【第五部】縁 二章 突き抜けたその先 8
8
会場となったホールには、講話を邪魔しない程度の音量で、音楽が流れていた。
ピアノのメロディである。
どこかで聞いたことのある旋律だと創介は思う。
創介が経営者の会合に参加するようになった頃、トップ企業の社長たちは皆、芸術への造詣が深いことに気付いた。
クラシックの楽曲一つとっても、どこの交響楽団の、誰の指揮が素晴らしい、などといった会話がそこここで交わされている。
それは当時の創介に、縁がない分野だった。
母と弟と生活していた時には、生活に余裕がなく、藤影の家に引き取られて以降は、学業以外への興味を持つことは叶わなかった。
創介は時間を見つけては、クラシックのコンサートに通い、美術展へと足を運んだ。
先輩格の経営者に誘われて、オペラを観るようにもなった。
今流れている曲は、確か、何かのオペラで使われていた。
息子が生まれると、妻は幼少期より、当たり前のようにピアノや絵画を習わせた。
正直、息子が羨ましかった。
息子は、資質にも恵まれていたからだ。
今更
振り返っても無駄な思い出である。
「私が目にした神秘とは、ウミガメの産卵でした。
私が砂浜で座り込んでいた数歩先で、ウミガメは卵を産み始めたのです。
ああ、このカメさんも母なのだと、私はそれを見続けました。
生み出された卵を狙って、敵もやってきます。
命を紡いでいくことは、親の世代も命をかけるもの。
砂浜に黒い影が忍び寄りました。
猫と同じくらいの大きさの動物。
それは、イタチでした。
イタチはカメの背後から、生みたての卵に歯を剝きます。
危ない!
思わず出した私の手を、イタチの爪が弾きます」
聖子の講演を聞きながら、恭介はピアノを弾いていた。
祖母の話は恭介に、リアルな映像を想起させる。
ピアノの前にいながら、いつしか恭介もウミガメの産卵を見守っていた。
「ああ、もうだめ。
卵が襲われてしまう!
私がそう思った時です。
上空から一羽の鳥が舞い降りて、イタチを追い払いました。
月の光に照らされた、美しい翼の鳥は、ウミガメと卵を守るために降臨した、救いの主に見えました。
イタチは、何度か鳥の攻撃を受けると、何処へ去っていきました。
どのくらい時間がたったのでしょうか。
ウミガメは産卵を終えました。
そして私の方へと歩み寄ってきます。
ウミガメは私の顔をみて、涙を流しました。
人間が、悲しいとき嬉しいときに流す涙と違うことは、私も知っていました。
それでも、自然界の生き物と、心が通じ合ったように感じられたのです。
ウミガメの涙が私の手の甲に落ちました。
イタチの爪で、私の手の甲には、傷がついていたのです。
ですが、ウミガメの涙が伝わった時、不思議と傷は癒えました。
私のささくれていた心も、この時に癒えていたのです」
恭介にも、その映像がありありと見えた。
大きなカメと美しい翼の鳥。
それはきっと
恭介を助けてくれた、聖なる人外の存在。
創介もまた聖子の話に引き込まれていた。
話術による追体験。
離れてしまってからの、母の苦労と苦悩が創介に伝わっていた。
「命はつながっています」
聖子の言葉は、創介の胸に刺さる。
あなたとあなたの孫のつながりを
俺は、絶ってしまった
すまない
心の中で創介は詫びる。
創介のサングラスは、内側が曇っていた。
少し視野を阻害された創介は、この時、気付けなかった。
わが身とわが身に関わる者への悪意の集合体に。




