【第四部】 追跡 三章 交差する光と闇 7
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気が付くと、床に倒れた女性の姿は消えていた。
店内は何事もなかったように静かである。
「そもそもね」
景之は更に追加で「大判焼き・メープルクリームかけ」をオーダーした。
「日本の厚労省の年間予算、だいたい三十兆円くらいなんだけど。それが適切な額かどうか、ともかくね。内訳は、年金関係十一兆。介護関係一千億。子育て支援に七百億。生活支援に五百億。感染症対策って四百億にもいかないの」
いきなり景之は話題を変えた。恭介も数字に弱い方ではないが、こうもすらすら並べられて、「はあ」としか言えない。
「悪質な感染症が流行ったら、ろくな対策とれないよね」
「悪質って、例えば?」
「最近で言えば、鳥インフルエンザ。H5N1」
「鳥のインフルエンザ、ですか」
そういえば、時折ニュースで聞く病名である。文字通り、鳥類の感染症として。
「そう。鳥の感染症。今のところは、ね」
確かに、鳥インフルエンザウイルスは、まれに人に感染することがあるが、今のところ人から人への感染は確認されていない。
しかし、鳥から豚に感染が起こると、豚から人への感染は容易となり、豚や人の体内で突然変異の危険性が高まる。既にWHO(世界保健機関)は、十年以上前から、鳥インフルエンザのウイルスが変異して、人類のパンデミックを起こしても、おかしくないと警告している。
「そういったウイルスの突然変異の研究、やってたの。藤影創介さん」
「えっ!」
「それでね、今、藤影さん、米国の企業を買収する話が大詰めなんだけどね、相手の企業さん、予防接種の製造に関して、いくつか特許を持ってるところ」
恭介の知らない事実が、明かされていく。
ついていくのが精一杯だ。
「なんで買収話が進んだかといえば、藤影創介氏の研究実績があったからなの」
「だから今は、藤影創介を表舞台から降ろすことは出来ない。というわけね」
瑠香が大判焼きを半分食べながら言った。
「そうなのよ。さすが瑠香たん!」
実は年内、藤影本社の四半期決算を目安に、恭介は手持ちの株をすべて集めて、臨時株主総会開催と社長退任の要求を出そうかと思っていた。
時期尚早だったのか。
あるいはこれが、恭介の今の実力か。
「恭介くん。君は大変賢いし、勇気も度胸もあるよね。実際、君と君のお友達のおかげで、若者の間で困った流行をしていた、ドラッグの取り締まりも上手くいった」
瑠香はお茶請けで出された塩豆を、ぽりぽり食べながら頷いている。
「ただね、悪とか正義とかって、そんなに簡単に判断できるもんじゃない。法律という物差しがあってもね。君が藤影さんと対等に戦いたいのなら、もっともっと社会経験と、実績を積んでいかなければならないって僕は思う」
なるほど。
恭介の腑に落ちる景之の言霊である。
「ってまあ、ここまでは、現実社会のお話ね。こっからが本題。僕が今、日本にいる理由。恭介くんにも大いに関わること」
そう言って景之は立ち上がり「ご馳走さん」と言っただけで、支払いもせず外に出た。
店の前には一見タクシーのような、一台の黒い車が停まっており、景之はさっさと助手席に乗り込んだ。
恭介と瑠香も、慌てて後部座席のドアを開けた。




