46.名前
「質問に答えたからもういいでしょ? じゃあ、あたしは帰るから。元気でね」
長々と話をしていてもどうせ何も変わらない。
そもそも別れがつらくなると思ったからこそ、出会わないよう早朝に出たというのに、これでは何の意味もない。
早く解放して欲しいローゼは話を切り上げて馬屋の方へ足を向ける。しかし背後からエリオットが声をかけてきた。
「最近、北方の民の中で話題になっている人物がいるんだが、聞いたことは?」
どうせ次期公爵のフロランだろうと思いながら、ローゼは黙って馬屋へ向かう。
わざと無視していることは十分承知しているのだろう、問いかけた割には返事の有無を気にせず、エリオットは話を続けた。
「民が話題にしている人物は若い娘なんだ」
(若い娘?)
「彼女は、ウォルス教が木に悪影響を及ぼすという前公爵の嘘を気にすることもなく、余所者に厳しいはずの北方で瘴穴を消してくれているそうだ」
ローゼの抱えていた荷物が音を立てて落ちた。
「その娘は精霊が宿った剣を携えているためか、精霊と仲がいい。だからこそ、わざわざ北方に来ているんだろう」
エリオットは、民の間で噂になっている人物の話をしているのではなかったか。
だが、彼の語る内容はまるで自分のことのようだ。
困惑したローゼは振り返る。
しかしエリオットはローゼの様子を気に留めることもなく、淡々と話を続けた。
「つい先日は、公爵家……前公爵ラディエイルに捕らわれていた銀狼を解放したらしい。感謝した銀狼は娘の願いを聞いて、寿命が尽きかけていた大精霊の代わりに木へ宿った」
「……は?」
「精霊の友であり、不思議な力と美しい心を持つ娘は、宝石のような赤い瞳と炎のような赤い髪をしている。民の間では『赤の娘』と呼ばれ、北方の人ではないというのに、ほんの少しずつではあるが英雄視されつつあるそうだ」
ローゼは心の内で「赤の娘」と呟く。
先日街へ出た時、確かに何度も「赤の娘」という声を聞いた。自分のことを言われているようでどきりとしたが、まさか本当に自分のことだとは思わなかった。
唖然としていると、腰の聖剣からうめくような声がする。
【そうか。イリオスに来る前のあれを誰かに見られたんだな】
レオンに言われ、ローゼも思い出す。確か食人鬼と戦った後、イリオスへ来る前に瘴穴を探して消したことがあった。
「だって北方では、あの1回しか消してないのに……それに一体誰が? あたしの目の色も分かるなんて、よっぽど近くで見た人じゃないと……」
混乱するローゼの頭によぎったのは、北方神殿で会った案内の女性だ。
彼女はレオンや、銀狼のことも分かっている気がした。おまけにローゼのことも間近で見ている。もしも偶然彼女が瘴穴を消すところまで見ていたとしたらどうだろうか。
さらに噂を知った公爵家の姉弟たちが、人心の掌握や今後行う政の下地作りとして利用するために、内容をいじった上で広めたという可能性はないか。
(……まさかね)
ローゼが思いをめぐらせているうち、立ち去ろうとした分の距離を詰めて、エリオットが近くまで来る。
「さて、そんな赤の娘にお尋ねしたい」
「……その名前、格好悪いからやめて」
ローゼが眉をよせて言うと、エリオットはわずかに微笑む。
優雅な所作で礼をすると、頭を下げたままで恭しく述べた。
「このまま城に残り、私と共にシャルトス家の繁栄に手を貸してはいただけませんか?」
「……残らないわ。あたしは城でなんて暮らせないもの」
どこへ行くにも護衛がついてくる暮らしや、堅苦しい作法だらけの日常、他人に洗濯物を洗われることなども、ローゼにとってはお断りだった。
きっぱり言い切るローゼの声を聞き、エリオットは頭を上げる。彼の顔には、答えは分かっていた、と言いたげな笑みが浮かんでいた。
