余話:紅雨 2
残念ながら町へ着く前に雨は降り出した。
到着した神殿の前で窓から空を見上げるアーヴィンが、雨具の準備をしておいて良かった、と思うと同時に、馬車の扉が勢いよく開かれる。
「ようこそ! お待ちしていました!」
顔を見せたのはベアトリクスに結婚を申し込んだ副神官、カーシー・オルセンだ。
頬を紅潮させたカーシーは、ウキウキとした様子で馬車を覗き込む。
「遠いところありがとうございます、レスター神官」
「いえ――」
アーヴィンは答えようとするが、それよりも早くカーシーはベアトリクスに視線を移す。
「ああ、ベアトリクス! 馬車はいかがでしたか? お疲れになったでしょう? お体に障りはありませんか?」
「お気遣いありがとうございます、副神官様。私は大丈夫です」
玲瓏な声で答えたベアトリクスが微笑むと、カーシーは赤い頬をますます上気させる。
「き、き、今日が、雨で、残念でしたね! そうだ、冷えたらいけません! さあ、早く中へ入りましょう! 先ほど神官補佐に熱い茶を淹れるよう頼んできたんですよ!」
そう言って副神官は、ほんの一滴の雨ですら当てたくない、とばかりにベアトリクスを雨避けのマントで包み、丁寧に彼女の手を引いていく。後には不機嫌なフォルカーが続いた。
彼らを見ながら、アーヴィンもまた馬車を降りて傘を開く。
門をくぐったところで目に留まったのは、前庭に咲いた赤い花がうつむく姿だ。
手を伸ばし、溜まった雨の雫をそっと落とす。
重荷をなくした赤い花は再び空を見上げる。けぶる景色の中、凛と立つ鮮やかな赤はとても印象的だった。
その姿を見ながらアーヴィンはふと笑う。
(先程の副神官殿の気持ち、分からなくもないな……)
だが赤い髪の娘が望むのは、雨に当たらぬよう守ってもらうことではない。ずぶ濡れになって戻った時に暖めてもらうことだ。
それが分かっているからこそ、アーヴィンは村に残る道を選んだ。
もちろん、後悔などしてはいない。
ただ、ローゼのことを思うときには、多かれ少なかれ不安がよぎる。
己の不甲斐なさを突きつけられて自己嫌悪に陥ることも多かった。
――こんな自分が、彼女を支えることなどできるのだろうか。
思わずため息をついた時、近くで声がする。
「どうかなさいましたか?」
はっとして顔を上げると、案内の神官補佐がアーヴィンを見ていた。
「いえ、なんでもありません」
彼に向かって微笑むと、アーヴィンは雨音を聞きながら建物に向かって歩きだした。
* * *
予想通り、顔合わせは簡単なものだった。
副神官カーシーや町の正神官を含む6人の神官たちと挨拶を交わし、神官補佐のとりまとめをしているという年配の女性とも話を終え、ベアトリクスはあっさりと町の神殿に受け入れられた。
事前にベアトリクスの両親からは承諾をもらっている以上、これでベアトリクスは正式にカーシーと婚約をしたことになる。
「王都にいる両親には今から手紙を書きます! 私の結婚が決まったと知れば、ふたりとも喜んでくれるだろうなあ!」
「これ、まだ日は落ちていません。私用の手紙を書くのは神殿が閉まってからになさい」
正神官の叱責にカーシーは「はい」と答えるが、上の空の彼はきっとすぐに忘れてしまうだろう。
ベアトリクスと共に雲を踏むような足取りで応接室を出るカーシーに苦笑いを浮かべ、応接室に残った正神官はアーヴィンに向き直る。
「どうにも落ち着かない奴で申し訳ありませんな」
いえ、と笑ってアーヴィンが首を横に振ったとき、応接室の扉が叩かれて神官補佐が顔を見せる。失礼、と言いながら立ち上がった正神官に、扉の辺りで待機していた神官補佐は笑顔で何事かを言った。
次の瞬間、室内に正神官の声が響く。
「ヘルムート様が!? 南からお戻りか!」
思わず上げたらしい大きな声から察するに、正神官は大層嬉しかったようだ。
(……南)
うっかり叫んだことを誤魔化すように、正神官はひとつ咳ばらいをする。
わずかに赤面した顔を室内へ向け、気まずそうにアーヴィンへ告げた。
「申し訳ありません、来客がありまして」
「分かりました。では、これで失礼いたします」
もう本題は済んでいる。あとは特に話すこともないのだ。
後ほど夕食をご一緒に、と誘う正神官にうなずき、アーヴィンは応接室から退出する。あてがわれた客間へ下がってベアトリクスの件を書類にまとめていたのだが、ふとフォルカーのことを思い出した。
顔合わせが終わってすぐ、フォルカーは神殿関係者の区域から出ている。
彼は神殿の関係者ではないため、神殿に泊まれない。そのため今日は町中で宿をとるはずだった。
町に不慣れなはずのフォルカーのため、せめて良い宿を調べようか、と思いながらアーヴィンは客間を出る。
廊下で神官補佐を見かけたので声をかけようとしたところ、どうやら彼はアーヴィンを探していたらしい。ほっとした表情を浮かべ、小走りにやってきた。
「レスター神官様。実はご一緒にいらした方が、どうしてもお会いしたいそうなのです」
ご一緒にいらした方、とはフォルカーだろう。
困った様子の神官補佐を見て、もしやフォルカーが何かをやったのか、とアーヴィンは苦い思いを抱える。礼拝堂の方へ向かうと、半開きの扉を押さえたままのフォルカーが目に入った。
彼の表情から察するに、どうやらひどく動揺しているらしい。
何か急ぎの用事ができたのかもしれないが、それでも神殿の奥へ通じる扉を開けたままにするのは礼儀を失する。しかもここはグラス村の神殿ではないのだ。
「フォルカー」
叱責の調子で名を呼ぶが、振り返ったフォルカーは意に介する様子はない。それどころか、こちらへ身を乗り出さんばかりの勢いで口を開いた。
「ローゼが来た!」
言葉の内容があまりにも意外で、アーヴィンはフォルカーが何を言ったのか理解するまでに少し時間が必要だった。
やがてゆるゆると驚きがやってくる。
(ローゼが? ……なぜ?)
