遥かな高みから
彼は遥か昔からその場所にいた。
いつからそこにいて、どうやって生まれたのかを問われてももう覚えていない。いずれにせよ、彼ほど長くこの世界にいるものは他に存在しないはずだった。
彼はやがて自分の中に力があることに気づき、その力を周囲のものたちに与え始めた。
主な相手は彼が気に入ったものだ。
高い場所でも健気に咲いた花や、美しい色の虫、綺麗な声をした鳥や、愛らしい仕草の獣など。
彼は自身の行為に意味があるとは思っていなかった。ただの気まぐれのつもりだったのだが、やがて彼が力を与えたものの中から、命を終えた後に彼と同じ存在を残すものが現れた。
もちろん終えた命と同じものではない。しかし無関係だと言い切れるほど遠いものでもない。間違いなく元の生命から影響を受けているのだと、いくつもの命を見続けてきた彼は気付いていた。
こうして生まれた仲間は彼の近くに留まるものもいたが、外の世界に惹かれて彼の元から旅立つものもいた。寂しいような気もしたが、仲間となったものたちは彼と同じ存在だ。どこか違う場所で悠久の時を生きるだろう。
そう思っていたのだが、時が経つにつれて世には黒い影が現れだした。
黒い影は神に相対するもの、自らの元となる『自然』に反するものだ。そのため『自然』の化身である仲間たちは近くに影が出現すると排除しに向かったが、彼は排除に向かわなかった。その場から動けなかったからだ。
彼がただ見守るうち、黒い影は徐々に仲間を黒く染め始めた。染まった仲間は影の仲間となり、元の仲間たちに襲いかかってくる。こうして倒された元仲間や、あるいは影に返り討ちされた仲間たちには二度と会うことができなかった。
彼は愕然とする。誰よりも力があるはずの自分が誰よりも役に立てていない。
憤り、もがくうち、彼は自分の力を伸ばして周囲を守護する術を見出した。彼の守護する領域に黒い影は現れることができなかった。影が出現しようとする力より、彼の力の方が強かったためだ。
こうして彼や彼の領域にいる仲間たちは黒く染まることがなくなった。
しかしその時彼は、ずっと昔に旅立った仲間たちのことを思った。
見える範囲ですら多くの仲間が世から去った。見えない場所では、もっといなくなってしまったに違いない。
彼は決断した。今後は己の領域を全力で守ろうと。仲間たちは外へ行かせず、彼の元でただ静かに暮らしてもらおうと。
弱いものは強いものの意思に逆らえないことに彼は気付いていた。事実、最も強い存在である彼の考えに仲間たちは粛々と従った。
こうして彼は、自分の領域で仲間たちや自然の生き物たちと平和に暮らしていた。
いつの間にか現れた『人間』が、黒い影に侵略されて嘆きの声を上げても、己の領域の中にだけいる彼や仲間とは無関係な話だった。
そんなある日、ひとりの人間が彼の領域に現れた。
彼の領域のはずれからさほど遠くない場所には人間の集落がある。今までも彼の領域に人間は訪れ、自然の恵みを採取していた。人間も日々の営みがあるのだからそれもまた自然なことだと、彼は人が己の領域で活動することを許していた。そんな人間の中には彼や仲間に気づくものがおり、たまに小さな仲間たちが人間と遊ぶことがあったのだ。
今回彼の領域へ来た人間は、恵みを採取に来たというより仲間たちと会うために来たようだった。仲間を見て嬉しそうに笑う小さな人間は、彼が今まで見たどの人間よりも愛らしく思えた。
興味深く思い、彼は少し高い場所から人間の様子を眺める。
やがて彼に気づいた人間は、「わあ」と大きな声を上げた。
「すごい! 大きな精霊さんがいる! こんにちは! とってもとっても、大きい精霊さん!」
人間は自分たちを『精霊』と呼ぶのだと彼は知っていた。人間が話す言葉は自分たちのものと違うが、彼は人間の言葉も理解できたからだ。
小さな人間は嬉しそうに飛び跳ね、彼を見上げて尋ねてきた。