「ということですよ。姉上、フロラン」
振り返ったエリオットが呼びかけると、リュシーとフロランが護衛とともに姿を見せる。
ふたりともいたのか、とローゼは目を丸くした。
現れた姉弟のうち、先に口を開いたのはフロランだ。つまらなそうな顔をした彼は、表情通りのつまらなそうな声を出す。
「ちぇ。兄上が誘っても駄目か」
「言ったでしょう。私が誘う程度では残りませんよ」
「それは誰が誘っても無駄ってことだよね。……あーあ。兄上の判断は全部正しかったってことかぁ」
フロランが合図をすると、護衛のひとりが荷物をエリオットの近くに置く。
「残念だけど約束は守るよ。……公爵家の今後は任された」
片手をあげたフロランはローゼとエリオットに緑の瞳を向け、返事も待たずに城へ戻って行った。
次に、リュシーがローゼの近くまで歩み寄る。
横へ移動したエリオットが場所を譲ると、リュシーは彼に笑みを向けた後、美しい所作でローゼへ礼をした。
「ありがとう、ローゼ。おかげでこの家は祖父が考えていたよりも、ずっと良い形で残ったわ」
それでもリュシーの笑みはどこか寂しげだった。
「後は私たちがうまく繋いでいかなくてはね。……でも、あんな悲しいことはもう起こさない」
彼女はまるで、神か精霊を前にしたかのような表情で誓うように言うと、ローゼの手を取る。
「近くまで来たら、必ず城へも寄ってね」
「あのっ」
「約束よ?」
笑みは柔らかいのに、雰囲気は有無を言わせぬものだった。ローゼが思わず黙ると、リュシーは小さな袋を取り出して渡してくれる。受け取ったローゼに一礼をすると、彼女は再度エリオットに顔を向けた。
彼がうなずくと、リュシーもまた微笑んでうなずく。そのまま城の方へ歩き出し、振り返ることはなかった。
姉と弟の姿を見送りながらひとり残っていた青年は、やがてローゼへと向き直る。
彼は晴れやかな笑みを浮かべていた。
「それじゃあ行こうか」
「行く? どこへ?」
「まずは大神殿だろうね」
彼の言葉を聞き、ローゼは思わず息をのむ。
「……大神殿に?」
「ハイドルフ大神官様にお礼とお詫びを申し上げる必要があるだろう?」
「……じゃあ、その後は……?」
恐る恐るローゼが問いかけると、彼は小さく息を吐いた。
「もちろんグラス村だ。セルザム神官にも本当に申し訳ないことをしてしまったからね、お叱りを受ける覚悟はできてるよ」
「神官様に会ったら、次はどうするの?」
「どうする?」
リュシーから渡された袋を持ったまま、ローゼは胸の前で手を握り合わせる。
尋ねられた青年はローゼに近づき、答えた。
「そうだな。大神殿から何か言われるまでは、グラス村にいるだろうね」
「グラス村に? ……でも、銀狼の息子なんだから、その……」
小さな声でローゼが言うと、レオンが会話に割って入る。
【なあ、ローゼ。狼のやつがあのときなんて言ったか、覚えてないのか?】
ローゼは首をかしげる。
あのときというのは、銀狼がエリオットに力を与えたときのことだろうか。
同時に銀狼が彼にしたことを思い出して赤面する。それでもなんとか記憶を探るうち、笑いながらレオンに言う自分の声を思い出した。
『儂の息子とお前の娘が結ばれるというのも、面白いと思わんか?』
まさか、と思いながら彼と聖剣を交互に見ると、さらさらと褐色の髪を風に揺らして銀狼の息子が微笑む。
「昨日、銀狼のところへ伺ったらね。『儂と娘で悩むのなら娘を取れ、その方が面白い』と言われたよ」
面白い、と内心でローゼは繰り返した。
「……そんなことで決めちゃっていいの?」
【銀狼自身がいいというんだからいいんだろう。元々俺は銀狼と深く関わってる。俺の娘であるお前だって同じことだ。しかも俺もこいつも銀狼の毛を持ってるだろ。……あいつとの縁は簡単に切れるもんじゃない】
