1.南
丘の上から見る海は日の光を浴びて青く輝いていた。
手前に広がる町は白い建物が多く、海の青との対比が美しい。
白と青。
まるで神殿の基調色のようだ、とローゼはセラータの上でわずかに目を細めた。
神殿のことをここまで身近に感じる日が来るなど、予想もしていなかった。いや、そもそも昨年の自分は、こんなところに来るなど考えることすらなかったはずだ。
この一年で自分の状況はずいぶん変わった、と白と青の景色を眺めながら感慨にふけるローゼの横で、軽やかな声がした。
「ローゼ、ご覧になりまして? あれが海というものですわよ!」
見れば、傍らのフェリシアは海ではなくローゼに顔を向けている。彼女の自慢げな表情は以前、遠くに見えた王都を示したときのものによく似ていた。
おそらくフェリシアは、海を見たローゼがどんな表情を浮かべるのかを楽しみにしていたのだろう。朝からそわそわしていたのはこのためか、と思いつつローゼは笑いながら答えた。
「海は知ってるよ。グラス村の近くにもあるし」
ローゼの返事を聞いたフェリシアは瞬き、少しの間呆然とする。
やがて小さく口を尖らせ、どこか不満そうな声を出した。
「……わたくしがグラス村に行ったとき、海は見ていません」
「だろうねえ。東側に海はないから」
「では、西側にございますの?」
「うん」
グラス村は大陸の一番西にある国、アストランの一番西にある村だ。
村の北と南は森があり、東には近隣の町や村の他、大きな街道へ行くための道が伸びている。
そして村の西には墓地があり、墓地の先には草原地帯が広がる。草原を進むと行き止まりには崖があり、海が一望できた。
崖から見る海は荒々しく、親しみは感じにくい。それでもローゼはときおり自宅の老馬に乗り、海を見に行くことがあった。
わずかに懐かしく思いながら崖から見える海の光景を話して聞かせると、フェリシアはぷいと横を向く。
「そんなこと聞いていませんわ。わたくし、ローゼはきっと海を知らないと思っていましたのよ。どんな表情をするのか、とてもワクワクしていましたのに!」
やはりそのつもりだったのか、とフェリシアの言葉を聞いて苦笑したローゼは、セラータを彼女の馬、ゲイルの近くへ寄せた。
「確かに海は知ってたけど、こんなに綺麗な青色をした海は見たことないから驚いたよ」
「……わたくしに気を使ってくださらずとも構いませんのよ」
「本当だってば。グラス村の海はもっと深い色をしてたの。南の海はとてもいい色ね」
視線を戻したフェリシアは、どうやらローゼの言葉が嘘でないと表情から見て取ったらしい。晴れやかな笑みを浮かべると、大きくうなずいた。
「そうでしょう! とても綺麗な色ですわよね!」
「うん。綺麗でびっくりした」
「近くで見ても綺麗ですのよ。早く参りましょう。わたくし、アデクの町へは何度か来ていますの。案内して差し上げますわね!」
機嫌が直ったらしいフェリシアは、歌いだしそうな様子で先に立つ。
彼女についてセラータを進ませながら、ローゼはもう一度海を見た。
海は鮮やかな青をしている。その色は、グラス村にいる男性を思い起こさせた。
(アーヴィンの着てた儀礼用の神官服がこんな色をしてたな……)
美しい青の神官服に身を包んだアーヴィンを見た日、つまりはローゼが聖剣の主だとアレン大神官に言われた日から、もうすぐ1年になる。
ローゼがそっとため息をつくと、腰の聖剣から声がした。
【どうした?】
自分ではほんの小さなため息のつもりだったのだが、レオンには聞かれていたらしい。
誤魔化そうかどうしようか迷い、ローゼは素直に言うことにした。
「……うん。誕生日を外で迎えたのは初めてだったなって。……聖剣の主になったから、そう簡単に村へ戻れない覚悟はしてたんだけどね」
