【第三部】 開始 一章 最初の門 2
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それは遠い日の記憶。
狩野学園小学部に入学して間もない頃、初めての遠足があった。
恭介の母が早起きして、自らお弁当を詰め、水筒に麦茶を持たせてくれた。
屋外で、昼食の時間となった時、恭介の弁当は、侑太によって地面に投げ捨てられ、水筒も蓋を開けて、逆さにされた。
当時から、恭介は侑太の嫌がらせを受けていたが、こんな時、泣いたり怒ったりすると、さらに追撃されることを知っていたので諦めた。諦めたが、いつもより辛かった。
仕方なく弁当箱を拾って水飲み場で洗い、顔も洗った。
水筒に水道水を入れていると、誰かに声をかけられた。
「よおっ、一緒に食べようぜ」
小沼悠斗という少年だった。
悠斗はコンビニの弁当といくつかの駄菓子、そして缶ジュースを数本持って来ていた。
そのうちの一本を恭介にくれた。
恭介はまだ、自分でコンビニに入ったことがなく、市販のジュースやお菓子は口にしたこともなかった。
「あ、ありがとう!」
ポケットから携帯用のティッシュを取り出し、プルトップの部分を拭いた。
「え、何、藤影くんて、もしかして良いトコの坊ちゃん?」
恭介は部屋の窓を開け、ベランダに出た。
見上げた空の雲の隙間に、猫の爪のような月。
占いで今日の月は「再生」という意味だったか。
恭介はメガネをはずし、少し前髪をかき上げた。
恭介が振り向くと、立ち上がった悠斗がその顔を凝視した。
口を少し開いて、何かを言いかける悠斗に、恭介は胸元に下げているチェーンを引っ張り出す。
チェーンの先についていた石は、淡い月の光を受けて、橙色を放った。
それはまぎれもなく、悠斗が恭介に渡したプレシャスオパール。
「ごめん、加工したから、形が少し変わった」
言葉にならない叫びをあげ、悠斗は恭介の肩を抱きしめた。
同時刻。
侑太は自分の部屋から、養母、亜由美の部屋へと向かっていた。
小さい頃から、侑太は亜由美に憧れていた。
侑太の実母も美人と言われていたが、亜由美には太刀打ちできない。
しかも、元気な頃の亜由美は、料理上手で綺麗好き、おっとりとして優しい女性であったが、侑太の実母は家事も育児も放棄して、夜な夜な遊びまわる女だった。
遠足や運動会で、弁当を持参しなければならない日は、侑太はいつも苛ついた。
苛ついたから、よく恭介に嫌がらせをした。
そんな時、何も言わず俯く恭介の横顔は、亜由美にそっくりだった。
ガキの時分、侑太にとって亜由美は、単なる憧れの存在だったが、今は手を伸ばせば届く距離にいる女性の一人だ。父の妻であっても、自分と血の繋がりはない。
今夜、その父は商談のため海外にいる。
父が愛した女であり、恭介の産みの母である亜由美を組み敷く想像は、侑太をえらく昂らせた。
もし恭介が生きていたら、亜由美との絡みを見せつけてやりたい。
奴は、どんな顔をするのだろう。
侑太が亜由美の部屋のドアノブに手をかけようとした時、背後から肩を叩かれた。
「奥様の部屋への出入りは、二段階認証を要求されますよ」
「ああ、仙波か。びっくりさせるなよ。とうさんが不在だから、挨拶に来ただけだし」
冷静さを装いながらも、焦って自室へ戻る侑太を見送り、仙波は唇を歪めるような笑みを浮かべた。
「少し効きすぎているかな、アレは」




