37.雨声 2
裏扉から出たローゼは空を見上げるが、残念ながら雨はやむ気配がない。
仕方が無いので再度雨除けのマントを被って家の方面へ向かう。小走りに道を進むうち、正面に人の姿が見えてきた。
よく見ると、傘を差して歩いてくるのはローゼが良く知る人物だ。
「あれ? お母さん?」
「まあ、本当にローゼだわ。おかえりなさい」
母はローゼを見てにっこりと笑う。
「ローゼが帰って来ましたよーって、神官補佐が知らせてくれたから、迎えに来ちゃった」
「そっか。ありがと」
言いながら母は傘を差しかける。
「雨雲がもうちょっと待ってくれれば、ローゼも濡れなくて済んだのにね」
「この時期は雨が多いからしょうがないよ」
「そうね。昨日も一昨日も雨だったのよ。もしかすると明日も雨かもしれないわね」
当たり障りのない話をした後、傘の中で母はぐっと顔を近づけてきた。
どうやら話したいことがあるようだ。
「――ところで、ローゼはアーヴィン様の話をもう聞いた?」
「アーヴィンの? 何の話?」
「その様子だと、まだね!」
母は嬉しげに、うふふ、と笑った。
話し好きな母は『あの人に一番早く情報を教えたのは自分だ』という事実をとても喜ぶ。
どうやら彼女はローゼを迎えに来たというより、ローゼがまだ知らないはずの話を教えに来たようだ。
ローゼが遠方で聖剣を振るっていたのは分かっているだろうが、自分の住む世界とは違いすぎて身近には感じられないのだろう。
娘のことより話の方を重要視するのは母らしい、と苦笑したローゼはしかし、母親が発した次の言葉に顔をこわばらせる。
「アーヴィン様が、ついにご結婚なさるの!」
【なに!?】
声を上げたのはレオンだ。
ローゼは聞いたことを飲み込めず、何も言うことができない。
「びっくりした? アーヴィン様のお相手はベアトリクスなのよ。……ええと、あれは年が改まる頃だったかしら。ベアトリクスが神殿で雑務をするようになったの。でも、神官補佐は前の神官様の時からずっと5人だったでしょ? おかしいなと思ってたら、少し前にね」
一気に話した母は少し溜めた後、秘密を打ち明けるかのように声をひそめる。
「なんとベアトリクスは、神官補佐の服をもらっていたの。つまり彼女は、正式に神官補佐になったのよ。ね? 神官様と神官補佐。あーやしーいって思うでしょ?」
妙な抑揚をつけて言い、母は含み笑いをして続ける。
「それと同時にね、村の中で噂が流れだしたの。アーヴィン様とベアトリクスの結婚が決まった、って。もうみんな、やっぱり、って感じだったわよぉ!」
【そんなことがあるものか! あいつはローゼと約束をした! 帰りを待つと言ったんだ!】
わめくレオンの声はもちろん母には届かない。
レオンが発する否定の言葉を聞きながら、ローゼはぼんやりとした頭で考える。
(……神官補佐、か……。……確か、神官の妻や夫は、神官補佐になって、相手を支えることが多いって……。……旅の間にもそんな夫婦は、何組も見たなあ……)
神官服姿のアーヴィンの横に、神官補佐の服を着たベアトリクスを想像してみる。
似合いだと思ってしまった自分を疎ましく思いながら、ローゼはふたりの姿を追い出すように小さく首を振った。
「で、でも。ただの噂なんでしょ? アーヴィン本人が結婚するって言ったわけじゃないのよね?」
「……それは、そうだけど」
ローゼが噂に乗らなかったのがつまらないのだろう。
母は小さく口をとがらせた。
そんな彼女の姿を見ながらローゼは口元を緩ませる。
「やっぱりね。まったく、お母さんはすぐ変な話を信じるんだから」
「んまあ、この子ったら生意気! あのね、ローゼ。これはフォルカーが言った話なのよ!」
「フォルカー? ベアトリクスの弟の?」
「そうよ! ね? ぐっと信ぴょう性が増したでしょう?」
母は自信ありげに言うが、ローゼは思わず鼻で笑う。
「あいつの言うことなんて、全部嘘に決まってるわ」
何かと自分に突っかかってくるフォルカーのことが、ローゼは大嫌いだった。
(危ない危ない。あんな奴の言うことを信じかけたなんて不覚だわ。大体、神官補佐は5人って決まってるわけじゃないもの。アーヴィンだって神官補佐を増やすことくらいするでしょ)
「でもね!」
体の力を抜いたローゼに、母は勢い込んで話を続ける。
「今日の朝、神殿前に馬車が停まっていたんだけど、どうやら町へ行く馬車だったらしいの!」
「アーヴィンが町へ行ったことは神官補佐から聞いてるけど、それが何?」
やはり馬車を使ったんだ、とローゼが思う傍らで、これならどうだと言いたげな笑みを母は浮かべる。
「その馬車の中に乗っていたのはなんと、アーヴィン様とベアトリクスだったのよ! 母さん、この目でちゃんと見たもの!」
途端にローゼの頭の中は真っ赤になる。
手にした荷物の落ちる音がどこか遠い場所から聞こえたような気がした。
ふらふらと動き出したローゼは、次の瞬間身を翻して走りだす。何かを叫ぶ母の声は、あっという間に雨音にかき消された。
【待て、ローゼ! これはきっと何かの間違いだぞ!】
しかし、レオンの声ははっきりと聞こえる。
