【第三部】 開始 四章 天翔る日 3
3
海馬とは、大脳辺縁系の一部で、記憶や空間把握の能力に関わる器官である。
1957年、ScovilleとMilnerの報告によると、治療の目的で海馬を取り除く手術を受けた患者は、記憶能力を失くしてしまったという。
さらに、海馬の傷害は、思考の脱線や凶暴性の発現、過剰な性欲上昇にも関わる。
また、海馬は心身のストレスや薬物で、損傷を受けやすい繊細な部位でもある。
「俺は嫌だ! お前にそんな危険をおかして欲しくない!」
悠斗の語調は強い。
「大丈夫だよ。脳の損傷出さないようにするから」
そう言う恭介の肩に、悠斗は頭を預けた。
「…頼む。 もう…二度と、不安にさせないでくれ」
「うん…だから、悠斗に見届けて欲しい」
「えっ?」
「俺がオーキッドを服用するのは五日間。そのあいだ、俺が自分を見失わないように、悠斗には側にいて欲しい」
恭介の決意は固い。それは悠斗にも分かっていた。
分かっていたからこそ、反対した。ささやかな我儘。
「わかったよ。…ったく、お前がおかしくなったら、マジで殴る」
「ああ、頼む」
牧江や戸賀崎の醜聞で、騒がしかった学園だが、ひと月もたてば人々の関心も薄らぐ。
ようやく普通の高校生活を送れるようになった恭介たちは、無事に学期末試験も終わった。
その日、校内では、高校総体や夏の文科系コンクールに出場する生徒らの壮行会が行われた。
学園の理事長、すなわち、藤影創介も壮行会に出席し、激励の言葉を生徒らにかけていた。
体育館の壇上に立つ、創介の姿を、恭介も久しぶりに見た。
記憶のなかの姿と、あまり変わっていないようでもあり、少々老けたようでもあった。
壮行会の生徒の代表は、原沢だった。
原沢は、総体はもちろん、世界陸上の日本代表候補である。
壇上で、創介と原沢が握手すると盛大な拍手が上がった。
先頭に立ち、拍手している侑太の顔は、春先よりも黒ずんでいた。
壮行会後、侑太と原沢は生徒会室にいた。
戸賀崎の件があって以来、二人ともネタになりそうな行動は控えていた。控えるように、仙波から指示されていた。
「くそっ! 結局、外部生をシメようと思ってたけど、できなかったな」
原沢がサプリをかみ砕いた。
「戸賀崎のバカ、余分な置き土産しやがった」
ほら、と言って侑太は、原沢に新しいサプリの瓶を投げた。
「しばらくは、無茶できないな。お前も大会控えているし」
「走りだす前に、一発、抜いときてえ」
侑太はニヤリと笑う。
「そういうと思ったから、用意してあるぜ。明日から休みだしな」
その休みを使って、恭介は自身の実験を行う。
悠斗と二人、ホームで電車を待っていた。
行先は秩父山系。
小さなペンションを予約していた。




