【第六部】暁光 一章 残務 5
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夕刻。
ソファーに突っ伏したまま眠った恭介は、はっとして顔を上げた。
机上の時計は五時を指していたが、夕方なのか早朝なのか、一瞬分からなかった。
起き上がろうとすると、体のあちこちに痛みを感じた。
前腕も下肢も、痣だらけである。
恭介が、自分で刺した胸の傷は塞がってはいたが、火傷のような赤い跡が残っていた。
あと一センチ左にずれていたら、間違いなく致命傷。
よく、生き残れたものだ。
ドアが開き、悠斗が入って来る。
買い物袋をぶら下げていた。
「起きたか、キョウ」
悠斗は安堵の声を吐く。
「俺、寝てたか」
「ああ、ぐっすりな。動かないから、心配したぞ」
ほら、と言って悠斗は恭介にメール便を手渡す。
差出人の欄を見た恭介の視線が翳る。
仙波の名がそこにあった。
悠斗が夕食の準備をしている間、恭介はメール便の封を切る。
正直、気は進まなかった。
直接、仙波に止めを刺したわけではない。
だが、肉体から魂が抜けだす瞬間を、目の当たりにしたことは、きっと忘れられないだろう。
紅い夕空の景色と共に。
メール便には、何かの書類と英語の論文、それに直筆の手紙が添えてあった。
『この手紙を読んでいるということは、私の魂は黄泉に帰っていったのだろう。
ありがとう。藤影恭介』
やはりそうだったか。
恭介は、仙波との闘いを通じて、おぼろげに感じていたのだ。
仙波は
恭介に負けたかったのではないか。
いや、正確に言えば
死にたかったのではないか。
『私は家庭に恵まれていたとは言えない。
自己肯定感は限りなく低い。
そんな人間は、うかつに権力や超人的な力を、持ってはいけない。
なぜなら、自己を肯定するために、周囲を平伏させようとするからだ。
不幸である。
周囲にも。
自身にも、だ。
トランスジェンダーを抱え、愛情欠損だった私は、妹の千波を失い、愛した亜由美も奪われ、その理不尽さに怒りを覚えた。
怒りの捌け口の対象が、藤影創介だった。
だが、藤影創介の部下になり、藤影の家で過ごす時間が増え、私の感情はさらに縺れた。
亜由美の側にいられることは、それだけで幸せだった。
そして、創介の企業人としての努力と能力を知るにつれ、私のなかに不可思議な想いが芽生えた。
この男には、勝てない。
千波や亜由美の恋情が、私にも伝わってきた。
ひらたく言えば
私は創介を愛した。
皮肉なものだ。
生まれつきの性別を、無理やり変えるような禁呪に手を出した結果が、これである。
身近に同族の新堂香弥子がいなければ、おそらく復讐心など、忘れたことであろう。
さらに言えば、創介と亜由美の遺伝を良いとこ取りしたような、恭介、君がいなければ、五年前の海難事故を企てることはなかった。
それを煽ったのは、間違いなく香弥子である。
香弥子は私にも、創介にも囁き続けた。
恭介は、創介の実の息子ではないのだと』
難しい顔をして、仙波の手紙を読む恭介に、悠斗が声をかける。
「メシ、できたぞ」
「ああ、うん」
浮かない顔の恭介を見て、悠斗は訊く。
「何? なんかヤバイことでも書いてあった?」
「読む?」
「いや、キョウ宛の親書だろうから、やめとく」
「そっか。なあ、悠斗」
「うん?」
「大人って、面倒くさい生き物だな」
それには答えず、悠斗は食事を続けた。
大人に限らず、面倒な人間は多いぞと、敢えて恭介に言う気にはならなかった。