拳を握り締め、ローゼは怒鳴り返した。
「間違いってなによ!」
水しぶきを上げながら、ローゼは神殿への道を戻る。
噂は否定できた。それはアーヴィン自身の言葉ではなかったからだ。
しかし、彼の行動は彼の考えから生まれている。
「アーヴィンはずっと、女性とふたりになるのは避けてきたのよ! なのにどうして、ベアトリクスとは一緒の馬車に乗ったの!?」
イリオスにある城で、エリオットの元婚約者マリエラも言っていたはずだ。『北へ戻る道中、自分と一緒に馬車に乗ってくれと何度も頼んだが、エリオットは「女性と一緒に乗ることはできない」と言って最後まで首を縦に振らなかった』と。
そんな彼が女性と共に馬車に乗った理由はひとつしか思いつかない。
――ベアトリクスが、彼にとって特別な存在になったから。
ローゼは歯を食いしばる。
北で邂逅してから王都まで戻る道中。そして村に戻ってから別れるまでの彼がローゼに向けてくれた言葉や行動は、確かに嘘ではなかったはずだ。
だがローゼの脳裏には、先日聞いたティリーの言葉が思い出される。
『一緒に居られないから、お互い不安も募る』
離れているが故の不安をローゼは常に感じていた。アーヴィンの方もまた、不安を感じていたはずだ。
近くにいられる人へ彼が心を移してしまうかもしれない、とローゼは何度考えたことだろうか。
(あたしは一緒にいられない。だけど、ベアトリクスはずっと近くにいられる……)
――だとすれば、本当に『もしも』はありえるのかもしれない。
【ローゼ】
再度レオンが呼びかけてくる。
【とにかく落ち着け。あいつは村にいない。明日には帰ってくるんだから、明日まで待つんだ!】
「そうね。アーヴィンはいないわ。グラス村にはね!」
黒い雲に遮られて日は見えないが、今は昼過ぎのはずだった。
【……おい。まさか】
レオンの声が怪訝そうなものに変わる。
【町まで行くつもりか? 今からだとかなり急がせる必要があるぞ。セラータだって疲れてるんだ】
ローゼは答えない。
【大体、町へ行ったとして、その後どうするつもりなんだ?】
「……そんなの……」
ローゼは瞳をぐいと拭う。フードを被ってもなお、雨は完全に防げるわけではない。そして顔が濡れているのは雨のせいばかりではなかった。
「……あたしにだって、分かんないよぉ……」
もちろん、レオンの言うように、行ったところで何をどうして良いのかなど分からない。
ただローゼは、とにかくアーヴィンに会いたくて、居ても立っても居られなかった。
アーヴィンはおそらく町の神殿へ行ったのだろうが、行った理由までは分からない。そもそも彼が今まで町へ行くとき、神官補佐を伴っていたことはなかったはずだ。
だとすれば、今までとは違う何か特別な用事があるのかもしれない。
それでもどうにかしてアーヴィンに会い、彼自身からベアトリクスとのことを否定してもらいたい。でないと、このぐちゃぐちゃになってしまった感情は、ローゼひとりだけで何とかできそうにはなかった。
そんなローゼの様子から無駄だと判断したのか、それとも気持ちを慮ってくれたのか。聖剣から続く声はなくなった。
人気のない道を通り、ローゼは神殿の裏庭へ行く。
馬屋を開けた時はさすがに迷ったが、それでもローゼは馬具を手にした。
セラータがいる手前の馬房を通り過ぎ、奥にいる葦毛の馬へ向かう。柵を開けようとしたとき、高く鳴く馬の声が聞こえた。
振り向くと、顔を出したセラータがローゼを見ている。
「……あのね。あたし、町まで走ってもらうつもりでいるの」
普通だと町までは半日程度の距離だ。しかしもう昼は過ぎてしまっている。今からだと馬の速度をかなり上げなくては閉門までにたどり着けない。
「セラータはね、何日も旅してきたし、さっきはいつもより急がせちゃったでしょ。だから今回はお休みしてて」
アーヴィンの乗る葦毛の牡馬も北方産だと聞いている。茜馬ほどではないが良い馬だ。ローゼは彼に乗ったことはないが、きっとなんとかなるだろう。
――いや、なんとかしてみせる。
そう思いながら改めて柵を開けようとすると、セラータが嘶きと共に足を大きく踏み鳴らし始めた。
「セラータ」
ため息をついたローゼは、彼女を落ち着かせようと入り口に近い馬房へ向かった。
「どうしたの? いつも大人しいじゃない。今はあんまり時間がないの。お願いだから我が儘言わないで」
セラータはローゼが近寄ると動きを止める。瞳をじっと見つめてきた後に、彼女は自分の背中を振り返った。
「乗れってこと? ……駄目よ。セラータはお休みなの」
言って、首筋を撫でたローゼは再び奥の馬房へ向かおうとする。途端にガクンと動きが止められた。
振り返るとセラータがローゼのマントを咥えている。
そのまま彼女が大きく首を振ったので、ローゼはセラータの前に引き戻された。
「……もう」
手を伸ばすと、セラータは顔を寄せてくる。
腰からは笑う声が聞こえた。
【乗り手に似たな】
ローゼは手にした馬具を握り締めたまましばらく躊躇う。
やがて意を決すると、セラータがいる房の柵を開けた。




