余話:大神殿のフェリシア
大神殿の廊下を走るフェリシアは、中庭が見えたところで足を緩めて外に出た。
弾む息のまま辺りを見回し、植え込みの横にある大きな木の陰へ座り込む。
思い切って横になると、ひんやりした草が上気した頬に心地よかった。
(言いましたわ、言えましたわ、わたくし!)
緩んでくる口元を両手で押さえながら、フェリシアは先ほどのことを思い出す。
「あの、わたくし、これからは皆様のお名前に敬称をつけずにお呼びしたいと思っていますの。許していただけますかしら?」
室内にいた同期の神殿騎士見習いたちへそう声をかけた時、皆は一様に驚いた表情を浮かべた。
やがて戸惑いながらも三々五々にうなずく姿を見てフェリシアはさらに呼びかける。
「それから……わたくしのことも、名をそのまま呼んで下さると嬉しいですわ」
言って頭を下げると、部屋の様子を見ることなく走って来た。
(明日からはきっと、何人かがわたくしのことを「フェリシア」と呼んでくださいますわよね。……これを機に、もっと親しく付き合ってくださるかしら。ああ、とても楽しみですわ!)
わくわくしながら、横を向いていたフェリシアは仰向けになる。
結い上げた髪が違和感を与えるが、もう部屋へ帰るだけなのだから乱れても構わない。しかしそれ以上に、違和感が気にならないほどフェリシアは気分が高揚していた。
(……ローゼの次に、わたくしを名前だけで呼んでくださる方は、どなたなのでしょう……)
だいぶ傾いているとはいえ、夏の王都は日差しが強い。眩しさに目を細めながらフェリシアは、唯一名を呼び捨てにしてくれる友人を想った。
(ローゼ、今は何をなさっていますの? アーヴィン様にお会いすることはできました? ……そのときほんの少しでも、わたくしがお渡ししたものはお役に立ちまして……?)
鮮やかな日の光は黄金とよく似ている。
フェリシアはローゼに、そんな黄金の紋章を渡していた。
ジェラルドの部屋でアーヴィンに関する情報を聞いた後、悄然とするローゼを見送ったフェリシアはその足で王宮へと向かった。
フェリシアの知識にあるシャルトス家の情報は昔のものだ。何か良い情報が来ていないかと思ってのことだったが、残念ながら徒労に終わってしまった。
ならばせめてとすがる気持ちで父へ会いに行き、フェリシアは伯爵の証となる紋章を貸してくれるよう頼みこんだ。
「お父様、どうかお願いします。お貸しいただければ、代わりに北方の有益な情報が手に入るかもしれませんの」
もちろんそんなことはフェリシアにとってどうでも良い。だが父を動かすには何か理由が必要だった。
必死に言葉を連ねていると、横から母が後押しをしてくれる。
「北方中枢の情報が手に入るなんて、またとない好機ですわ、陛下」
言ってフェリシアと並んで膝をついた第三王妃は、屈託のない笑顔を国王に向ける。
「……それに、可愛いフェリシアがこんなにお願いしているのですもの。どうかわたくしからもお願い致します」
最終的に父がうなずいたのは、北方の情報に釣られたというより、母が頼んだためだろう。国王は、寵愛している第三王妃に甘いのだ。
「ただし、必ず返すように。分かったな?」
渋い顔の父から渡された紋章を大事に抱き、フェリシアは大神殿へと戻る。
ほどなくしてフェリシアを訪ねてきたローゼは悲嘆にくれており、最終的には泣き濡れた顔で部屋を後にした。そんな彼女を見送って後にフェリシアは手紙を書き始める。
彼のことは諦めると言ったローゼだが、それでも最後は北方へ行く決断をするだろうとフェリシアは信じていた。
手紙と、父から預かった紋章、そして路銀を何重にも紙でくるむ。袋に入れ、上には焼き菓子を詰めた。そのままだとローゼは遠慮して受け取らないと思ったからだ。
思った通り、翌朝にローゼはフェリシアの部屋を訪ねてきた。
餞別だと言って渡した焼き菓子を素直に受け取ったローゼは、一体どの辺りで焼き菓子の下の物に気付いたのだろうか。
(宿ですかしら。それとも、途中で休憩しているとき? いずれにせよ、お菓子を食べ終えたらきっとびっくりしましたわよね)
不思議そうな顔で紙に包まれたものを取り出し、中を見て驚くローゼを想像したフェリシアはくすくすと笑う。その時、廊下から女性の声が聞こえた。
「――だものね。どうする?」
「そうね……」
声には聞き覚えがある。同期の神殿騎士見習いたちのものだ。
未だ高揚したままのフェリシアは、彼女たちの声を耳にしてふと悪戯を思いついた。
――まさか自分がこんな場所で寝転んでいるなど、彼女たちは想像もしていないだろう。急に声をかけて驚かせてみよう。
そう思って静かに起き上がろうとしたのだが、続く会話内容を聞いてフェリシアは動きを止めた。
「私は今まで通り、フェリシア様、とお呼びするわ」
見開いた瞳に日の光が刺さる。あまりに眩しくて、フェリシアは思わず瞼を閉じた。
「そっか。……実はね、さっき他の何人かにも聞いてみたんだけど、やっぱりみんな敬称は外せないって言うの」
「当たり前じゃない。あの方はどんなご令嬢とも違うわ。だって王女様なのよ」
「確かにね。殿下とお呼びすることはなくても、さすがに呼び捨てはできないわよねえ」
そのまま声は遠ざかる。
結局何も言えず、寝ころんだまま声を聞いていたフェリシアは、重いため息をついた。
(……仕方ありませんわ)
フェリシアは両腕で瞳を覆う。
(大丈夫、皆様の気持ち、とても良く分かりますもの。……ええ。すぐ呼び方を変えるなんて、きっと難しいに決まってますわ)
そう自分に言い聞かせながら、フェリシアはローゼから「呼び捨てにしても構わない」と言われたときのことを思い出す。
あのときフェリシアはとても嬉しかった。本当なら敬称をつけずに呼びあいたいと思っていたのだから当然だ。もちろんすぐに呼び方を変え、嬉しさのあまりうっかりローゼを押しつぶすという失態もおかしたが、それでも彼女は笑って許してくれた。
――しかし今回、自分の頼みを喜んでくれる人は誰もいないらしい。
考えるな、とフェリシアは自分に言い聞かせるのだが、それでも勝手に思考は巡る。
――喜ぶどころか、逆に皆を困らせているだけのようだ。
顔から外した腕に力を籠め、フェリシアはのろのろと起き上がる。
――……もしかすると、皆は自分のことを――。
フェリシアは勢いよく首を左右に振る。寝転んだせいでほつれた髪が首筋にかかった。
(だって、今日お願いしたばかりですのよ)
立ち上がり、服についた草をパタパタと手で払った。同時にいつの間にか唇を噛みしめていたことに気づき、力を緩める。
(これからも、わたくしが皆様のことを敬称をつけずに呼んで……そう。何かの折に、わたくしの名も呼び捨てにするようお願いすればいいのですわ。ええ、そうすれば、いつか、きっと、他の方も、ローゼのように……)
うつむくフェリシアは中庭から廊下へ戻る。こみあげてくる思いに負けて叫びそうになるのをぐっと堪え、足元だけを見て寮の部屋へと向かった。