「そんな……じゃあ……」
【だから俺の話を聞けと言ったのに、まったくお前ときたら……】
レオンの声はそこで途絶え、辺りはさわさわと風が葉を揺らす音だけが響く。
ローゼが彼を見上げると、見返す灰青の瞳は優しく穏やかだった。
グラス村にいる、という言葉。
つまり彼は、銀狼ではない方を取ろうと言うのか。
いや、とローゼは首を振る。そんなことあるはずがない。
北の公爵家に必要な『銀狼の息子』と、西で暮らす一介の神官。どちらの立場が重要かなど、誰にでも分かることではないか。ローゼが望んだ通りにはならない。
なのになぜ、彼はまだこの場にいるのだろう。そしてこの荷物はなんだろう。まるで旅に出るための荷物のようにも見える。
いや。これはきっと何でもない荷物だ。おそらく城で使う品だろう。
希望が見えるたび、ローゼは否定を続ける。
期待してしまえば落胆したときにつらい。分かりきったことを聞く必要はない。
しかし早くこの場を立ち去ってしまいたいのに、どうしても足は動かなかった。
困ったローゼは泣きそうな気分で目の前にいる彼を見上げる。無言で「この状況を何とかして」と訴えた。もちろん彼はローゼの気持ちを分かってくれているはずだ。村にいたときだって、ずっとそうだった。
なのに、目の前に立つ青年は何も言わず、ただ黙ってローゼを見つめている。
ローゼは、うつむいて唇を噛んだ。
彼は助けが必要な場合は手を差し伸べてくれるが、助けてくれないことだってある。そして今見た灰青の瞳は『助けない』と告げていた。
(立ち去ってもいい。問いかけてもいい。とにかく、ここで動くのはあたしでなくちゃいけないのね……)
うつむいたまま、ローゼは考える。
(あたしはどうしたい? ……そうよね。帰ろうと思ってたんだから、このまま黙って帰っちゃえばいいのよ。……でも、これだけ色々な話をしてもらったのに、本当にそれでいいの、あたし?)
状況から考えれば答えは明白な気がした。その分だけ余計に、望まぬ答えだったときが怖くて動けない。自分がこんなにも臆病だとは思わなかった、とローゼは苦い気持ちになった。
何度も自分に問いかけ、ようやくローゼは心を決める。顔を上げて唇を開いたが、しかし今度は、どうしても言葉が出てこない。
グラス村の草原で初めてアレン大神官の一団に対峙したときも、儀式の時に人前に出たときも、公爵と話をする前でさえ、今よりもずっと言葉を出しやすかったように思う。
それでもわななく唇を必死に動かして、じっと言葉を待っていた彼になんとか問いかけた。
「……あなたの名前を、教えて」
出した声はひどく震えた上、囁くように小さい。葉擦れの音の方が大きく、彼の耳には届かないように思えた。
だが彼は微笑み、ローゼの問いに答える。
「私の名前はアーヴィン・レスターだよ、ローゼ」
ローゼの視界が滲んだ。
「……アーヴィン? ……本当に……?」
「もちろん」
強く返す声を聞いて、ローゼはアーヴィンの胸に飛び込む。
アーヴィンの腕がローゼの背にまわされた。
――本当に銀狼を選ばなくて良いのだろうか。
――北の地は大丈夫なのだろうか。
――今後エリオットが必要になったときはどうするのだろうか。
そんな質問が頭をかすめるが、今はすべて考えたくなかった。
「ローゼ」
聞こえてくるアーヴィンの声は、ほんのわずかに震えている。
「来てくれてありがとう」
「……うん」
「諦めずにいてくれてありがとう」
「……うんっ」
背中から外されたアーヴィンの手がローゼの頬をそっと包み、顔を上向かせる。
「好きだと言ってくれてありがとう。……私もローゼのことが好きだよ」
彼が囁き、唇を重ねる。
流れる涙を感じながら、ローゼはアーヴィンの首に腕を回した。