「大きい精霊さんは、ここで一番大きいのね。もしかしてこの精霊さんたちの、お父さんか、お母さん?」
『父でも母でもない』
彼の答えを聞いた人間は、上げていた顔をうつむかせた。
その様子は綺麗に咲いていた花が急に萎れるかのように見えたので、彼は急いで付け加えた。
『だが、ここの精霊たちの多くは私が生み出した』
途端に人間は花を咲かせたかのような様子に戻る。彼は心のどこかで安堵した。
「やっぱり! じゃあこの精霊さんたちは、大きい精霊さんの子どもたちなのね!」
無邪気に笑う人間を見ながら、違う、と彼は思った。
彼と同じ存在になったものたちはどんなに小さくとも仲間だ。子どもではない。
しかし一方で、彼が力を与えただけの者たち、つまりまだ仲間ではない花や獣などは、なんとなく自分の『子ども』と呼ぶに相応しい気がした。
力を通して彼と関係があるものの、仲間というわけではない弱い者たち。
新たな気付きに彼は嬉しくなる。礼として彼は、自分の力をこの人間に与えた。
彼の『子ども』となった人間はそれから時々彼の領域へ姿を見せていたのだが、ある日人間の集落からやってきたのは彼の『子ども』ではなく小さな『仲間』だった。
その姿を見て彼は悟る。
人間の中で初めて彼の子どもとなったものは、人としてはあまりにも早く命を終えたのだ。
『精霊となれば長き時を生きることが可能だ。我が仲間よ、次の生は謳歌するが良い』
彼の言葉を聞いた新たな仲間は嬉しそうに笑った。
その様子はまるで咲いた花のようだと彼は思った。
以降も彼は相変わらず己の領域だけを守って過ごした。
元は人間であった精霊も他の精霊たちと同様に彼の領域でおとなしく過ごしていたのだが、年月を重ねたある日、この精霊――彼女は言った。
『外の世界に出てはいけませんか?』
黒い影が出ない彼の領域で精霊たちは時を刻み続ける。他では見られない程に大きく成長した精霊も多い。彼女も同様だ。
だが、他の精霊たちはどんなに力を持っても彼の意思に従っておとなしくしているのに、なぜこの精霊だけは外に出たいと言い出したのか。
訝しみながらも彼は即座に答える。
『出てはならぬ』
『分かりました』
人から生まれた精霊はおとなしく従ったのだが、それからも折を見て彼に言う。
『外の世界に出てはいけませんか?』
『出てはならぬ』
『分かりました』
もちろん彼の答えはいつも否だ。彼女もいつも引き下がる。
しかし彼女は何度拒否されようと、何度でも頼んできた。
その日もいつもと同じように彼は彼女と受け答えをした。
『外の世界に出てはいけませんか?』
『出てはならぬ』
しかしいつもとは違って、彼女は引き下がらなかった。
『でも、私は外へ出てみたいのです』
驚いて彼は問いかけた。
『なぜお前は外を望む?』
『見てみたいのです。ここではない場所がどのようなところなのか、精霊たちがどのように過ごしているのか、そして人というのがどんなものなのか』
『ならば外に出たお前はその好奇心を後悔するだろう』
遥かな高みから世を眺めることができるようになった彼は、遠くまで世を見通せるようになっていた。
おかげで彼は、ずっと昔に旅立った仲間が長く生き、力を持った存在になっていることを知った。
強くなった仲間が、彼と同じように守護する領域を持っていると知り、彼と同じように精霊たちを生み出していることも知り、そして精霊たちが人にとって「勝手に魔物と戦う便利なものたち」いう位置づけになっていることも知ってしまった。
『出てはならぬ』
そんな世にまた自分の大切な仲間を出すなど、彼には受け入れられない話だった。結局彼はいつもと同じ答えを返したのだが、彼女はやはりいつもと違っていた。
『後悔なんてしません。……いいえ、違う。外に出られずにいるくらいなら、出て後悔した方がずっと良いと思っているのです。どうかお願いします。私に外へ出る許可を与えて下さい』
焦がれるような声を聞いた彼は、ようやく理解した。
