【第五部】縁 三章 時間の交錯 7
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恭介が放水路の建物に入ってからも、悠斗は除虫剤を撒き続けた。
しかし、蟲は減らない。
それどころか、新たに建物の内部から、次々と黒い塊が湧き出て来る。
気を許すと、除虫剤のボトルの表面は炭の粉をまいたような蟲たちのアートが広がる。
悠斗の全身も、至る所、蟲が貼りついていた。
これで顔全体を覆われたら、呼吸も出来なくなるであろう。
計画を立てた時、命の危険を感じたら、先に逃げろと恭介は言った。
逃げられるわけないだろ!
恭介一人、置き去りにして。
いっそ、二輪に火でも点けるか。
いや、脱出用の足がなくなる。
逡巡しながら撒いていたら、除虫剤が一つ、空になった。
残りはあと一本。
むず痒さに気付き手を見ると、悠斗のライダー用の手袋の隙間に、入り込もうとしている蟲がいた。
手袋の指先には、砂鉄の如くぶら下がる蟲の行列。
この上なく気色悪い。
「ぎゃあああ!」
堤防の下から叫ぶ声。
人の形に添うように、黒い塊が蠢いていた。
早朝、農作業にでも来ていた人か。
あわてて悠斗は駆け下りて、除虫剤を散布する。
大量の蚊が人体から離れた。
蟲に取り囲まれていた人は、高齢の男性。
意識を失くしていた。
目鼻も分からぬほどの、虫刺痕。
虫刺による、ショック症状を起こしている。
さすがに悠斗はぞっとした。
一旦離れた蟲たちが、悠斗に狙いを定め、飛んで来る。
除虫剤がどこまで持つか。
耳障りな羽音が迫る。
その時。
悠斗と倒れた男性の頭上、真っ白な布がドームを作る。
何だ!?
悠斗は布に手を伸ばす。
すると
それは布ではなかった。
たくさんの細い糸が織りなす、円形の囲い。
蟲たちは、糸に絡まり、動けなくなる。
近付いて来る、軽い足音。
「間に合った!」
息を切らしながら、円形ドームの中に、一人の女性が入って来た。
そのまま手際よく、倒れた男性に、アドレナリンの注射を打つ。
「瑠香さん!」
「蜘蛛の糸を張った。少しだけなら防げるわ」
瑠香が家族と共に過ごした土地で、瑠香の父は節足動物の支配を試みた。
父自身は、成果を得ることは出来なかった。
だが、娘は、その才能に恵まれていた。
瑠香は蠍だけでなく、かの地で、蜘蛛の使役も可能になっていた。
「瑠香さん、よくここが分かりましたね」
顔に貼りつく蚊を払いながら、悠斗は訊く。
「拘束されてた時に、ちらっと、ね」
悠斗は、仙波と恭介が放水路の建物に入ったきり、出て来ないことを伝えた。
「そう。じゃあ仙波は恭介に任せるしかないわね」
瑠香は息を整えて、悠斗に言った。
「この蜘蛛の巣は、そう長くは持たない。防御は出来ても、攻撃力がたりないから。
だから、なんとか時間を稼ぐ」
あとから、攻撃部隊でも来るのだろうか。
「そう。来るわ。蚊の、蟲たちの天敵が」




