ほどまでよりずっとしやすくなった呼吸をしながら、ローゼはうなずいた。
「……嬉しい。ありがとう。アーヴィン、大好き」
返事の代わりのようにして、大きな手がローゼの背をゆっくりと撫でさする。
幸せな気分で手の感触を味わっていたローゼだが、続く彼の言葉に身を固くした。
「……神降ろしらしきものの記録はこの城にもある」
「え?」
ローゼは思わず顔を上げた。
神降ろしとは、人の体に他の存在を呼び入れるものだ。
本来は、天上の神々に対して尋ねたいことがある時、大神殿の要請を受けて巫子がきちんとした手順の下に降ろす。
だからこそ『神降ろし』と呼ばれている。
だが、降ろすことが出来るのは神だけではない。人の魂も呼ぶことができる。そのため死した相手に会いたいという願いを持つ人物は、大神殿に赴いて依頼をすることがあるそうだ。大神殿の関係者と巫子は内容を確認の上、可能だと判断すれば依頼者の頼みを受ける。莫大な謝礼と引き換えに。
それも当然だろう。神降ろしとは危険なものなのだ。
神降ろしはかなり体力を使う。なぜ体力を使うのか、理由はよく分からない。本来の魂でないものが体を動かすというのは摂理に反しているためかもしれない。
だというのに、なぜか別のものが体を動かしているとき肉体はいつまでも動く。
もしかすると肉体は降ろした何かの操り人形のようになっているのではないか、とは大神殿で読んだ本に書いてあったことだ。
糸が切れない限りは人形が動き続けるように、本来の魂以外のものが操る限りは体力の限界を迎えたはずの体も動き続ける。
そのため長時間の神降ろしが行われた場合、本来の魂が戻ると同時に巫子が息絶えるということもあるそうだ。
これこそが、神降ろしが危険だと言われる所以だった。
「記録があるってことは、北方でも神降ろしをするのね。誰がするの? 術士?」
「いや、北方に神降ろしというものは存在しない。神を信仰しているわけではないし、精霊の声は術士が聞ける。そもそも精霊は肉体を持たないとはいえひとつの生命なのだから、人の身に入るということも普通ではありえない。そのためか、今まで人の魂を降ろそうと考えたこともなかったようだね」
「じゃあ、どうして神降ろしの記録があるの?」
「……普通ではありえない事態が、たまに起きるから、かな」
アーヴィンは思案げな表情で続ける。
「例えば、とある術士が精霊の気に入りになったとする。だが、別の精霊もその術士を気に入った。そうすると最初の精霊が、気に入った人間を渡したくなくて人の奥底に入り込んでしまう」
「中に棲みついちゃう……?」
「そういうことになるね。だから北方では神降ろしではなく『精霊に執着された者』といった呼び方をする」
アーヴィンの話はローゼの状況と少し似ているように思える。だからこそアーヴィンはこの話をローゼに聞かせているのだろう。
確かにローゼの中に棲みついたものが何なのかは分からない。精霊だという可能性だってあるのだ。
「もちろんこれはひとつの例で、他にも類似の話がいくつかあった。今日はレオンと書庫へ行って、こういった話が載っている本を何冊か探してきたんだ」
ローゼは目を見開く。
アーヴィンがフロランと話したあと部屋に戻らなかったのは、書庫へ出かけたからだったのか。
「きっとローゼの状態を解決させられる方法がある。私はそう思っているよ」
「……あるかな」
「もちろん。一緒に探そう」
「……一緒に?」
見上げるアーヴィンは優しい眼差しでうなずく。
「一緒に、だ。ローゼと、レオンと、私と」
「……もう、あたしだけ、置いて行ったりしない?」
「置いて行かない。約束する。今までごめん、ローゼ」
「……ううん。元々あたしが隠してたせいよね。だからアーヴィンは言えなかったんでしょ? ……あたしの方こそ、ごめんね」
言って、微笑むアーヴィンの胸に顔を埋めた途端、ローゼは自分の心を理解する。
今後は例えひとりで部屋に置いて行かれたとしても、脳裏の声に怯えて涙を流すことはもうないのだ。