美しい海を見ながらローゼは「楽しみにしているよ」と言ってくれた声を思い出す。
(年が改まる頃に帰るって言ったけど、帰れなかったな……)
村祭りの後に出発したローゼは、秋と冬の境にあったアーヴィンの誕生日だけでなく、つい先日迎えた自分の誕生日にもグラス村には戻れなかった。
しかし代わりにフェリシアが「わたくしが皆様の分もローゼを祝いますわ!」と言って、神殿に着くなり町中の店で料理を買って来てくれた。
おかげで机の上には料理がたくさん並び、18歳になるローゼの誕生日は思った以上に盛大なものとなったのだ。
「誕生日にはうちの親も色んな料理を作ってくれたけど、種類だけなら今回が一番たくさんあったなあ」
【ふたりしか食べない割にはずいぶんな量だったな】
「そうね」
ふたりともお腹がいっぱいで苦しくなり、うめきながら横になったことを思い出してローゼはくすりと笑った。
「あんなに食べたのは初めてかも」
言って聖剣に視線を向ける。その時、左腕につけた銀色の腕飾りが目に入った。
ローゼは右手を手綱から放し、そっと銀の鎖を握る
「……グラス村ではね。誕生日を迎えた人が神殿に行くと、特別な聖詩を詠ってもらえるの」
【あいつが詠うのか?】
「うん。自分ひとりだけのためにアーヴィンが詩を詠んでくれるわけだからね、女の人には大人気だったなぁ」
聖詩を詠ってもらうのは特に強制ではないから、希望しない人は神殿へ行かないか、行ってもアーヴィンが声をかけて来た時に断れば良い。照れ臭かったローゼも初めのうちは断っていた。
しかし周囲から「もったいない」と言われたので、3年ほど経って思い切って詠ってもらったときは、今まで断っていたことを心の底から後悔した。
「アーヴィンはね、詩を詠う時はいつもより低めの声になるの。だけど周囲に響く、すごく良い声なのよ。……雰囲気だって、さすがは神官だなって思わせる、厳かな感じでね……」
ローゼがうっとりしながら呟くと、思案している調子の声でレオンが問いかけてくる。
【……その詩は長いのか?】
「割と長いよ。聞いてる方はほんの瞬く間のような気がするんだけどね」
初めて詠ってもらった後にせがんで見せてもらった聖詩の文面は、思っていたよりもずっと長くて驚いた。ローゼが思わず「こんなに長いのに、見なくて平気なんてすごいね」と感嘆の声を上げると、微笑んだアーヴィンは「必死に覚えたんだよ」と言っていた。
(今年聞けなかったのは残念だけど……。まあ、しょうがないよね)
改めて自分に言い聞かせながら、それでも少しばかり気落ちしていると、聖剣から明るい声がした。
【よし、決めたぞ。俺は今度村へ戻ったら、その聖詩を覚える】
「覚えてどうするの?」
【もちろんお前の誕生日に詠ってやるんだ】
いったい何を言い出したんだ、とローゼが訝しく思いながら聖剣を見つめると、レオンは朗らかな笑い声をあげる。
【これでお前が旅の途中で誕生日を迎えても大丈夫だぞ。しかも聖剣の俺の方が神官よりずっと神に近くてありがたいし、あいつと違ってお前だけにしか詠わないわけだ!】
「なんで対抗してるのよ」
「ローゼ!」
呼ばれて顔を上げれば、かなり前の方に行ってしまったフェリシアが黒い馬の上から叫ぶ。
「返事が無いと思ったら、そんなところにいましたの? ずっとひとりで喋っていたわたくしが馬鹿みたいですわよ!」
「ごめん、今行く!」
彼女の不満げな声を聞いたローゼは、慌ててセラータを走らせた。
* * *
ローゼが南方に来て3か月ほどになる。
この間はずっと山近くの小さな町や村を巡っていたので、海のある町へくるのは初めてだった。
しかもアデクは今まで南方で見たどの町よりもずっと大きかったので、ローゼはわずかに肩の力を抜く。