他の精霊たちは花や鳥といった自然のものから生まれている。故に出ることを禁じても外の世界のことはさほど意に介さないのだろう。
しかしこの精霊だけは他のものと違って人から生まれた。きっとそのせいで人に惹かれ、人のいる外の世界へ出たがっているのだ。
弱い精霊は確かに強い精霊の意に従う。
だが実は意に反した行動を長くとらせることは難しいのだと、彼はこの時気が付いた。
だとすればどうするべきか、と彼は考える。
現実を知れば、彼女は自分の理想が間違っていることを理解するはずだ。がっかりして、昔は良かったと懐かしみ、きっとここへ戻ってくる。
それに彼女はずいぶん力を持っているのだから、どんな黒い影にも負けることはないだろう。
彼はついに彼女を外へ出す決意をした。了承の言葉を告げると、彼女は咲いた花を思わせる様子で喜んだ。
――このときの選択を、彼は後に悔いることとなる。
外へ出た彼女はあまり遠くへ行かなかった。彼は彼女が、人と共に在って幸せそうにする姿を見ていた。
中でも彼女はひとりの人間を強く想っていたが、その人物は魔物によって失われた。悲嘆にくれる彼女が、想っていた人物の『血』と『国』を守護しようとする様子も、彼はずっと見ていた。
しかし国は彼女の力で守護するには広すぎた。脈々と続くはずの血を守ることもまた難しいことだった。無力を嘆く彼女を見るのは彼もつらかったが、一方で喜ぶ気持ちもどこかにあった。
愛した人を失い、残ったものの守護もできないと知った彼女は、そろそろここへ戻ってくるだろう、と。
だが彼の期待は裏切られた。
彼女は小さな精霊たちの力も借りながら、全てを守護する術を見出した。彼女は彼が今まで見たことも聞いたこともない手段をとって己の分を超えるだけのものを守護したのだ。
きっと彼女は必死だった。どうしても愛する人物が残した血と国を守りたかったのだ。彼女の気持ちは理解できる。だが、彼の心を深い闇が包んだ。
力不足を理解した彼女が行ったのは、己の命を力に換えて使うという方法だったからだ。
精霊の命が尽きるのは、魔物に倒されるか、黒く染まって魔物になるかの二択、それ以外では悠久の時を生きるはずだというのに、彼女の命はどんどん削られていく。弱くなっていく彼女の姿を見ながら、彼は心が千切られるような思いに駆られた。
そんな彼の心をさらに暗澹とさせたのは人間たちだ。
彼女の行動を知った他の地域の人間は、彼の元へ頼みに来た。強力な精霊である彼にも彼女と同じことをするか、あるいは同じことが出来る精霊を人間のために寄越してもらえないかと。
彼は怒りに震えた。
彼女が人間に己の力量を超えた守護を与えたのは、ひたすらに好意からだ。
なのになぜ精霊に好意を与えようとしないものたちが、一方的に利だけを得ようとするのか。
彼は人間を追い返した。それでも人間は何度も来た。もちろんその話をされるたび彼は突っぱねたのだが、人間たちは小狡かった。彼と話すうち、彼女のことに思い至ったのだろう。
ある日、彼のもとにひとりの人物を伴って現れた。
「こちらはこのたび、我が国に嫁いで来られた方でございます」
嫁いできたという人物は、彼女の気配を纏わせていた。彼女が守っている血のものだと、彼にはすぐ分かった。
「この人物はこれから××という地域へ参ります。しかしそちらは今、精霊の数が少なくなっているために魔物の出現が多くなっており……」
彼は自分の負けを認めるしかなかった。
彼女を死なせたくない彼は、例え気配だけを持つ人物であろうとも死なせる可能性――魔物に襲われる可能性を減らしたいと考えてしまったのだ。
それでも、彼女と同じ手段をとることはできない。
悩んだ末に彼は仕方なく『外へ出てはならない』という意思を緩めた。その上で『外へ出たいものはいるか』と尋ね、名乗りを上げた精霊たちの一部を外へ向かわせることで人間の希望に沿うこととしたのだ。