王都からグラス村へ向かう途中にこの町を通ることはないはずだ。
呆然としたままのアーヴィンに向け、フォルカーは唾を飛ばして言う。
「ローゼ・ファラーがこの神殿に来たんだ。あいつは……!」
そこまで言って、フォルカーは口をつぐむ。
やがて何かを思いついたかのような表情を見せると、今度はゆっくりとした口調でアーヴィンに言った。
「そう。あいつがこの神殿へ挨拶に来たんですよ、アーヴィン様。あの聖剣の主、ローゼ・ファラーが」
フォルカーはアーヴィンの目を見ながら口角を上げる。
「今、そこにいます。『恋人』の神殿騎士様と一緒に」
瞬間、アーヴィンの心に今まで見た夢の記憶が押し寄せてくる。
頬を染めるローゼが見つめるのは見知らぬ男性。
彼女がアーヴィンに向ける瞳は憂いを含んでいる。
地面が傾いだ気がしてわずかによろめきながら、ああ、とアーヴィンは嘆息する。自分が今、目覚めているのか、それともいつもの悪夢の中にいるのか、判然としなかった。
「ローゼは神殿騎士様と、南方で親密になったらしいんです。で、王都を先に出発した恋人と会いたくて、村へ戻ることなく町へ追いかけて来たんだそうですよ。故郷より恋人を取ったってわけですねえ」
そんなアーヴィンを見つめるフォルカーは、日焼けした顔に嫌な笑いを浮かべながら話を続ける。
「雨の中、必死で馬を飛ばしてきたんだそうで。確かに神殿騎士様は美形でね。ローゼと並ぶ姿はとても似合いでしたよ。あ、そうだ。せっかくだからアーヴィン様もご覧に――」
言いながらフォルカーが扉を開こうとしたとき、背後の廊下から名を呼ばれた。
「レスター神官!」
アーヴィンがのろのろした動きで振り返ると、明るい顔をした正神官がこちらに来ている。後ろにいるのはこの町の副神官たちだ。カーシーの姿も、そして最後方にはベアトリクスの姿もあった。
「良かった、こちらでしたか。実はグラス村ご出身の聖剣の主様が、神殿へお越しになったのですよ」
(聖剣の主……ローゼ)
「我々はご挨拶に向かいます。レスター神官もお会いしたいでしょう? ぜひご一緒に」
賓客ならば応接室でもてなすはずだ。しかし聖剣の主が来たということで舞い上がっている正神官は、『自分が赴かねば』という一心のあまり失念しているらしい。
フォルカーはさすがに神官たちの邪魔をする度胸はないらしく、ふいと離れた。閉まる扉の前から離れ、アーヴィンは自身の横に来るように言う正神官の申し出を固辞してカーシーの後ろへ行く。
平静を装う自信がない今のアーヴィンは人の前に立ちたくなかったからなのだが、そんなアーヴィンにベアトリクスはちらりと視線を向けて最後方へ下がった。
彼女と距離ができてしまったカーシーは残念そうな様子を見せる。きっと彼はベアトリクスの近くに居たかったのだろう。自分が邪魔をしてしまったことに気付き、アーヴィンは申し訳ない気持ちにかられた。
――誰だって好きな人の傍に居たいはずだ。それはもちろん、神殿騎士を追って町まで来たというローゼも同様に違いない。
やがて、息を整えた正神官が扉を開く。
前の神官たちに続いて広い礼拝堂に進み出たアーヴィンは、日が落ちて暗くなっているはずの堂内の一部に明かりが差しているような気がして目を向ける。
そこに立っていたのは、鮮やかな赤い髪を結い上げたひとりの娘だった。
彼女が無事に帰って来てくれた喜びでアーヴィンの心は浮き立つ。だがその気持ちも長続きはしなかった。
ローゼの様子からはただ暗さのみを感じる。
見るだけで胸が痛くなりそうなほどの表情は、不安に満ちているせいだろう。泣かずにいられるのが不思議なほど、彼女は沈んでいるように見える。
何があった、とアーヴィンが思う中で、ひとりの青年がローゼのすぐ後ろに立った。
神官の一団が粛々と移動する中、彼は親密さすら感じる手つきで、彼女の手からそっとマントを取る。
フォルカーと、そしてその前に聞いた正神官の言葉がアーヴィンの頭をよぎる。
きっと彼こそが、南でローゼと一緒だったという神殿騎士だろう。
「まあ、お似合い」
背後からベアトリクスの声が聞こえる。アーヴィンの胸の奥がずきりと痛み、同時にアーヴィンは思い知る。これは本当に夢ではない。今までの夢では、ここまで暗いローゼの表情を見たことが無かった。