町に神殿があって神官がいるのはもちろんだが、この規模の町ならば魔物に対抗するための護衛兵がいるだけでなく、大神殿から神殿騎士も派遣されているだろう。領主が出した兵たちだっているかもしれない。
もちろん魔物が出ればローゼも走るつもりはあるが、自分が背負うものが少なくなるのは少しだけ気が楽だった。おそらくフェリシアも同じ気持ちなのだろう、道中より声が明るい。さらに、海へと着いた彼女は一際弾んだ声を出す。
「ほら、ローゼ、あちらが港ですわ! ……港もご存じですかしら?」
言いながら振り返ったフェリシアは、ローゼの顔を見てようやく満足そうな笑みを浮かべた。
「大きな船ですわよね?」
「……うん、すごい……こんな大きい船を見たのは初めて……」
ローゼは半ば呆然としながら目の前の光景を眺めた。
グラス村から馬で半日ほど行った海辺の村には港があり、船も停泊している。その村はローゼの祖母の出身地で、ローゼは帰省する祖母に連れられて何回か海辺の村へ行ったことがあった。
だから港も知っているし、船を見たこともある。しかし村の港にあったのは漁をするための小さい船ばかりだったのだ。
「アストランの南方はルカジャとの交易が盛んですの。これらは主に荷を運ぶ船ですわよ」
「ルカジャ? 南の国?」
ローゼが尋ねると、フェリシアはうなずいた。
大陸には5つの国がある。
ローゼが住んでいるのは西のアストラン。接しているのは2つの国、北にあるフィデルと中央にあるベリアンド。
ルカジャは南にある国だが、陸路で行くならベリアンドを経由しなくてはならない。
「船でしたら、海を渡って直接ルカジャへ行けますもの。積み荷もたくさん載せられますわ」
「そっか……」
「ほら、ああいった肌の色が濃い方々は、ルカジャからやって来た船乗りや商人たちですの」
フェリシアの話を聞いてローゼは納得する。確かに先ほどから、今まで見たことのない人々がいると思っていた。
いろいろな人がいるということは本に書いてあったため知っていたが、実際に見るとやはり驚く。失礼に当たるだろうと見ないようにはしていたのだが、気を抜くとつい目線を向けてしまっていたのだ。
「南方の領主、トレリオ侯爵の奥方はルカジャからお輿入れされましたのよ。ですから跡継ぎのエクトル様も肌の色が濃くていらっしゃいますの」
「さすがフェリシア、詳しいね」
「だってエクトル様は、わたくしの婚約者候補ですもの」
思わずフェリシアを見返すと、彼女はうふふ、と小さく笑った。
「そんな顔をなさらずともよろしいんですのよ、ローゼ」
「でも……」
「それに候補、ですわ。他家との兼ね合いもありますから、決定ではありませんし、なにより……」
フェリシアは青い空へ紫の瞳を向ける。
「わたくしは神殿騎士になりますのよ。まだあともう少しは見習いなんですもの、早く一人前になりたいですわ!」
「……そうね」
ローゼが18歳になったように、16歳だったフェリシアも17歳になっている。フェリシアが神殿騎士になれるまであと1年だった。
それでも、フェリシアは王女だ。彼女は以前、「母の身分が低いので今は自由にさせてもらっている」と言っていたが、あくまで「今は」にすぎない。王家の血を引いている以上、彼女はいずれ神殿騎士の座を捨ててどこかの家へ嫁ぐことになるのだろう。
「さあ、ローゼ。そろそろ神殿へ参りましょう」
「うん。この近辺の瘴穴や魔物の情報を聞かないとね」
言いながらローゼはフェリシアについて道を進む。
アデクの人々は不安そうではあるものの活気を失っているようには見えない。実際、町へと入る前にざっと周囲を見まわったが、大きな瘴穴は見られなかった。
もちろん異常の影響はあるはずだが、もしかするとこの町は比較的安全なのかもしれない。
いや、安全ならいいなと思いつつ、ローゼはフェリシアと共に町の中で一番白い建物を目指した。