だが、彼の中にやるせない思いは募る。
人間がしていることは、彼女を思う彼につけこむいわば脅しのようなものであり、人間側が一方的に得をするだけのものだ。
しかし分かっていてもなお、彼女の気配がする人物を連れてこられ、同じことを言われてしまうと、彼は拒否することができなかった。
彼の中には人間への怒りと、自分への憤りと、精霊たちへの申し訳なさが募っていく。
そんなことを何度繰り返しただろうか。
ずいぶん弱っていた彼女は、とうとう消えてしまった。
いつかそんな時が来ることは分かっていた。それでも彼の絶望は深かった。
彼女は自分の命を使ってまで守りたいものがあったはずだ。だというのに世を去る彼女の心からは感じられたのは達成感や安堵感ではなく、ただ深い悲しみばかりだったのだ。
外へ出る時に『後悔しない』と言った彼女だが、きっと最後は後悔して去ったことだろう。
――自分が彼女を外へ出した意味はなんだったのだろう。
外にさえ出なければ、彼女は今も仲間たちと共に彼の領域で、長い年月を楽しく過ごすことができたはずだ。
彼は彼女を外へ出した己を責め、二度と会えない彼女を思って打ちひしがれ、自分の勝手で失った仲間たちを思って何度も詫びた。
真っ暗な気持ちだけを抱えてただひたすら内側にのみ意識を向けていた彼だったが、ある日ふと、どこかで彼女の気配を感じたような気がした。
初めはそんなはずがないと思った。
彼女の『子ども』は今も存在している。彼女のことを考えるあまり、きっとその子どもを彼女自身の気配だと勘違いしたのだろうと思った。
だが改めて意識を向けると、遠くで感じるそれはやはり彼女自身の気配だった。何度も間違いがないかを確認した結果、確実に彼女だと分かって彼は歓喜する。
彼女は消滅していなかった。理由は分からないが、まだ生きているのだ。
今までの強大さが嘘のように小さくなった彼女は、代わりに移動ができるようになっている。だとすればいずれ彼女はここまで来るかもしれない。
だが、本当に彼女は彼の領域まで来てくれるのだろうか、と彼は思った。
もしかすると彼のことを忘れているかもしれない。覚えていても彼の元へは帰るつもりがないかもしれない。
しかも時間をかければ黒く染まってしまう可能性が増える。今の彼女は本当に小さいのだ。もしも魔物になってしまえば、今度こそ彼女は確実に失われてしまう。それだけは絶対に避ける必要があった。
――ならば、ここまで連れてくる。
しかし彼は己の守護する領域から動くことができない。
どうするべきかの考えを巡らせるうち、彼は思いついた。
人間に頼んでみよう、と。
彼は初めて自分から人間を呼び寄せた。話を聞いた人間たちは「検討する」と言って一度立ち去り、後日改めて彼の元へやって来た。
「偉大な精霊よ。あなた様が望む方に、我々は心当たりがございます」
返答を聞いて喜ぶ彼に、人間は続けた。
「もしも我々が首尾よく事を成し遂げることができましたなら、願いをお聞き届けいただけるでしょうか?」
人間がそう言うであろうことを彼は予測していた。していたが、そうならないこともまた彼は期待していた。人間が今までの恵みに恩を感じて、見返りなく動くと言って欲しかったのだ。そうすれば彼は礼として恩恵を授けるつもりでいたというのに。
人間に対して失望した彼は、ついに決意した。
『彼女が戻った暁には、お前たちの望みを言うが良い』
彼の言葉を聞き、人間たちは喜色を浮かべて一様に頭を下げる。その姿を侮蔑と嫌悪の感情を籠めて眺めながら、彼は思った。
――お前たちとはもう関わらない。
彼は人間のために動くつもりを失くした。嘘をついたと人間は彼を責めるかもしれない。だが、彼は望みを叶えるとは言っていないのだ。
戻った彼女は何としても領域に留め置く。精霊たちは絶対に外へ出さない。そして人間は今後、彼の領域へ絶対に入れない。
これで彼はもう、後悔をせずに済むのだ。