不安そうな瞳を向けるローゼを元気づけようと思い、アーヴィンは彼女に笑みを向けようと努力する。
ローゼが真に想う人を見つけて来たのならば自分は身を引く、とアーヴィンはずっと決めていた。
だから不安に思う必要はない。ふたりの邪魔はしないから大丈夫だ、と伝えたつもりだったが、なぜかローゼはさらに憂いの色を濃くした。
しかしローゼは、いざ話を始めると見せていた不安定な様子をすっと消す。
わずかな揺らぎを瞳の中に残してはいるものの、彼女が受け答えをする様子は、神殿の重鎮である『聖剣の主』と呼ぶに見合うだけの堂々としたものだった。
村にいた頃よりずっと大人びた彼女を見ながら、アーヴィンは感心すると同時に不憫な気持ちを抱く。
夏の眩しい陽射しのようだったはずの彼女は今、凛とした冬の風を思わせる雰囲気を見せている。短期間でここまで変わる必要が彼女にはあったのだ。
せめて故郷に戻って来た時くらいは気を張らずに過ごさせてやりたい。しかしそう思う一方で、アーヴィンの心に囁くものがある。
(だが、その場所を作るのはもう、お前の役目ではないだろう?)
悲しさとも悔しさともつかない気持ちを抱きながらアーヴィンは、ローゼと神殿騎士との話を――つまりは恋人同士の話を聞いていた。その時、話を否定するかのような声が耳に届く。
【ローゼはずっとお前に会いたがっていた】
レオンの言葉を聞き、アーヴィンの心はほんのわずかに揺らいだ。
もしかすると神殿騎士とのことは誤解であり、ローゼは未だ自分を想ってくれているのでは、との期待を抱きそうになる。
しかしすべての出来事はレオンの言葉を否定している。
その証拠に、ローゼのすぐ後ろには寄り添うようにして神殿騎士が立っているのだ。
彼の姿を見れば、レオンの言葉こそが信じられないように思えた。
事実、ローゼの体が傾ぎそうになった時に神殿騎士は躊躇なく動いて彼女を支えた。
自分の屋敷へ来ることになっている、と言った後はなぜか自分の言葉に動揺したように見えたが、当のローゼが屋敷へ行くと言えば、神殿騎士の瞳からは迷いが消えた。
どう考えても、ふたりの間には確かな絆がある。
だからこそレオンの「ローゼは神殿騎士の屋敷へ行く約束をしていない」という叫びをアーヴィンは信じることができない。「ローゼがアーヴィンに会いたがっていた」という話も含め、全てはレオンの優しい嘘だとしか思えないのだ。精霊の言葉を疑うなど、今までで初めてのことかもしれなかった。
【ローゼ、どうした、このままだと本当にこの神殿騎士の屋敷へ行くことになるんだぞ! 今からでもいい、断れ!】
ローゼはレオンの声に耳を貸さず、貼りついたような笑みで話を終わらせて入口の方へ体を向ける。するとそれが合図だったかのように、傍らの神殿騎士がローゼの手を取った。おぼつかない足取りのローゼが彼に従うと、神殿騎士は確認するかのような視線をアーヴィンへ向けるが、結局は手に力を籠めた。
彼の意図はつかめない。ただ、目の前は事実だけがある。
ローゼはアーヴィンに背を向け、神殿騎士の手を取ったのだ。
その時、レオンは焦れたようにアーヴィンの名を呼び、叫ぶ。
【お前もお前だぞ! 一体何があったんだ!】
何があったと言われても、何も変わった覚えのないアーヴィンはレオンの問いかけに答えることができない。
【とにかくこの男の屋敷へ行く約束はしていないんだ! 今のローゼは正気じゃない! さっきの言葉は信じるな!】
もしかすると、屋敷へ行く約束をしていない、ということは本当なのかもしれない。しかしそのことは、ローゼが屋敷へ行くと決めた以上、何の意味も持たない。
【何か行き違っていることがあるんだろう? 頼む、ローゼを呼び止めてくれ! 話し合ってくれ!】
レオンの声はだんだんと悲痛さを帯びてくる。しかし、アーヴィンは動かなかった。
【どうしてお前らは互いのことだと、揃って臆病になるんだ!】
神殿から漏れ出る光は、暗い中に白い霧のような雨を浮かび上がらせている。
せめてローゼが雨に濡れるのは少ない時間であるよう願いながら、アーヴィンも遠ざかる後ろ姿に背を向けた。




