【第三部】 開始 五章 絡む線と浮かぶ点 1
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壮行会の翌日、原沢廉也は、久しぶりに自宅に帰った。
スポーツ特待生である彼は、通常は学園の合宿所で生活し、週に何回か、独立行政法人のトレーニングセンターで指導を受けている。
昨夜はサプリメントを齧りながら、好みの女と何回もコトに及んだ。おかげでイラつきはだいぶましになった。
玄関を開けると、古ぼけたスパイクが一足目についた。
兄のものだ。
もう、使うこともないだろうに。
二階からギシギシと、車椅子が動く音がした。
母は多分不在だが、兄はいるのだろう。
ここ一年、いや、もっとか。原沢は兄の姿を見ていない。
見たくなかったのだ。
原沢は自室に入った。
明日からの遠征にそなえて、私物をいくつか持っていくつもりだ。
本棚の隅に、木製の写真立てがある。
幼い自分と、兄が並んで映っていた。
原沢は、何気なくその写真を見つめた。
その時。
家のチャイムが鳴った。
原沢は玄関に行き、室内のモニターからドアの外を見た。
「誰?」
「JADAの検査員です」
JADA?
日本アンチドーピング機構か!
「何の用?」
「原沢廉也さんですか? 本日、原沢さんのドーピング検査に参りました」
十八歳未満なら、ドーピング検査は行われないとか、以前コーチが言っていたはず。
原沢は玄関を開け、ぶっきらぼうに言った。
「俺まだ、十六歳だけど」
「はい、存じております。ですが、原沢さんは、来る世界陸上に向けて、参加申込書とともに、必要時、ドーピング検査を受ける同意書を提出されてますので」
「でも、今俺一人だし、親もいないので受けないよ。大会の会場行ったら、コーチと一緒に受けるから」
検査員は困った顔をした。
抜き打ち検査の拒否は、基本、認められないのだが。
「もういいよね」
原沢がJADAの検査員を締め出そうとしたその時、階段の上から声がした。
「わ た し が 立 ち あ い ま す」
原沢の兄、駿矢が車椅子で玄関までやってきた。
原沢は驚いた。
兄が、喋っている。
涎を垂らすことなく、目に昔と同じ光が宿っている。
たどたどしい話し方だが、声はしっかりと出ていた。
「にいちゃん、どうして…」
その驚きが大きかったのか、凛とした兄の姿に気おされたのか、原沢は検査に応じた。
検査員が帰ると、兄もまた二階へ戻った。
戻る前に、兄は原沢に言った。
「ス ポ ー ツ の 価 値 は、フ ェ ア 」
検査の翌日、原沢は、危険薬物乱用の疑いで逮捕された。




