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明治あやかし怪綺譚  作者: 甘露寺ちどり
味噌を食べたい僧の事
30/33

 福の神が去った後の座敷は、それはもう酷いものだった。

 小鉢や徳利が転がり、どこから手を付ければ良いのか分からない惨状である。

 けれど、嫌な気持ちはなかった。


「明日だ、明日。もう全部明日」


 片付けをしようと言い出す者はなく、主である桐彦の決定に蛤も日向子もほっと息をついたのであった。

 広縁に出る。火照った頬に夜風が心地良い。


「野狐さんのお知り合いだったんですね」

「ああ」

「ご存知だったんですか?」

「野狐から聞いた話で、面識はなかったがな。あれは、ずっと会いたがっていた」

「もしかして、野狐さんが出掛けていたのは――……」

「探しに行っていたんだろうな。言わないが」


 桐彦も、何も言わなかったのだろう。分かっていたからこそ。


「野狐さんの帰り、間に合って良かったですね」


 もしあと一歩遅かったら、顔を合わせることは叶わなかったかもしれないのだ。

 同意があるものだとばかり思っていたのだが、返ってきたのは意外な反応だった。


「間に合うよう急かしたからな」

「急かしたんですか?」

「ああ」

「もしかして――」


 貧乏神が来てすぐに書いていた文は、野狐に宛てたものだったのだろうか。

 答えが出るまでここに留まるよう言ったのも、何もしなかったのも。


「足止めをしていたんですか……?」

「そんなところだ」

「じ――じゃあ、初めから気付いていたんですか? もう、貧乏神じゃないって」

「確信をしたのは、相談を聞いてからだな」


 それでは、日向子をけしかけた時は既に分かっていたのだ。

 しかし、ならば――火の車だった台所は。


「お米がなくなったのは」

「俺が頼むのを忘れていただけだ。せっかくだから、美味い米が良いだろう」


 奮発したから、しばらくは美味い飯が食べられる、と笑う。


「だ――だったら、どうして止めてくれなかったんですか?」


 止めてくれれば、迷惑をかけることもなく時間もかからずに解決できたというのに。


「手伝うんだろう? ここを」

「はい」

「だったら、できることからするのが一番だ」

「でも……」


 結局、桐彦や野狐が解決した。

 日向子はといえば、逆にややこしくしただけである。


「転んで学ぶこともあるんだ。爺ィも、好きにさせてくれたからな。本当に味噌を食わせるとは思わなかったが」


 何だかんだ、日向子のことを考えてくれていたのか。

 言葉は少々足りないけれど。


「黒瀬さんが幾つくらいの時ですか?」

「十になるかならないか」

「子供扱いしないでください!」


 膨れる日向子の横で、桐彦は笑った。

 一人であれこれ悩む姿は、桐彦にどんな風に見えたのだろう。


「勉強になったろう?」


 文句を言いたかったけれど、笑いながらそんなことを言われては頷くしかない。

 事実なのだから。


「……はい」


 こうして桐彦と二人で過ごすのはめったにない。

 野狐に邪魔されることも、相談客が来ることもないのだ。

 これは、好機ではないだろうか。

 あの日、ミツに蒔かれた不安の種を取り除く。

 場合によっては、芽が出て育ってしまうかもしれないけれど。


「黒瀬さんが出掛けていた日、ミツさんが来ていました」


 桐彦は見るからにうんざりとした表情を浮かべた。


「どうせ、痴話喧嘩の話だろう」

「恐らく」

「留守にしていて良かった」


 笑って、そこで会話が途切れた。

 本題はそれではない。息を吸い込み、思い切って切り出す。


「あの、黒瀬さん」

「どうした」

「あの日……どこに行かれていたんですか?」

「あの日?」

「私が、貧乏神を家に入れてしまった日です」


 返事があるまでの間がやけに長く思えた。

 何が返ってきても良いように構えていたのだが、桐彦は何でもないことのように答える。


「ああ。爺ィの月命日だからな。お参りに行っていた」


 なんだ、と一気に力が抜けた。

 墓参りに行っていたのか。

 勝手に悪い方向に考えて馬鹿馬鹿しい。

 つい、口元が緩んでしまう。


「どうした?」

「今度、お祖父さまのお墓に参られる時、私もご一緒して良いですか?」

