【第五部】縁 四章 残照 2
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大気の匂いは現世を告げた。
恭介は、ごぼごぼと水を吐く。
吐いた瞬間に恭介は悟る。
地底の異世界へ、再び潜ったのだ。
そして、戻ってきたのだと。
しかし
此処はどこだ。
屋根はない。
屋外か。
放水路の貯水槽に戻ったわけではなさそうだ。
立ち上がって見渡すと、レンガ色のアスファルトに沿って、ちろちろと流れる用水路。
用水路は途中で、Yの文字のように分岐している。
小さな丸太が分岐点を囲み、木製の看板が立っていた。
スマホで位置情報を確かめると、北緯三十六度十二分、東経百三十九度三十九分。
ここは、群馬、栃木、埼玉の三県にまたがる、県境であった。
陽が傾き始めている。
時折、北関東特有の乾いた風が吹く。
耳障りな蚊の羽音は風に負けずに聞こえている。
「もともと、国の境目は神聖な場所だった。悪しき存在を防ぐ、道祖神が置かれるほどに」
いつの間にか、仙波が三県の県境の真ん中にいた。
恭介は体勢を整え、攻撃に備える。
「それがどうだ。境目をこのように、無防備な場所に変え、神仏の影も形もない。
平野部は、日本の中心まで続いている。風も吹く。
私の蟲を飛ばすのに、こんなに都合の良い場所はないだろう」
仙波は両手を広げる。
その途端、一斉に飛び立つ新たな蟲の一群。
風に乗って薄っすら流れてくる、鉄の匂い。
仙波の蟲たちは
仙波の血液を?
「私の動きと目的は、把握されていたらしい。
小賢しいことに、群馬、栃木、埼玉に、術者を配置したようだ。
だが、もう遅い。
私の呪いは全世界に散った」
仙波は、傾いていく陽を浴びてなお、紙のような顔色だった。
なぜか今、恭介から、積極的に攻撃を仕掛ける気になれない。
ところどころで知った、仙波の過去のなせる業なのかもしれない。
「君たち、緊急事態中です。自宅に帰りなさい」
サイレンを鳴らさず巡回しているパトカーから、降りてきた二人の巡査が呼びかけてくる。
巡査に向かって仙波は笑う。
「はい、承知しております」
仙波は返事と同時に、右手を真横に払う。
一人の巡査の首が消えた。
頭部を失った体躯は倒れ、県境の水路を血で染めた。
もう一人の巡査は、目前の出来事に身体が反応できず、慌ててパトカーへ戻ろうとする。
仙波は背後から左手を巡査の胸部に差し込む。
骨の軋む音と断末魔の叫び。
恭介は仙波の殺戮に為すすべがなかった。
仙波の攻撃はあまりに鋭く速い。
まるで
攻撃性の高い、昆虫の一撃だ。
「さあやろうか、恭介」
仙波の血まみれの両手は、西日を受けて炎のように揺れる。
ぽたぽた滴る血に群がる、蠢く無数の影。
「私を倒さない限り、人々は襲われていく。命を落とす。
私の蟲たちによって、な。
勿論、私自身によってもだ」
仙波が、恭介のことを呼び捨てにしたのは初めてだ。
闘うに値する一人の男として、認識されたことを喜ぶ余裕は、恭介にはない。