「急に、どうした」

「お礼を言いたいんです」

「礼?」

「黒瀬さんがこの相談屋を継いでいなかったら、私はここに居ませんでしたから」

「好きにしろ。きっと、爺ィも喜ぶ」


 そう言って、桐彦は笑った。

 そして、まだ一息。

 この静かなひとときも、福の神のお陰だろうか。

 桐彦と居る時の沈黙は嫌いではなかった。

 何か喋らないと、と焦ることもない。

 今度は桐彦が口を開いた。


「済まなかった」


 何の前触れも、説明もない謝罪に首を傾げる。


「もっと優しく言えと蛤に怒られた」

「それは、私が――」

「謝るな」

「でも」

「謝りすぎだ」

「すみ――」

「ほら」


 謝りかけて、ぐっと言葉を飲み込む。


「謝罪は挨拶じゃないんだ。簡単に謝るな」

「……はい」

「顔を合わせる度に謝られて、いい気にはならなかったろう?」


 そうか。

 桐彦も同じなのだ。

 日向子が貧乏神に対して苛々を感じたように。

 気持はよく分かる。

 よく分かるが――しかし、できるだろうか。

 不安を抱く日向子に、桐彦はひとつの提案をした。


「こうしよう。これから十日。謝らなかったら、頼みをひとつ聞く」


 頼みを、ひとつ。


「どんなことです?」

「何だって良い。俺にできることに限るが」


 なんでもひとつ。桐彦に頼めるのか。


「ただし。意味もなく謝ったら、一日あやかしたちの相談を聞いてもらう」

「そんな、無理です!」

「簡単だろう、謝らなければ良いんだ」


 だが、言うは易く行うは難し。それに、日向子だって意味もなく謝るばかりではない。


「……でも、私が悪いことだってあるはずです」

「そりゃあ、あるだろうさ」

「でしたら」

「それでも、そんなことは十件問題があるうちの一、二件だろう。たまには、謝れと怒られてみるのも良い」


 そんなに少ないとは思えないが、挨拶のように謝っているのも事実だから何も言えない。


「でしたら、黒瀬さんは?」

「俺か?」

「私だけ罰を受けるのは、その……ずるい、です」

「それもそうか」


 何が良いかと考えているようだった。

 何かを言い出される前に、すかさず提案する。


「名前で呼ぶ、というのはどうでしょう」

「名前?」


 そっくりそのまま聞き返され、深く頷く。


「黒瀬さん、あんたって呼ばなくなった代わりに名前も呼ばなくなりましたよね」

「……気付いていたのか」


 苦い薬を無理やり飲まされたような顔で、声を絞り出した。


「当たり前です」

「名前を呼んだら、あんたが――」

「ほら、今。黒瀬さん、あんたって」


 桐彦が、しまったと口を押さえた時はもう遅い。


「……日向子が、顔を真っ赤にするからだろう。呼ぶ度にあれじゃあ、疲れる」

「もう、照れません。慣れです」


 今でも、嬉しくて照れ臭くてたまらなかったけれど、そしてきっと顔は真っ赤になっているだろうけれど。

 何もない風を装う。


「それで、俺は何をしたら良いんだ? 思い付かないか」


 もう決まっている。

 ただ、桐彦に何と思われるかが不安なだけで。

 日向子が何か言いたそうにしているのは伝わっているようだった。


「何でも良い。言ってみろ」

「……はしたない、と言わないで下さいね」

「はしたないようなことなのか」

「ですから、そんなことは言わないで下さい」

「分かったから、言ってみろ」


 口の端に笑みを浮かべて、さあ言えと促される。


「花火を見に行きたいです。……黒瀬さんと、一緒に」

「花火?」

「はい」

「隅田川の他にか」

「その花火を」

「行くと言ったろう」

「花火が上がると教えて頂いただけです」


 己の発言を思い出すように、桐彦の視線は辺りを彷徨う。

 しばらくして思い出したようだった。


「あれは、行こうと言う意味で――」

「そう言って頂かないと分かりません」

「面倒なやつだなあ――」

「……それは、お互い様です」


 物事を一しか言わない桐彦と、十言われないと分からない日向子。

 どちらもどちらで面倒くさい。


「それもそうだな」


 そう言って、お互いに顔を見合わせて笑ったのだった。



   了

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